横浜山手の宝石魔術師





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7月2日。

朱音は絶対に残業をしないという強い信念を持っていたのに、こういう日に限ってトラブルという物は発生して、定時より一時間以上遅れて会社を出るとLINEで冬真に謝罪と今会社を出たことを送れば、すぐに、わかりました気をつけて帰ってきて下さいとだけ返信が来ただけで特にお迎えは無いらしい。

あの一件後、朱音は冬真に帰る連絡をすることが苦では無くなった。

かなり遅くならなければ迎えに来ることも無く、連絡を忘れても冬真から連絡が来ることも無いので、少しそこは寂しく思うとこではあるのだが。

冬真も健人も仕事の調整をして今夜一緒に過ごすということで、昨夜は珍しくアレクから何か食べたいものが無いのか朱音は聞かれたのだが、『アレクが作る物は全て美味しいから何でも良いです』と素直に答えたところ、漆黒の目が丸くなった後眉間に皺を寄せて、わかりました、と去って行った。

健人がそれを見て『朱音は女慣れしてない男を天然で殺していくタイプ』と言えば、冬真は『それでストーカーに遭いそうですし、悪い男に簡単について行きやすいのも心配』と言って二人でうなずき合っているのを、とりあえず褒めてはもらえていないことを理解して朱音は複雑そうな顔をした。

ずっと今夜を楽しみにしていた朱音は顔がにやつきそうになりながら既に慣れたように洋館のドアを開ければ、なんとも食欲をそそる良い香りがロビーに充満していて、反射的によだれが溢れそうになっているとキッチンのドアから健人が出てきた。


「お帰り。食事はお前の準備が整えばスタートにするから、用意できたらまずはリビングに来いよ」


「ただいまです!はい!すぐ着替えてきます!」


笑顔の朱音は急ぎ足で部屋に入り、それを見て健人は笑みを浮かべてキッチンに戻った。


朱音が急いで着替えてリビングのドアを開ければ、入ってくるのがわかっていたようにソファー近くから冬真が笑みを浮かべ近づいてくる。

家の中なら上はシャツだけの時が多いのに、今日はカジュアルな明るい青のシャツに紺のジャケット、明るめの茶のパンツ姿。

イギリス貴族のご子息がプライベートでおでかけ、という感じがする。

そんな姿を見て、念のためワンピースに着替えておいて良かったと朱音は心の中で自分の選択を褒めた。

冬真は朱音の前に来ると穏やかに微笑み、朱音の胸が異様に高鳴りだして戸惑ってしまう。


「お手をどうぞ、お姫様」


手のひらを上にした状態で前に出され、朱音は条件反射でその上に右手を乗せてしまい慌てて手を引っ込めようとしたら、きゅっと大きな手が逃さないように力を入れた。


「この僕から逃げようなどとは、もう二度とお考えにならないことです」


朱音の前に顔を出すようにして冬真がにこりと笑う。もちろん手は掴んだまま。

ここはもしかしてイギリスで何か夢でも見ているのだろうか、あれだ、いわゆる転生もの的な。

目の前の麗しい人が綺麗なグレーの瞳で見つめてきて、お姫様、なんて呼んでくれば現実なのかと疑ったって仕方が無い。

そうまるであの時の王子様が目の前に・・・・・・。

朱音は冬真を見たまま今駆け抜けた感覚に困惑した。

もうおぼろげになりそうな彼の顔や姿を必死につなぎ止めているが、何故か冬真とあのロンドンでの王子様が重なって見える。

髪の色も、目の色も違うというのに。

いや、目の色は一度青くなったのを見たことがある。

でも普通目の色が変わるなんて事は無い。

朱音は彼のことが忘れられず、冬真と無意識に重ねてしまっているのか自分自身でもわからなくなるが、ついその疑問を口にしてしまった。


「冬真さんってロンドンに行ったことってありますか?」


唐突に聞いてきた朱音の顔も声も怖々聞いているのがよくわかる。


「もちろん。ロンドンに住んでいたこともありますから。

さて、皆が待っていますよ、お姫様」


笑顔で冬真はそういうと、戸惑ったように冬真を見上げている朱音の手を引く。

考えてみれば、あの王子様は冬真さんの親戚である可能性だってあるのに、何故冬真さんと重なってしまうのだろう。

ダイニングに入れば、健人が待ちくたびれたと笑って出迎え、椅子を引いてくれた冬真に礼を言いながら、朱音は心に浮かんできた疑問をなかなか消し去ることが出来なかった。