僕と目が合うと彼女はいつも優しい笑顔で返してくれる。

そこに言葉はないのだけれど、僕にとってはかけがえのない瞬間であり、それがどれだけ僕の心に希望と安らぎを与えてくれていたことか……。


きっと彼女はその事実を知らない。


今も知らない……。




*




僕が唄う場所はいつもだいたい決まっていた。

この街の中心にある大きな駅ビル前の歩道。

目の前は途切れることなく、たくさんの人々が横切っていく。

それはサラリーマンであったり、OLであったり、学生であったり……子供から年輩の方まで、言えばきりがないくらいの様々な人々。

みんなどこに行くのだろうか。

初めはそんなことを考えてしまうこともあった。

でもそれぞれがそれぞれに帰る場所があって……ここはただ単にそこに辿り着くまでの通過点に過ぎない。

そして僕は週に二日ほど、夜にその通過点でギターを弾き、唄う……いわゆる路上ミュージシャン。

そして彼女は、僕の唄を初めて真剣に聴いてくれた人。


そんな彼女の名前は「永瀬栞(ながせしおり)」といった。

少しだけ茶色に染めた肩くらいまでのストレートヘア。それが彼女にはすごく似合っていたことがぼくの彼女に対する第一印象だった。

そして清楚でおしとやかに見えた彼女は、子供の頃から貧しくて悪い事ばかりしてきた(例えば万引きだとか喫煙などの事だ)僕が近づけるような人ではないような気がした。

悲しいけれど、自尊感情の低い僕はそのことをこの先もずっと引きずることとなった。


栞はいつも僕が座る場所から5メートル程離れた、駅ビルへ繋がる狭い階段に申し訳なさそうに座って僕の唄を聴いてくれていた。

おそらく彼女がその場所を気に入っていたわけではなく、僕がその狭い階段の前を自分の定位置に決めていたからだった。

つまり、僕と栞の関係の始まりは「歌い手」と「聞き手」ただそれだけだった。