私、芹沢優菜は、ある男と出会ってから雨の日が好きになった。
それは私が二十歳の頃に出会った男。
一般的な高校を卒業した私は自慢できる学歴があるわけでもない。
高校卒業と同時に生まれ育った群馬県の実家を出て、何の目標もなく東京に来た。
わずかな貯金を手に部屋を借りて、バイトからバイトの往復を繰り返した生活。
何の取柄もない私が即採用になる職場と言えば、基本的に飲食系や販売系の仕事である。
東京は飲食店や販売系の仕事が腐るほどあり、年中募集している。
飽き性な私が根性なく仕事を辞めたところで、バイト先はすぐに見つかる。
二十代の私は飲食店や販売系では需要のある年代だからだ。
バイトより正社員として落ち着きたい気持ちもあるものの、正社員として就職する気にはならなかった。
私は接客業が大好きなわけではない。
でも面接の歌い文句は「人と接する仕事が大好きです」と笑顔で答える。
だけど本音は違う。
人と接することが大好きなわけではなく、飲食店の独特の雰囲気が好きだ。
十代の頃から接客業の仕事をしていると自分自身の必要性を少なかれ感じとれる。
学は必要ないが、だからと言って馬鹿では務まらないのが飲食店従業員である。
接客業は、マニュアル的な知恵よりも臨機応変な対応や瞬発力が必要だと思っている。
相手によって柔軟な対応、頭で考えるよりも先に実行することが大事だと思っている。
私は瞬時に相手に対して臨機応変な対応ができる。
自分で言うのもなんだが生きる上での計算ができる女だと思っている。
だからこそ、私は面接合格率が高い。
面接担当者との相性。
面接担当者との相性で「これは採用される」と結果を聞く前に感じることができる。
今日の面接に勝算があるか何となくわかるものだ。
接客業で採用されるポイントは、根拠のない自信にも満ちた笑顔である。
目をキラキラさせて笑顔で答えることや、相手の希望条件に「はい」と二つ返事で答えることだ。
採用されて実際に勤務してしまえば予定など適当に変えることができる。
要するに、数カ月先のことを考えることはない、その場のことだけ考えていれば良い。
明るく対応して相手の要望に二つ返事で答えていれば基本的に採用率は高い。
面接担当者に「この子、接客業に向いている」と思われれば勝ちだ。
偉そうなことを言っている私だが、早い話、面接慣れしているところはある。
私は美人でもないし、可愛いとチヤホヤされるような外見でもない。
全てが標準的な外見と言って良いだろう。
やや色白の肌、適度な目の大きさと口、鼻。
眉毛も目も吊り上がっていないから気が強い女とも思われない。
自分で言うのも何だが、明るく優しい印象を与える女で接客業向き。
身長も体重も一般的で太ってもいないし、痩せてもいない。
ただバストは少し豊満で、それだけは少し神様に感謝している。
飲食店のエキスパートのように偉そうに言ってみたものの、私が勤めてきた店は小さなレストランやチェーン店ばかりである。
二十歳を超えた頃から、何となく自分自身が少し変わりたいと思い始めてきた。
今の職場で働いていたら何も起こらない。
居心地は良いけれど、ときめくようなこともない平凡な毎日。
少し高望みをしたくなった。
本当の私は自分が思うよりプライドの高い女であるし、華やかな人生を期待している。
もっとドラマチックな恋愛をしたいと思っている。
だからこそ、次から次へと職場を変えているような気がした。
それが本音だ。
何気なく求人サイトを見ていたときに偶然に目を止めた麻布十番の飲食店。
スマホの求人サイトで紹介する店内画像は、ラグジュアリーな店内の様子だった。
麻布十番の飲食店「芹亜」は、隠れ家のような雰囲気のBARレストランだ。
夜が似合う大人のBARに私は一瞬で魅了された。
男性社員は全て黒服、女性は白シャツに黒ベスト、タイトスカートである。
フルーツを使用したカクテルは、全て生の果物を絞り本格的。
バーボンのシングルロックも、一番安い価格ですら千円以上する。
自分自身、このような高級なBARに行くことはないし、連れてってくれる相手もいない。
もちろん夜がメインの飲食店で働いたこともない。
偶然見かけた求人サイトの画面を見ていると私自身の妄想は膨らむばかりだった。
何となく自分自身の垢抜けない人生が変わるような気がした。
それは単純な憧れでしかない。
夜の世界への憧れと興味だった。
夜がベースの仕事だけあり時給も良い。
今まで近隣の小さな飲食店で働いていた私にしてみれば1300円の時給は魅力的過ぎる。
何かが起こるような気がしてならない。
私は、すぐに面接希望の電話をかけた。
面接担当は芹那で店長をしている赤井俊之。
「芹沢優菜・・・優菜って可愛い名前だね」
店長の赤井は優しく私を見て微笑んだ。
マニュアル的な面接ではなく、くだけた会話で和んだ雰囲気に私も自然と笑顔になった。
その瞬間、この面接に勝算ありと感じた。
私は惚れっぽい性格である。
あらゆる職場を転々としてきたが、必ずと言って良いほど職場の誰かを好きになっている。
だからと言って男関係が盛んなわけではない。
正直なところ、片思いばかりで心はピュアだ。
だが、本当の自分自身はピュアと言えるほど心が綺麗なわけではない。
本当の私は、もっとだらしがない人間のような気がする。
本当の私は、大の男好きだと思う。
大好きだけれど男に縁がないだけだ。
惚れっぽい私の性格から考えると男性スタッフが多い芹那は最高の場所だ。
芹那の店で働くスタッフはそこそこ身長と顔が整っている。
更にカッコ良さを助長させる黒スーツは、上中下の下の男ですらカッコ良く魅せる。
男にとってスーツは無敵の制服である。
面接を担当してくれた店長の赤井は大人の色気を感じさせた。
赤井は実に穏やかな性格で周囲を惹き付ける魅力があった。
店長と言う立場ながらギラギラ感がなく、とても話やすい相手だった。
赤井と私は店長とバイトと言う関係ではあるが相性が良いのだろう。
すぐに冗談を言い合える関係に変わった。
赤井は私より十歳以上年上の三十三歳である。
赤井の少し腫れぼったい奥二重の目元と少し長い黒髪、髪の毛を書き上げるしぐさ。
十歳も年上でありながら可愛いと感じていた。
赤井の身長は180センチと高く、細マチョ体型は私が好きな男の体型である。
特に赤井を大人の男と感じるシーンは、煙草を吸っている姿だった。
赤井はヘビースモーカーである。
暇さえあれば、裏口付近でセイラムライトのタバコを吸っていた。
「またタバコ?店長のくせにすぐサボる・・・」
「そー言う、お前もサボりにきたのかよ。」
私は喫煙者ではない。
だが、赤井と話したい為にわざわざ缶珈琲を飲みに裏口へ行く。
赤井自身も、そんな私の行動を察知しているように感じた。
店長の赤井が裏口でタバコを吸っても文句言う人間は誰ひとりとしていない。
店長の赤井が暇を見て一服しているのだから、スタッフも気を抜いていられる。
赤井独特の雰囲気は私達スタッを癒していた。
少なくても私自身が一番癒されている。
私にとって芹那は居心地が良い店である。
その理由のひとつは、好きな相手が職場にいることである。
私は赤井と言う男に恋愛感情を抱いている。
赤井と一緒に仕事ができることは楽しい。
赤井は時折、疲れた表情を見せる。
それはスマホの画面を見た後に多い表情。
赤井が疲れている理由は、彼女からの束縛だった。
赤井には紀子と言う彼女がいる。
赤井と紀子は同じ年齢で、現在同性生活をしている関係である。
紀子と赤井の出会いは、紀子が職場の仲間と芹亜にふらりと立ち寄ったことだった。
その後、紀子は一人でも芹亜に立ち寄り、常連客となった。
紀子の狙いは、赤井だった。
カウンターでドリンクを作る赤井に話かける為に紀子は日々通い続けた。
紀子の積極的なアピールの果て、赤井と紀子は男女の関係になり恋人関係になった。
今でも紀子は女友達と芹那に来店することがある。
紀子の第一印象は、とても大柄で貫禄のある女性だ。
何故、赤井が紀子を選んだのか、正直なところ私には理解ができない。
紀子はとにかく束縛性の強い女だ。
「お前のモノはオレのもの、オレのモノはオレのモノ」そんなアニメのキャラを女版にしたような性格である。
裏を返せば赤井が大好きだと言うことだが、その愛が赤井にとっては重く感じていた。
同棲生活は紀子から声をかけて始まった。
水商売で荒んでいる赤井の食生活を心配していたが、それ以上にOLをしている紀子と水商売をしている赤井では生活時間も真逆だった。
束縛性が強い紀子にとっては耐えられないことである。
半ば強引に同棲生活をスタートさせた。
赤井の本心は同棲し束縛されることは窮屈と感じていて乗り気ではなかった。
だが物事を深く考えることさえ面倒に感じた赤井は紀子のペースに流されるままに同棲生活をはじめた。
紀子は嫉妬深い女性である。
水商売をしている赤井が他の女と関係を持たないか心配で仕方ない。
赤井が寝ている時や入浴時に赤井の携帯電話をこっそりチェックしていた。
最悪なことにGPSまで付けようとしたこともあったそうだ。
さすがに赤井はGPSに関しては断固拒否して回避することができた。
女と遊んで朝帰りをしたワケではなく、ただ仕事が長引いて帰るだけでも、「女と浮気した」と詰め寄ることもある紀子。
紀子と赤井がケンカする内容は、ほぼほぼ浮気疑惑の女絡みだ。
この手の話は全部、赤井と仕事帰りに飲みに行き赤井本人が私に話してくれた。
どんなに親しくなっても私と赤井が男と女の関係になることはない。
赤井は私のことを子供扱いして女として見ていない。
彼女の束縛や嫉妬に疲れている赤井に「別れたらいいじゃない」と私は簡単に言った。
だが赤井は「そんな簡単に別れられないでしょ」と疲れたように笑って答える。
赤井は麻布十番の芹那から紀子と暮らす池袋のマンションまでバイクで通勤している。
私は雨の日が大好きだった。
雨の日は赤井がバイク通勤をしないからだ。
私は赤羽橋のアパートから自転車通勤しているが雨の日は電車通勤。
雨が降る日は私と赤井は始発時間まで一緒に飲みに行くことが定番となっていた。
雨の日は私が赤井を束縛することができる。
赤井は飲みに行くと毎回おごってくれる。
彼女も赤井も共働きで財布は共に別々である。
更に赤井と紀子が同棲しているマンションは、紀子の持ち物だ。
紀子の家は資産家で、都内に三件ほど雑居ビルやマンションを所有している。
十五万円の賃貸料も赤井は支払う必要がない。
赤井の給料は、ほぼ自分自身の為に使うことができる。
簡単に紀子と別れることができない理由の一つは、金銭的な問題もなくはない。
雨の日は二人で飲みに行く回数が増える程、私達の関係は近くなって行く。
私の感情もより強くなり赤井を求めずにはいられないほどに変えて行った。
そして赤井の関係にも勝算があることを私自身、少し感じはじめていた。
きっと何かキッカケがあり少し背中を押してくれたら、私は本性を見せてしまうだろう。
私と赤井の関係を大きく変えた日、それは強い雨が打ち続けた九月末だった。
芹亜の閉店作業を進めて、スタッフの山田が私達よりも四十分前に店を出た。
赤井と私は、共に制服から着替えて、いつものように渋谷までタクシーで移動しようと思っていたが入口の扉を開けて、外の様子を見たが赤井と私は互いに目を合わせて扉を閉めた。
山田が店を後にした時よりも激しく雨が降り続いていた。
1m先が見ない程の強い雨粒で真っ白な光景だったからである。
深夜の時間に目の前が見えないほどの豪雨は珍しい。
私と赤井が出会って初めて訪れた大雨の日。
「これはすごいな?店内にいようか」
「うん・・・」
私と赤井は店内のソファー席に腰を掛けた。
赤井が注いでくれたウィスキーを飲みながら、雨が止むまで店内で時間を潰した。
だが雨は降り止むことがなく、いつまでも強い雨音が響いていた。
赤井のスマホも彼女からのLINEの通知が何回も鳴り響いていた。
「店で寝てから帰宅する」そんな赤井の通知に紀子は納得したのだろう。
紀子からのLINEの通知音が止まった。
きっと赤井が一人で店にいると思っている。
隣に私がいることなど想像もしていない。
もともと赤井は自分から率先してしゃべりはじめるタイプではない。
煙草を吸ってウィスキーを飲んでいる。
そして私の聞いた質問に答えてる。
彼女との関係も、もともと私があれやこれやと聞いた結果、赤井が赤裸々に答えた。
赤井はスマホを無造作に置き、煙草に再び火をつけて溜息混じりに煙を吐いた。
この日は、いつになく二人の空間が静かに流れていた。
BGMも流れていない。
広い店内に二人が座るソファー席だけスポットライトがあたる。
二人のムードを高めてくれる。
数時間前までの仕事の疲れも、ウィスキーと一緒に身体に染み渡る。
私は赤井の肩に顔を傾けた。
激しい雨と静かすぎる空間が私をより大胆にさせている。
「眠い?寝てもいいよ」
赤井の低いトーンが心地良い。
「眠くないよ」
「じゃあ、何で寄りかかってきたの?」
「赤井さんが好きだから」
赤井はクスッと笑ってタバコを吸っていた。
ウィスキーの氷がグラスをふれてカランと音を響かせる。
「酔っている?」
「酔っていないよ」
私は赤井の肩から顔を離し、赤井の顔を見て呟いた。
赤井は黙ったまま、私にキスをした。
軽いキスから求め合うような濃厚なキスに赤井は私を求めてきた。
私も赤井を求めて赤井を抱きしめた。
お互い何かが弾けるように何度も舌を絡めた。
赤井の少し大きな手が私の髪の毛を撫でるように触りソファーに押し倒した。
赤井の顔が唇から胸、乳房へ移動して行った。
今夜、激しい雨が降り続けなければ私と赤井は一線を越えることはなかった。
いつものように行き慣れた渋谷の居酒屋で酒を飲んで、始発が走るのを待っていた。
何故、この日は激しい雨が降り続けていたのだろう。
天気予報も想定外の強い雨が降り続いた。
静かすぎる店内に微かに聞こえる激しい雨音と、私の喘ぎ声と赤井の激しい息遣いが響いている。
私は処女ではないが、こんなに男から激しく愛された記憶はない。
赤井は何人も女を抱いてきたのだろう。
赤井とのセックスで私は骨からとろけていた。
雨の日、私は彼女から赤井を束縛できる。
雨は私と赤井の距離を縮めるBGMになる。
雨が私の恋を応援してくれるような気がした。
男と女の関係は突然に始まる。
何の前触れもなく二人を繋ぎ合わせる。
私と赤井の関係は恋と言えるものなのだろうか?そんな可愛くセンチな気持ちの甘酸っぱい感情なのだろうか。
きっと違う。
私と赤井と間に恋と言うものは何もない。
ただ私は赤井とセックスがしたかたのだ。
私がキッカケを作れば、二人の関係は変わる。
それは私の中の想定内の出来事。
今夜の激しい雨、二人っきりの時間に私は勝算があると踏んだ。
赤井が私からのキッカケを拒否するとも思えない。
私は赤井のことを愛している。
勝算が見えないのなら駆け引きをしない。
勝算がある恋か、そんなことは多少あざとい女だったら判断できることだ。
自分自身の恋愛的感情に気づいてしまうと、そこから先は加速して行くだけである。
どうしたら自分自身の恋愛的感情を止めることができるのだろう。
それは自分自身にも分からない。
終わりなんて予想できるわけがない。
もし予想できるとすれば回避する方法を考えているし、回避できるのなら、永遠に終わりが来ない。
感情を抱いた男と女の間にチャンスは何度となく訪れる。
ある日、全て重なって男と女は一線を越える。
(ほら、今だよ)そんな風に誰かが背中を押してくれたように少し大胆になる。
最初のキスを交わせば、そこから先は本能のままに行動したくなる。
一線を越えた私と赤井は当然のようにセックスをする関係に変わった。
雨の日は居酒屋ではなく、ホテルで愛を確かめ合う関係に変わった。
何の悪びれた気持ちもなく罪悪感もなく、私は赤井との肉体関係におぼれていた。
赤井から「愛している」と言われたことはない。
それでも、私は赤井の愛を感じていた。
優しい口づけ、愛撫、身体が触れ合う度に愛を感じていた。
でも実らない愛だと薄々感じていた。
赤井は同棲生活に疲れを感じている。
でも別れることは出来ない。
「彼女に対して愛情はない」と私に言った。
続けて「愛情はなくても情がある。情ってヤツは一番厄介なんだ」と呟いた。
赤井と彼女は20代の頃から付き合い、かれこれ六年目になる。
紀子と出会った頃の赤井は店長ではなく黒服のボウイだった。
給料も紀子より低く貯金もロクにない赤井。
言わば、赤井の低迷期を支えていた紀子に赤井は情を感じているように感じた。
最近、彼女は結婚を求めている。
当然と言えば当然なことだろう。
六年以上も付き合って三十代を超している女である。
周囲では結婚はもちろん、出産話ばかりで紀子が焦る気持ちはわからなくもない。
でも私は納得することが出来なかった。
きっと私の立場になれば誰だって納得などできるわけがない。
紀子と同じように私自身も赤井を愛しているのだから、どんな理由があろうと納得するわけがない。
紀子は手料理を作らないことが多いと赤井から聞いたことがある。
基本的に紀子は高級志向である。
お金に不自由をしたことがないのだろう。
紀子はOLの仕事をしているが、それは生活の為ではない。
あくまで世間一般的なプライドの為に仕事をしているのだろう。
紀子が無職になったとしても、実家に生活費を送ってほしいと頼むことができる。
最終的には実家に戻り家事手伝いとして生活することも可能な身である。
だからこそ紀子はテイクアウトや外食メインの生活になるのだろう。
そんな話を赤井から聞く度に「私なら手料理を毎日作ってあげるのに」と思っていた。
私なら赤井を幸せにしてあげられると確信していた。
今思えば、私は世間知らずガキだと感じる。
手料理で繋ぎ止めることができる、赤井に尽くすことで紀子から奪えると思っているのだから幼稚な考え。
やはり情と言うものは、私が想像するよりも強いものである。
赤井とセックスをする関係になってから、私は赤井に「付き合って欲しい」など求めたことは一度もない。
赤井を失いたくないからだ。
赤井から「面倒な女」と思われたくないからである。
日々仕事で疲れて紀子の束縛に疲れている赤井にとって、私と過ごす時間は最高だと感じて欲しかった。
私と過ごしたいと思わせる為に私は赤井が嫌がる言葉を口にすることはしない。
私が求めたりすれば赤井は、きっとうんざりするだろう。
私との距離をとるようになるだろう。
それは私にとって一番辛いことになる。
赤井と抱き合っていることで、私自身は愛されていると疑似恋愛することができる。
言葉に出来ない感情、抑えることが辛い。
裏扉でタバコを吸っている赤井と缶珈琲を持った私は出会った頃のような笑い合える会話はできない。
ただ、スタッフに隠れて濃厚なキスを交わす。
そんな子供だましのようなイチャつきが私を自惚れさせて私の心を満たしてくれる。
どんなに濃厚キスを交わしても、結局、赤井
は紀子の元へ帰る。
それが情と言う強い束縛だった。
私にうんざりすれば赤井は私と距離を置き、きっとセックスをすることもなくなる。
私と赤井の間には強い情がない。
今の私は隙間を埋める存在でしかない。
それ以上でも、それ以下でもない。
雨の日は、店が終わってからタクシーで私のアパートか渋谷のホテルに移動して一回セックスして、抱き合うように朝五時半までベッドで寝ている。
肌と肌の相性、ぬくもりが私を満たす。
私と過ごす時間は赤井が幸せであり癒しだと私は自分勝手に思い込んでいた。
熟睡している赤井の顔を見る度に私を勘違いさせて行く。
この時間が永遠に続けば良いのに。
私は赤井の浮気相手にしかならない。
本命になれないとしても、それでも私は幸せだった。
赤井とセックス回数を重ねるほど私の心はわがままになって行く。
そのうち赤井が彼女を捨て、私を選ぶと自信
過剰なまでの勘違いをしていたし、赤井を自分の所有物にしたくて仕方なかった。
いつだって雨は私に味方してくれると思っていた。
季節は十月末、深夜一時半過ぎ、店の営業時間が終わり、それぞれ自宅に戻った。
真っ暗な空に星ひとつない、重い空気が漂っている。
大粒の雨が容赦なく一気に降り続けた。
地面をたたくように激しい雨だった。
一時間前に激しい雨が降ってくれたら、今夜も赤井と二人で朝まで過ごすことができた。
私は部屋の窓から、降り続く激しい雨を見て溜息をこぼした。
視界が悪くなる豪雨を見て私は少し怖さも感じた。
翌朝は、快晴な青空が広がっていた。
いつものように気持ちの良い十月の夕風が吹く時間に私は自転車を走らせた。
「おはようございます」
階段を下りて、店の扉を開けて声をかけた。
店内には、店長の赤井の姿がなく、主任の大塚と本社のスタッフ数人が集まっていた。
重たい空気の中、主任の大塚が私に声をかけた。
大塚の声のトーンに私は妙な胸騒ぎを感じさせた。
何か問題が起こったと悟っていた。
「優菜、おはよう」
「おはようございます!あれ、赤井さんは?」
「うん、実は・・・赤井さんが昨夜の雨で事故を起こして」
「え?」
小さな声の低いトーンで話す大塚の言葉に私は、一瞬氷ついた。
手で口を塞ぎ、大塚の目を見たまま動きが止まった。
「今朝、彼女さんから電話が来た」
「赤井さんは?大丈夫なんですよね?!」
私は、主任の大塚に詰め寄るように聞いた。
「そう、とりあえず命に別状はないらしいけど、肋骨とか複雑骨折しているから、当分は入院となると言っていた」
「退院したら、赤井さんは戻って来ますよね?」
「それはどうかな、赤井さんとは直接まだ話していないけど、彼女さんからは、はっきりと退職するようになりますと言われたからね」
「そうなんですか」
「ま、赤井さんからの連絡待ち状態だけど、 だから当分はハッキリするまで店長不在になるけど」
「そうですか・・・」
昨夜の強い雨が私と赤井の関係を断ち切ろうとしていた。
赤井不在のまま、芹那は日々過ぎて行った。
私は、赤井にメッセージを送った。
「身体、大丈夫ですか?」一言程度のメッセージは既読になるものの、返信は来ないまま時が過ぎた。
一か月が過ぎる頃、ラインの友達欄から赤井の名前が消えていた。
本社には赤井から退社する旨の連絡が入ったと人伝えに聞いた。
仲間の一人が赤井に電話をしてみたが「現在使われておりません」と返ってきた。
きっと電話番号を変えてしまったのだろう。
それは彼女が機種変更と同時に電話番号まで変えるように言ったのかもしれないが、結果的に私は赤井と連絡取り合うことは一切絶たれた。
赤井の退職と同時に主任である大塚が店長昇格になり、何ごともなかったように芹那は動いている。
半年も過ぎると赤井の存在を皆忘れて、誰一人として赤井の名前を口にする人間はいない。
愛情はないけれど情がある。
私は厄介な情にあっさりと負けた。
そして私と赤井を結びつけた雨は、私と赤井の関係に終止符を打った。
私は自分勝手な自惚れた感情が愚かなことと感じた。
赤井に愛されていたと感じたセックスは単なる肉体のセックスにしかならない。
赤井は私が思うような愛情深い優しい男ではない。
それは私の中の妄想にしかならない。
他人の感情を奪うことなんて簡単に出来るわけないのだ。
例え、どんなに愛していても。
それは、一方的な思い込みにしかならない。
セックスなん、愛情がなくても本能とタイミングが一致すれば出来る。
セックスで愛を感じるなんて、本当に私は夢見る夢子だと思った。
彼女の情に勝てるなんて本気で思っていた。
あの日の激しい雨は愚かな私を高笑いしていたのだろう。
もし赤井が私を愛していたのなら連絡が途絶えたとしても、私の部屋に来ることは可能だ。
赤井は私のアパートの場所をしている。
赤井が私のアパートを訪ねてくることは数カ月過ぎてもない。
赤井にとって私は単なる隙間的な存在だった。
だとしても私は、もう一度だけ赤井に会いたかった。
もう一度、赤井とあの日のように身体を重ねたいと思っていた。
愛がないセックスでも愛を感じることができる。
愛がないセックスでも身体は満たされる。
私の願いは叶うことはない。
私の身体は、まだ赤井を覚えている。
もう二度と連絡も来ない相手であり、会うこともない相手のことを。
小雨振る休日、私は渋谷のハンズに買い物を頼まれて出かけた。
本音は「わざわざ自分の休日に・・・面倒」と思っているが、安請け合いする悪い癖。
赤井の代役として店長として働いている大塚と私は一線を越える関係になっていた。
私の中の眠っていた細胞に火を灯して目覚めさた赤井本人。
私は男なしでは生きていけない。
男に抱きしめられて愛されたいと思っていた。
ただ満たされない私自身の心を大塚で埋めているが、赤井とセックスをしたときのような幸福感はない。
小雨の中、早々と帰宅する為にスクランブル交差点で信号待ちをしていた。
背後から私に声をかけてきた。
「優菜?」
振り返ると男が傘をさして立っている。
その瞬間、渋谷の騒めきが聞こえなくなるほど、時が止まったように立ち尽くした。
「え、赤井さん」
ネクタイをして紺のスーツを着たサラリーマンスタイルの赤井は優しく微笑んでいた。
芹那で働いている時よりも更に痩せている赤井に水商売の香りはしない。
私と赤井は久しぶりに渋谷の居酒屋に向かって思い出話に花を咲かせた。
赤井は紀子と結婚し、紀子の父親が経営している不動産会社で営業職をしていた。
ビールジョッキを握る赤井の薬指に結婚指輪が光っている。
紀子の願っていた通りの人生になっていた。
赤井も何となく芹那で務めていた頃よりも幸せそうに見える。
何もかもが上手く行っているように見えた。
「幸せそうだね」
私は赤井に少し嫌味を言ってみる。
赤井は私の嫌味に苦笑いを見せるだけで否定はしない。
久しぶりに仲間と遭遇して渋谷で飲んでくると言う紀子へのLINEも私の見えないところで送って、紀子もあっさり納得する。
昔なら、何度も何度も紀子からLINEが来て、疑っていたはず。
でも望み通り結婚すると紀子は簡単に信用する女になっていた。
結婚と言う最大の武器を手にした女は強い。
私と赤井は3時間程居酒屋で飲んだ後、路地を歩きはじめた。
小雨振り続く路地、街頭が時折照らし、人はいない。
「ね、キスしてよ」
「何言ってるんだよ」
困ったように赤井は私の顔を見たが私は至って本気だ。
赤井は傘をよけて私に軽くキスをした。
私は赤井の背中に手をかけて舌を絡めた。
小雨が私と赤井の身体に濡らす。
「エッチしたい」
「・・・・」
赤井は、ただ黙っていた。
困惑して望んでなくても、赤井は私とラブホテルに入りセックスをした。
あの日のように赤井は流されるままに私との関係を拒否することなく私を抱いてくれる。
赤井は、昔も今も優しい人。
本当は、私と身体を重ねることなんて望んでいないのに・・・
私の気持ちを傷つけることをしない。
そんな優しい男だと知っているから、私は聞きわけ悪い女になる。
私と赤井の関係に勝算はない。
赤井は自分の連絡先を言わない。
もう連絡をとる必要がないからだ。
私は察知している。
赤井本人が自分の口から連絡先を私に言わないのなら、あえて聞く必要もない。
私自身のどうでもよいプライド。
今、赤井にとって私は必要性がない。
今夜のセックスが本当に最後。
何故だろう、昔のように幸せを感じない。
優しさと情けに満ちたセックスじゃ幸福感はない。
翌朝、雨はやんでいた。
傘を閉じて駅まで向かい、私と赤井は互いの路線に乗り呆気なく別れた。
雨の日の勝算は、勝ち目が見えないとしても引き返すことができない。
人間は、あざとく考えて生きていても感情には勝てない生き物。
計算通りには進まない。
やっぱり私は雨の日が好きではない。
雨の日は忘れかけていた思いを蘇らせる。