横浜山手の宝石魔術師




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『どうしよう、トイレに行きたい』


紅茶を沢山飲んだせいだろう、しばらくは必死に我慢していたのだがそろそろタイムリミットが近づいているのを感じ、とりあえずこの部屋にトイレは無いだろうかと朱音は探してみる。

リビングには二つドアがあり、男が先ほど出てきた方を開けるとそこはまたダイニングテーブルのある部屋で誰も居ない。

再度リビングに戻って最初に入ってきたドアを開ければ玄関ホール。

彼にはこの部屋を出る場合ベルを鳴らすように言われたけれども、きっと冬子さんの補佐をしているのだろうし、たかがトイレで呼び出すのも恥ずかしいし申し訳ない。

朱音はホールに出ると、一階にあるドアでそれらしいものをいくつかこっそり開けて運良くトイレを探し出し、ホッとしながらリビングに戻り時計を見れば既に十時近くなっている。

ちょうどお客様が来たときに来てしまったのだろう。

朱音はタイミングの悪さにため息をついた、その時だった。

外から突然、何かの倒れるような音。

音の感じからして玄関ホールでは無さそうだ。


『冬子さんに何かあったの?!』


朱音はソファーから立ち上がり、ドアに向かおうとした。

だが、その向かおうとしたドアがこちらに向いて開く。

その開いたドアからゆっくりと身体が見え、それは男の肩のようだった。

あの執事みたいな男だろうかと立ち止まってみていたら、そのドアから、ぬっと顔が現れた。


『オンナガイル』


ソレは、何かくぐもったような声でギラついた目をさせながら朱音を見た。

一瞬にして鳥肌が立ち思わず朱音は後ろに下がれば、すぐにソファーにぶつかりそのまま腰が落ちる。

座ったと言うより呆然として力が抜けてしまったという方が正しいのかもしれない。

ソレは顔の角張った男で、目は異様なほどギラつき、口は半開きでただおぞましい。

そしてそれは何故か透けていて向こうが見えている。

朱音は目に入る情報と頭の処理が追いつかず、ソレが近く迫ってきているのに恐怖のあまり動くことも出来なければ声も出せない。

朱音はただ目を見開き、目の前の異様なものに目が釘付けになった。


『モウ、コレデイイ』


その声が聞こえると、まるで身体を鮫肌のようなザラザラしたもので撫でられている感覚がして身体が強ばる。


「朱音さん!!!」


その大きな声で急に金縛りが解けたかのように反射的に顔を向ければ、美しい男性に思える人がワンピース姿で現れた。


「ぐっ!」


突然首が絞まったことに驚いた朱音が目を動かすと、半透明な男が自分の首を片手で締めていた。

必死にその手をほどこうとするのに、半透明なその手に触れてもぴくりともしない。


「朱音さん!目を閉じて!良いと言うまで絶対に開けないで!!」


朱音は見知らぬその男の言葉を何故かすぐに受け入れ、目をしっかりと閉じた。



冬真は執事らしき男が渡した物を勢いよく投げる。

それは首を絞めている男の背中を抜け、朱音の座る場所のすぐ近くにドスン、と刺さった。

投げたと同時に冬真は詠唱を始める。

朱音には英語では無い、聞き慣れない言葉が聞こえてきて、首から急に拘束が解けた。

思わず目を開けそうになったが今度は男の叫び声が聞こえ、朱音は目に自分の両手を強く当て下を向く。


『アツイ!アツイ!!』


男は熱い熱いと叫びながら、部屋の中をもがき苦しむように暴れ出した。

朱音の座るすぐ側に突き刺さったのは魔術武器であり、冬真が宝石と併せて作った儀式を発動させる媒体で、冬真の詠唱により真っ赤な宝石から勢いよく吹き上がった火が男に襲いかかるとあっという間に全身を包み込んだ。


「穏便に済まそうとしていたのにそのチャンスを自ら手放した以上、ご自分で重い責任を背負ってください」


すぐ近くで聞こえた男の声はとても冷たく、朱音の身体が強ばる。


「もう少しだけ我慢して、目を閉じていてくださいね」


自らの声でより怯えさせてしまったことに気が付いた冬真は、落ち着かせるように柔らかい声で話しかけ、朱音は声を出さずに頷いた。


「二度と誰にも、このようなことをしないと誓いますか?」



『チカウ!チカウカラヤメテクレ!!』


男は懇願するように何度もその言葉をくりかえす。

その度にいくつもの細いチェーンが蛇のように男の身体に巻き付き、最後、大きな鍵が現れた


「・・・・・・誓約完了」


透き通っているようで重々しい声がしたと同時に、カシャン、とその鍵が閉まると、男の姿は消えた。

あれだけの炎があったはずが、どこにもこの部屋には燃えた痕など無く、まるで何事も無かったかのように温かで穏やかな色のリビングへと戻っている。


「もう目を開けて良いですよ、朱音さん」


朱音は目を覆っていた自らの手を外し恐る恐る目を開ければ、その目に飛び込んできたのは驚くほどに整った顔の外国人の男だった。

少し長めのダークブラウンの髪の毛が天使の輪を作っているが、一番に目を奪われたのはその瞳。

キラキラと反射するように深いブルーの瞳が宝石のようで、思わず見入ってしまう。


『私のラブラドライトと同じ青だ。でもこの瞳・・・・・・』


その瞳の持ち主が朱音の座るソファーの前にひざまずき、そっと朱音の手を包み込む。


「大丈夫ですよ。大丈夫です。ゆっくり、呼吸して」


その小さな顔に似合わず大きな手に包み込まれ、自分が思っていたよりも身体に力が入っていたことに気が付き、手から伝わる温かさにやっと深く息を吸えた気がした。

冬真はその様子を確認し、今度は朱音の首元に視線を向ける。


「すみません、首を見せて頂けますか?」


朱音が理由がわからずにはい、と答えると、冬真の細く長い指が朱音の顎を軽くつかみ、顎を左右に動かして首元を念入りに見る。

触られた瞬間びりっとした衝撃が身体に走り、朱音はうろたえそうになった。

超絶に顔の整った男性にこんな間近で触れられている、それだけで朱音にとってはまずありえないシチュエーションだ。

そしてやっと朱音は気が付いた、彼は、あの冬子さんなのだと。

女神のような美しく優しい女性が、美の化身のような男性になって現れた。

何故かワンピースだし、男性だとは思いながらあまりに綺麗すぎてその確信がもてなくなってくる。

さっきは幽霊のような恐ろしい男に首を掴まれ、朱音の中では理解できない沢山のことが起きすぎて夢なのかと思いそうだ。

というより夢だった方が楽かもしれない。


「良かった、特に痕など残っていませんね」


そういうと手を離し、冬真は息を吐いた。


「怖い思いをさせてしまいました、本当に申し訳ありません」


「いえ・・・・・・。あなたはもしかして」


朱音が戸惑っていると、ワンピースを着た恐ろしいほどに美しい男は朱音の前に跪いたまま笑みを浮かべた。


「ご挨拶がこのような形ですることとなり失礼いたしました。

僕の本当の名前は、吉野冬真と申します。

冬真はカタカナではなく、冬と真という字なんです」


「じゃあ冬子さんは」


「事情がありましてあのような姿と名前で偽ってしまいました。

ですのでここだけの秘密にして頂ければ」


冬真は唇に人差し指をあててウィンクした。

後ろに薔薇でもしょっているかのような美形の微笑みに、朱音は一瞬ふらっとする。


「大丈夫ですか!?」


「大丈夫、です」


本当は大丈夫じゃ無いです。

とてもあなたの美しさにめまいがしました、なんて映画か小説で男が女に言う台詞が脳内で思っていただなんて言えるわけが無い。

朱音は作り笑顔を浮かべなんとかそう答えた。