何気なく、隣に立つその人(男性だった)を見て、思わず取り出した本を落としてしまう。

『あ…』

その瞬間、男性の方も、落ちた本に視線を向け、そのままこちらに視線をよこす。

ほんの一瞬。

時間にしたら0.1秒にも満たないかもしれない。

思いがけず視線が重なり、なぜか逸らせなくなってしまう。

年齢は30代前半だろうか?

こちらを見るその目には、“太い黒縁の眼鏡”が、かかっていた。

声を発したくせに、その後何も口にしない自分に、怪訝な顔で『何か?』と、訴えかけられているような気がして、

『えっ…と、な、何でもないんです!』

私は急いで落ちた本を拾うと、そのまま元の書棚には戻さず、一目散にその場を立ち去った。

よく考えてみたら、相手がまだ何も言っていないのだから、声を発する必要は全く無かったのに。

そう思いつくと、今更ながら、顔から火が出るほど恥ずかしい。

とりあえず、一旦かなり離れたブースの陰に身をひそめ、早まる心拍数を落ち着かせる。

私としたことが、どうかしている。

偶然にも、昼間話していた高橋さんの妄想話通りの男性が現れ、瞬間、現実と妄想の境目がわからなくなるなんて。

“馬鹿馬鹿しい…あれは、あくまでも高橋さんの妄想でしょ”

先程から鳴りやまない心臓の音を鎮めるように、胸の前で持っていた本を抱きしめると、いつもの冷静さを取り戻すように、大きく深呼吸をしてみる。



暫くして、何とか落ち着きを取り戻すと、さっき手に取った歴史小説をあのまま持ってきてしまったことを思い出し、元の書棚に戻すために、もう一度先程の場所に戻るしかない。

さすがに、もういないだろうと、こっそり通路からそのブースを覗くと、案の定そこには既に先ほどの男性の姿はなく、代わりにデップリとした50代のオジサンが、油ギッシュな額の汗を拭きながら、熱心に本を探していた。

…見れば、その目には”太めの黒縁眼鏡”。

思わず吹き出しそうになり、持っていた本で口元を隠す。

幸い今回は気付かれることなく、そっと書棚に本を戻し、早々にその場を立ち去ることに成功。

狭い通路を抜けて、メインの少し開けた場所に出てから辺りを見回し、やっぱり吹き出しそうになる。

ほらね。

妄想なんてこんな不確かなものなのよ。

見渡す限り広い店内にいる男性の半数以上が眼鏡をかけ、更にそのうちの1~2割が【黒縁の眼鏡】をかけていた。

それに気づけば、先程の自分の失態がひどくバカらしく感じ、これも全部高橋さんの妄想のせいにしてしまおうと、心に決める。

明日、彼女に会ったら “運命の人にたくさん逢えましたよ”と報告しなきゃ。

ふと、近くにあった壁掛け時計が視界に入り、時刻が既に7時半を過ぎていることを知る。

『やだ、もうこんな時間…』

そうつぶやくと、今日ここに来た本来の目的である本を、事前に調べてあったブースに取りに行き、そのまま会計の為、レジに向かった。