『本当?曲によって唄えてるのと唄えてないのがあると思うんだけどなあ』


「そうですか?私はそうは思わないですけど……」


『うん……はっきりとここが駄目っていうのはわからないんだけどね』


「でしょ?だから大丈夫ですよ。もっと唄いこめば納得できるようになると思いますよ」


そうやって彼女はいつも僕を励ましてくれていた。

そして彼女はいつも僕には敬語だった。

この時の栞は大学生で、見た目からも明らかに僕よりも年下だった。

その話し方はこの先もずっと変わることはなかった。




*




僕が路上で唄うのは夜の10時くらいまでと決めていた。

それ以上唄い続けていても人通りは少なくなっていくだけで、路上で唄う意味がなかったからだ。

練習ならば家でも出来る。


でも、その日はいつもより帰りが遅くなった。

決して時間を忘れていたわけではなかったが、ただ、その日は無性に唄いたかった。

唄いたくて唄いたくて仕方がなかった。

普段は自分のオリジナル曲しか唄わない僕が、その日は他の人の曲まで唄った。

とにかく唄いたくて仕方がなかったのだ。

気が済むまで唄い尽くし、ようやく僕がギターをケースに仕舞った時、時間はもう夜の12時を回っていた。

それでも彼女は、僕の5メートル先の階段に座って、ずっと変わらぬ表情で聴いてくれていた。

夜の8時くらいから唄い始めて4時間余り……彼女はその間、何を考えながらどんな気持ちで僕の唄を聴き続けてくれていたのだろう。

彼女の表情からそれを汲み取ることは僕には出来なかった。

というよりも、僕の思考はまだ彼女の内面に触れてもいなかった。

ただ漠然とある、彼女の表面上の仕草や動きしか捉えていなかったのだ。


僕はいつも通り俯き、視線を泳がせながらそんな彼女に近づいて行った。