『栞』

ドキッ

これって、間違いなく私の名前の方…だよね?

年上とはいえ、知り合ったばかりの男性に、いきなり呼び捨てで呼ばれ、面食らう。

『この後、時間あるかな?』
『は?』
『君と、もう少し話がしたいんだが…』

見知らぬ男性にいきなり誘われるなんて、高橋さん達がよく話しているバブリーな時代の話だけだと思っていた。

目の前では、何故か自信満々の彼が、私の返事を待つ。

『私…』
『ん?』
『私、そんなに軽い女に見えますか?』

返事の代わりに、軽くにらみつける。

『まさか』

即答で返ってきた、彼の返事は、なぜか意外なものだった。

『どちらかといったら、申し訳ないが、君は男性が声をかけたくなるタイプの女性ではないね』

真顔で、結構失礼なことを言った後、今度は真剣な眼差しで続ける。

『言っておくが、ちなみに、僕も女性を誘ったのは、これが生まれて初めてだ』

吸い込まれるような澄んだ眼で見つめられ、暗示にかかったみたいに、動けなくなる。

『嘘』
『嘘じゃない…と言っても、何だか嘘くさいね』

今度は屈託なく笑う。

いったい何が起こっているのだろう?今更ながらに、高橋さんの妄想話をもっとよく聞いておけばよかったと後悔する。

この先の展開が読めず、途方に暮れる。

先程から、心臓は割れんばかりにバクバクと、今すぐにでも飛び出してしまいそうだ。

これは現実なの?

それとも、高橋さんの妄想の中?

『あの…私、何が何だか…』

動揺する自分とは裏腹に、なぜか彼は至極冷静に、落ち着いているように見える。

『君は今、僕がとても冷静に見えているかもしれないが、これでも僕は、かなり動揺している』

一瞬、まるで心を読まれたような錯覚に陥る。

彼がまた一歩、私に近づき、

『こんなことあるんだな』

独り言のようにつぶやいた。

彼の後ろには、みなとみらいの夜景が見渡す限り広がり、7階から見えるその景色はカラフルな宝石のようにキラキラと輝きを放つ。

遠くに見える観覧車は、時刻を刻むと共に、虹色に変化し、最高の夜景を演出してくれているようだ。

…もう、自分を偽るのはやめよう。

彼のその低い柔らかな声に、自分の波長を合わし、自分の気持ちに抗うのをやめてみる。

多分そういうことなのだ。

不思議なことに、彼が次に口に出す言葉は、容易に想像がついていた。

ううん、本当は最初から、わかっていたような気もする。

重なり合う瞳が小さく揺れる。


『僕が君に惹かれたように、君も僕に惹かれているだろう?』


この瞬間、運命に導かれるように、私の恋がスタートした…。