一通り唄い終わった僕は、とりあえずギターをケースに仕舞い、5メートル程前にいる彼女の元へゆっくりと歩み寄った。

彼女の傍に辿り着くまでの時間はわずか5秒くらいしかない。

でも僕は必ず視線を地面に落とし、彼女に近づいて行く自分のつま先を見ていた。

どこを見ながら近づいていけばいいのかわからなかった。

この時だけの特別な緊張と恥ずかしさがあり、それは照れ隠しでもあった。


栞の姿が視野の片隅に入って、そこで初めて僕は顔を上げる。

彼女と目が合うと、僕はすぐにそれを逸らしてしまうのだが、彼女はいつも変わらない優しい笑顔で微笑んでくれていた。

僕はそんな栞の隣に座った。

正面からだと目を合わさずにはいられないが、隣に座ると必要以上に彼女の方を見なくても話が出来る。

その行動は決して不自然なことではない。

そうすることで彼女に僕の内面を気付かれずに済むし、余計な気遣いもされずに済むのだ。


『どうかな?今日……上手く唄えてる?』


そんな切り口から会話を広げていこうとする。

すると彼女はいつもその優しい笑顔で「うん、うん」と何度も首を縦に振ってくれる。


でも、この頃の僕は唄に自信がなかった。

実際、彼女以外誰も足を止めてくれないのだから、それは言うまでもない。

栞が「いい」と言ってくれても、多くの人はそれを「いい」とは思ってくれていないのだ。

それでも僕は路上という場所で唄い続けていた。

何よりも唄うことが好きで、少しでも上手くなりたかったからだ。

だからといって、僕は音楽を仕事にしようとは思っていなかった。

それに、そこに目標があったわけでもない。

周りの音楽仲間のほとんどがプロになることを夢みて、日々の活動に精一杯の努力をしていたが、僕はあくまで趣味の範囲内だった。

ただ好きなだけで仕事にできるなら、この世界の全ての人の夢は叶うはずだ。

もちろん唄い続けてお金が貰えるならば、喜んでそこに就職するが……そんなに甘いものではない。

だから僕は小さな会社ではあるが、きちんと就職し正社員として働いていた。