1
天文館にある、或るレストラン。人は疎らな時間帯。井上和正と市村奈美は対座して食事していた。
井上は32歳の建設会社営業マン、容姿は長身痩躯、端麗な貌で、如何にも女性の好みそうなタイプだった。
一方、市村奈美は容姿は美しく、問題はないものの、今夜は酷く冷静さを欠いていた。
それもその筈、奈美は今夜は男から別れ話を切り出されていたのだった。
井上の方は憎らしい位に冷静さを維持していた。冷酷に平常心で、彼女を説得しようとしていた。
「何よ、和正さん、急に一体どうしたって言うの?」
「それ程急にではないと思うけどね。私達にも色々とあって、或いは今が潮時かと……」
「何言ってらっしゃるの。以前はあれ程誓ってくれてたじゃないの」
「何を?」
「何をって、愛をよ。いいえ、恥ずかしがる事ではないわ。あれは愛と呼べるものだった筈。それが、どうして突然、態度を急変なさるの」
「愛をって何だよ。私は一度も、君に結婚してくれ、とか言ったことはない」
奈美は頭を振った。
「それは確かにないわ。でも間違いなく、私達恋愛関係にあった筈よ」
「そうだろうか」
「しらばっくれないでよ。はっきり言うわ。私達、この半年間肉体的関係にあったじゃないの。それを否定なさるの」
「いや、事実は事実だ。でもそれが何だと言うんだ」
「そんなに冷たい方だったの。私は、少し古風な言い方になるけど、大切なものを貴方に与えたのよ。それを何とも思っていないと仰有るの」
井上は嘆息した。
「古風と言うより、今時少し可笑しいんじゃないかな。交際の事実は認めるけど、それは当然の大人の関係だ」
奈美は涙ぐんだ。
「あの関係は空気のように無意味だった、とでも言いたい訳なの」
「其処迄は言わない。君は本当に素敵な女性だった。それは肯定する。でもね、物事にはそれ相応の時期というものがある」
奈美は貌を上げて、相手を直視した。
「時期が過ぎたとでも?」
井上は頷いた。
「今が潮時だ」
「それじゃ、貴方詐欺だったの。私を騙したのね。半年間も」
「騙してはいない。私も本気だった」
「そんなに簡単に思いが変わるものなの。矢張り詐欺の類じゃないの」
井上は無表情で、コーヒーを吞んだ。
「このところ、二人の関係がギクシャクしていたのは認めるだろう?」
「それは、貴方に他に恋人が出来たらしいから……」
「そんなことはない。他に女性は居ない。それは請け合うよ」
「嘘だわ。そうでなければ、急に心変わりなさる訳ないもの。ねえ、嘘でしょう」
「違うね。もうこんな遣り取り長く続けても意味がない」
「私を捨てるの?」
「悪意があって意図的に捨てる訳じゃない。状況がもう終わったんだ」
奈美は長袖の黒いワンピースの肩を震わせた。
「酷いわ、あんまりよ」
「此処は大人らしく、友好的に別れよう」
「手切れ金を要求するわ」
「冗談だろう。夫婦関係にあった訳じゃないし、私はジゴロじゃない。君から金品を巻き上げたことはない」
「私の人生をめちゃくちゃにした」
「それどころか一時期、君を幸せにした筈だ。結婚詐欺でもない、何の約束もしてないから」
「貴方って、最低の男だったのね」
「何とでも言えよ。では……これで別れよう」
井上は食事の精算書に五千円札を置くと、立ち上がった。
「待って、待ってよ……」
「さようなら」
井上は彼女の制止も聞き入れず、レストランを後にした。
独り取り残された市村奈美は暫し茫然としていた。
夢遊病者のように立ち上がると、意外に平然と会計を済ませ、レストランを出た。
奈美は夜の天文館を目的もなく、歩き回った。もう何もかもがどうでも良く思えた。
奈美は薄暗い路地に入り込んだ。時刻は8時20分頃だった。
丁度其の折り、同じ方向から同じく黒のワンピース姿のもう一人の女性も路地に曲がった。
同じような髪型、背格好の女が、二人同時にその路地に曲がり込んだ。
路地の後方から、黒い革コートの人物が進み出て来た。黒いソフト帽にサングラス、不織布のマスクで、容貌は隠されていた。
革コートの人物は立ち止まった。
革コートの背中、その前方に、二人の黒ワンピースの女が交錯した。
黒革コートの背中は、迷うことなく、一方の女性に駆け寄った。それは市村奈美だった。
怪人物は奈美を背後から羽交い締めにした。革手袋の手に太い針金を持っていた。
奈美の頸に、背後から針金が回された。
もう一人の黒ワンピースの女は慌てて逃げて行った。
奈美の頸に針金が締まる。彼女は無抵抗の儘、次第に意識を失っていった。
そ
2
その薄暗い汚い事務所内では、デスクの周囲に書類が山積し、一方の壁にある小型のテレビはロックのライブ映像を映していた。
亀田浩志はDVDのリモコンを取り、画像を少し早送りした。チキンフットのDVD、get your buzz on Liveだった。
サミーヘイガーのヴォーカルも衰えたものだなと考えていた。そのような幾分蔑んだ評価を下しながら視聴すると、ジョーサトリアーニのギターも精彩を欠くようにも見えた。
亀田が考えるに、サミーヘイガーはオンリーワンウエイと云いながら、実際にはありとあらゆる道を探っている。
ロニーモントローズとの共演に始まって、ソロ、また成功していたソロ活動を抛って迄ヴァンヘイレン参加、その前にはニールショーンとの共演、そしてサトリアーニとの合体と道は実に沢山。要するに後戻り不可能という意味以外ないのかもしれないが。
亀田はこのところ相変わらず、仕事にあぶれ、やむを得ずDVD鑑賞にいそしんでいたのだった。
しかし酒に溺れれば、県警に届け出制の私立探偵の職も失い兼ねない。本当にやむを得ずのロック耽溺だった。転職すら考慮しない訳ではなかったものの、CDショップを開くには資金不足もいいところなのだ。
騒音のような音楽が佳境に入った頃、待ちかねていた電話が鳴った。亀田は矢庭に緊張した。
電話を取ると、若い女性の声が響いた。
「亀田探偵事務所様でしょうか」
「はい、そうですが、どのようなご用件でしょうか」
「わたくし、市村京子と申します。あの、新聞かテレビニュースをご覧頂いて居りますでしょうか」
「と仰有ると、どのようなニュースでしょう」
「OLの市村奈美が、天文館で絞殺されましたニュースです。結構大々的に報道されて居りますけれど」
亀田は深刻に声のトーンを落とした。
「なる程、あの殺人事件ですね」
「はい、わたくし被害者の市村奈美の妹、京子と申します」
「そうですか、被害者の妹さん、で……ご依頼はまさかあの殺人事件の調査なんですか」
「はい、いけませんでしょうか」
「悪くはありませんがね。私如きに殺人事件の依頼をなさる。少しお門違いかと」
「私、理由があって、警察不信なんです」
「なる程、そうですか。それならば結構でしょう」
多少荷が重くとも、断りたくなかった。
「何時頃来られますか?」
「1時間後に……」
「分かりました。宜しく御願い致します」
亀田は電話を切ると、散らかったデスク上を急いで片付けた。本当に久々の仕事依頼、意気込みは半端でなかった。
市村京子は午後2時頃、事務所に現れた。亀田は対座して、彼女にコーヒーを勧めた。
京子は25歳、明るい茶髪にジーンズ、ガンズのTシャツというラフなスタイル。性格的には内向の気味があった。
亀田は常套的な私立探偵の説明をした。探偵業法の縛りはあるものの、何ら公的な資格はなく、従って権力も有さないこと等。
「ですから逆に依頼人に寄り添うことが出来るかと思います。依頼人のプラスになるならば、時には隠れて不法行為も厭わないということです」
「あの……」京子は躊躇いがちに口を開いた。「秘密は守って頂けるのでしょうか」
「その点はご安心ください。秘密は厳守致します。私もこの職を失いたくないですから」
「あの、私、三年前に或る男性から性的加害を受けました。でも警察は何もしてくれなかった。地位のある男性でしたから、有耶無耶にされて闇に葬り去られたんです」
亀田は頷いた。
「分かりました。それで警察不信になられた」
「ええ、ですから姉の殺害事件の調査を御願いしたいんです」
「分かりました。お引き受け致しましょう。で、新聞で見る限りの知識しかないので、事情をご説明願えますか」
「はい、姉、市村奈美は井上和正さんと交際しておりました。それがあの夜、井上さんから別れ話を切り出された」
「理由は」
「多分姉に飽きたのではないかと。で、姉は井上さんと別れてから、傷心の儘、夜の街を彷徨った。そしてあの路地に差し掛かった。犯人が背後から近づいて、姉を絞殺した……」
京子の声は震えていた。
「井上氏にアリバイは?」
「井上さんには確固たるアリバイがあります。あの方は犯人ではありません」
「目撃者は?」
「警察の話では、一人女性が目撃していた筈だとか。でもまだ女性は見つかっていないらしいんです」
「物盗りの犯行だろうか。金品は盗まれてませんか」
「いいえ、何も盗まれてません」
「すると、通り魔か、動機のある殺害か」
京子は不意に何か思い出した風だった。
「あの、これは確かなことじゃないし、参考になるかどうか分からないんですけど」
「どうぞ、仰有ってください。重要かどうかの判断は私が付けますから」
「申し上げ難いんですけど」
「いえ、どうぞ」
「あの、姉は一度、井上さんはゲイかもしれないという疑いを洩らしたことがあるんです」
「それは興味深いですね。具体的には?」
「井上さんが、一度街中で、一人の美青年を見詰めていたって」
「なる程、奈美さんはそのことを気に掛けてらしたんですか」
「いいえ、まさかそんなことあり得ないと、直ぐ忘れてしまったようですが」
「じゃ、そんなことはその時一度だけだったのですね」
「はい、でもその時の、美青年を見る、井上さんの目の色が違ったと言ってた。私は後々迄気に掛けていました」
「そうですか……少し飛躍しますが、奈美さんは絞殺された。犯人は腕力のある男性かもしれない。そしてそれが奈美さんに対するゲイパートナーの嫉妬が動機かもしれないと」
京子は頷いた。
「私も其処まで想像しました」
「かもしれません。しかしテレビニュースによれば、凶器は太い針金様のものと言うことでした。それなら女性の力でも十分犯行可能に思われますが」
「そうですわね」
亀田は書類作成の準備を始めることにした。これが私立探偵の義務で、中々厄介なのだった。
「それでは奈美さんの写真をお持ちですか」
「はい、持参して居ります」
亀田は写真を手に取って眺めた。長い髪、端整な顔立ち、黒ワンピース。記憶に留めた。
「井上氏の住所をご存じでしたら、其処に記載を御願い致します。貴方の住所も勿論」
亀田は椅子に座り直した。
「調査が殺人事件に関わるので、危険手当てを頂こうと思いましたが、通常の調査料で構いませんので」
「有難うございます」
亀田は紙幣を受領した。
3
夏も終わり、海には秋の波が立ち始めたマリンポート。夏と違い、ひとけはなかった。亀田は廃車寸前の中古車を駐車場に乗り付けた。後からプリウスが横並びに遣って来た。亀田の従兄弟の安田警部補だった。
二人は車を降りた。海風が二人の髪を跳ね上げた。
「叔父さん、久しぶり……」
亀田は従兄弟を叔父と呼ぶ。安田警部補の方も、違和感は感じない風だった。
「また私の領域に首を突っ込んできたな」
「いつもギブアンドテイクだから、構わないでしょう」
「困った奴だな。で、何を訊きたい?」
「事件な概略を。ニュースだけでは漠然としているので」
安田警部補は腕組みした。
「うむ、マスコミに流した以上の情報は明かせない。レストラン隣の席の客によれば、市村奈美は、井上和正から別れ話を切り出されていた。井上と別れてから、奈美は天文館を彷徨した」
「二人が別れた原因は何でしょう」
「井上は奈美に飽きたらしいな」
「井上は実はゲイだったのでは」
安田は愕然とした。
「驚いたな、何処から得た情報だ」
「此方も色々有りましてね。で、正しいんですね」
「ああ、毛利一行という恋人がいた。LGBTの世界だな」
「警察はその嫉妬動機の線を考えていますかね」
「それは何とも答えられない」
「では、毛利というのはどんな男なんです」
「幼い頃に事故に遭って、左目が義眼なんだ。そのことを女性に揶揄されてから、女性憎悪に転じたらしいな。それから男しか愛せなくなった」
「なる程、他には何か?」
「毛利は5年前に、斉野圭子という女性に性的加害を遣っている。斉野は今でも毛利を憎んでいる」
「そうですか、それは毛利の方も逆恨みがありそうだ」
「うむ、あるかもしれんな」
「で、目撃者の件ですが」
安田は再度亀田を見直した。
「それまで分かっているのか」
「ええ」
「犯行現場の路地から、丁度犯行時刻に、黒ワンピースの女性が駆けて逃げ去るのを、或る防犯カメラが捉えていた」
「現場に防犯カメラは?」
「残念ながら無い。人通りのない路地だ」
「彼女の特徴は?」
「それがな、ちょっと問題になっている」
「どんな点が?」
「市村奈美に瓜二つなんだ」
「奈美では」
「戻ってきた映像はない。別人だ。奈美は実の妹にも余り似ていない。他には親類はいない」
「すると」
「他人の空似だろうな」
亀田は嘆息した。
「その女性はまだ見付からない?」
「ああ」
「状況は分かりました。他に問題点はありますか」
「そうだな、些細な点だが、奈美のワンピースの肩から、米の成分が微量検出された」
「彼女、レストランで、ライスを取っていました?」
「取っていた。ご飯粒が肩に付いただけだろう」
「なる程、済みませんが、関係者の住所等、メモを頂けませんか」
安田はメモを渡した。
4
亀田は毛利一行の携帯に連絡を取った。毛利は逢うのを嫌がったが、危機的状況にある貴方を、或いは助けることが出来るかもしれないとゴリ押しした。
亀田は毛利のマンションを尋ねることにした。実際は彼が無実か否か分かっている訳ではなかった。
毛利は矢張り美青年で、左目の義眼は精巧に出来おり、ちょっと見には気付なかった。
「私立探偵が僕に一体何の要件なんですか」
「私は亀田と申します。事件の調査をしていす。貴方はかなり微妙な状況にあります。警察が何時逮捕状を出してもおかしくない」
「僕はどうすれば良いんですか。逃げるべきなのかな」
「それは最悪です。市村奈美さんの殺害容疑が濃厚になるばかりだ」
「ではどうすれば良いんです?」
「貴方は奈美を殺していないんですね」
「勿論です」
「だったらじたばたしないことですね」
「しかし逮捕されるんだろう」
「濃厚です。気を強く持って、誘導尋問に掛からないように。アリバイはないんですか」
「独りでマンションにいた。誰も証明してくれない。しかし何故僕が疑われるんですか」
「貴方は市村奈美に嫉妬していたでしょう」
「それはそうですが、あの夜、二人は別れたとか聞いたけど」
「恐らくゲイに対する偏見でしょうか。嫉妬深いと思われている」
「偏見ですか、今はもうLGBTは病気とは言えないのに」
「しかし警察は近々動くでしょう。覚悟、心の準備を」
「全く厄介ですね……」
「私は貴方が殺したとは思っていません」
「何故ですか」
「何と言うか、勘ですね……貴方を恨んでいる人はいますか」
「僕は誰かに嵌められたとでも?」
「そこまでは判りません」
「そうだな、僕を憎悪している女が一人居る」
「斉野圭子ですね」
「驚いたな、何でもご存じなんだ。斉野は僕からレイプされたと思い込んでます」
「女性を愛せない貴方が何故、彼女と付き合った?」
「単に酒に酔った上の遊びでした。本来女に関心がないので、つい手荒になってしまった。それだけです」
「レイプしていない?」
「第一彼女の躰に僕の痕跡はなかった。それでも性的加害とか言われて追求された」
「それでも罪ですよ……今日はどうも有難うございました」
5
秋の夕暮れ時、亀田は天文館電停に佇んでいた。ガソリン代が高騰し、車ばかりも使えなかった。電車利用には特に抵抗はなかった。
亀田はふと思い付いて、スマホを取った。
「もしもし、叔父さん、ちょっと気になることが」
相手は安田警部補だった。
「どうした。何か?」
「訊き忘れていました、一つ」
「何かな」
「現場から逃走した女性を、犯人でなく目撃者と断定した理由は何でした?」
「うむ、確かに言い忘れたかな。それは、女性の挙動からだ。如何にもレイプ犯からでも逃げる感じで、恐怖に駆られていた。途中路肩で、吐いている。犯人とは思えない。どう見ても目撃者だ」
「なる程、分かりました」
「ああ、それとな、情報があるぞ」
「何でしょう」
「つい先ほど、毛利一行を別件逮捕した」
「何ですって。と云うと?」
「駐車違反だ。よりによってこの時期に、莫迦な奴だ。勿論殺害容疑で締め上げている」
「そうでしたか、残念だな」
「何だって」
「いえいえ、仕方ないですね。目撃者は見付かりました?」
「いや、まだだ」
その時、亀田は視界の前方に黒い影を捉えた。長い髪、黒いワンピース姿の女性だった。
亀田は前方に向かって、駆け出した。センテラスの方向だ。スマホは殆ど無意識に内ポケットにしまった。
雑踏の中に確かに、求める人影があった。亀田は全速力で追い掛けた。彼女は逃げたものの、直ぐに捕まった。
「君、何故逃げる?」
「貴方こそ、どうして追い掛けて来るの」
「君、市村奈美にそっくりだな」
「……」
「君は彼女の事件を目撃したね」
「誰にも云わないでください」
「何故?」
「怖いんです」
「何が」
「あの男は今度は私を狙うかもしれません」
「判るが、君は警察に協力しなきゃ駄目だ」
「怖いんです」
「だから、全て話して、警察の警護を仰ぐんだ。それが市民としての義務だ」
「嫌です」
「来たまえ、私が話を聞く」
「貴方は誰なんです」
「亀田と云う私立探偵だ」
「探偵さん、本当に」
「私の事務所に来 てほしい。直ぐ近くだ」
何もない小さな事務所に、彼女を招じ入れた。彼女のリクエストで、エヴァネッセンスのanywhere but home をかけ、甘いココアを出した。彼女は幾分落ち着いた様子だった。
亀田は改めて彼女を見直し、市村奈美の写真と瓜二つであることに、驚きを禁じ得なかった。
「君、名前は?」
「山田リエ……」
「偽名ではないよね」
「はい、大丈夫です」
「君は市村奈美の遠縁とかではないの」
「違います。ただあの夜、A路地で彼女とすれ違った時、余り私に似ているので、愕いたんです」
「その夜のことを詳しく話して欲しい」
リエはココアを飲み干した。
「A路地の左側の筋から、私達殆ど同時に路地に入った。その時路地の後方からあの犯人が現れた」
「どんな奴だった?」
「革コートにサングラスとマスクで、顔は見えませんでした」
「なる程、それから」
「犯人は躊躇わず真っ直ぐ市村さんに近寄り、羽交い締めにして、後ろから頸に針金を……」
リエは思い出したらしく、恐怖にかられた。
「それからどうしたのかな」
「私は走って、その場から逃げました」
「君はこれを警察に話さなくてはいけない。辛いだろうが」
「私、怖いんです」
「判るが、頑張って欲しい」
その時、亀田は何事か閃いた風だった。
「リエさん、ちょっと待ってくれよ。思い付いたことがある。紙とペンを渡すから、ちょっと図面を書いてくれないか」
亀田はA路地の略図を書いて、リエに渡した。
「此処に、君達二人が入って来た場所、二人が交錯した場所、そして犯人が来た方向、を書いてくれないか」
リエは言われた通り、図面を書き込んでいった。
「矢張りそうか。これは大変だ」
亀田は急いで、スマホを手に取った。
6
亀田は電車で、郡元迄来た。海の方向、鴨池新町に向かって歩いた。目的地は県庁の隣の警察署。彼が県警迄出向くことは滅多になかった。緊急事態であった。
厳めしい建物の県警に躊躇わず入った。私立探偵の名刺を渡して、安田警部補を呼び出して貰った。
一室に招じ入れられた。出された水を飲んで待った。
15分程で、安田警部補が現れた。
「どうも、叔父さん、忙しいところ済みません」
「何事だ。此処は御前の来るところではないぞ」
「済みません、急ぎの用事があって」
「何だ」
亀田は先ほどの図面を出した。
「先刻、山田リエを事情聴取しました」
「彼女は今、我々が取り調べ中だ。御前の出る幕はない」
「まあ、そう仰有らずに、これはリエの書いた現場の図面です」
「うむ、この通りだ」
「それじゃ、もうお判りでしょう。奈美とリエは此処から同時に路地に入って来た。そして犯人は此方の方向から、躊躇わず奈美に近寄り……」
「それがどうした
「あらゆる偶然が重なった。奈美とリエは瓜二つ、服も同じく黒ワンピース。するとどうなるか。犯人は躊躇わず奈美に近寄った」
「詰まり何だ」
「 毛利一行は片目は義眼です。距離感が摑める筈はない」
「つまり、躊躇わず奈美に接近出来た筈はない、と云うことか」
「無差別殺人ならともかく、今は動機から追求してる訳ですよね」
「そうだ」
「すると、犯人は毛利一行では有りません」
「ううむ」
7
数日後、亀田は毛利一行宅に招かれた。無事釈放のお祝いだった。愛人の井上和正も同席した。テーブルにはデコレーションケーキ、キャビアやローストビーフ、ウイスキーが饗されていた。
「この度はどうも有難うございました」
毛利一行は亀田に深々頭を下げた。
「いえ、何、偶然が幾つか重なっただけですよ」
「いいえ、亀田さんがいなかったら、僕は殺人事件の容疑者として起訴されるところでした」
「私からも礼を言います」井上が言った。「本当に何と申して良いか」
「井上や僕のようなLGBTは、社会の偏見を受けやすいのです」
「本当にその通りですね。社会の壁が重くのしかかるのでしょう」
毛利一行はウイスキーを呷ると、言った。
「僕らは一昔前なら、精神科の門をくぐらなければならなかった。するとスティグマ付与がある訳です」
亀田は頷いた。
「知っています。聖痕、あらゆる不利益を被る社会的烙印ですね。偏見と言い変えてもいい」
毛利、井上は同時に頷いた。
「スティグマがあれば、社会生活は厳しい状況になります」毛利は続けた。「殆ど生きていけない状況にあります」
「精神科医は」亀田は言った。「アンチスティグマ運動を推進しているようですが」
「そうですね。もっとアンチスティグマ運動が広まるべきですね」
「僕らのようなLGBTのカップルが、生きやすい世の中になってほしいものです」井上も主張した。
「どうなんでしょう」亀田は言った。「権利条約が批准されてから、法改正は進むのでしょうか」
「難しいでしょう」毛利は言った。「条約は法律の上にある筈ですが、国の構造を変えるのは難しいですよ」
「権利条約をマスコミはノータッチですから」亀田は言った。「例えば児童権利条約もほとんど喧伝されない。批准されてからも、矢張りこの国の民法では、相変わらず親権が強い」
「その通りですね」毛利は言った。「差別解消法だけでは物足らない」
「僕らのようなゲイが生きていくのは、相変わらず難しいんです」井上も言った。
何時の間にか、祝賀会は議論の場と化していた。
8
亀田は山田リエのリクエストだった、エヴァネッセンスを事務所にて聴き込んでいた。
女の子らしい趣味だが、これも20年前になる。ヴォーカルは今何歳だろう。クラシックロックと異なり、生き残りは大変だなと、漠然と考えていた。
スマホが鳴っていた。
「はい、 亀田探偵事務所」
「私だ。この前は世話になった」
「ああ、叔父さん、いえいえ、市民の当然の義務です」
「新たな情報だ」
「何でしょう」
「斉野圭子を殺人容疑で逮捕した」
「なる程」
「斉野の家から、針金の欠片が見つかった。欠片に残っていた血痕と、市村奈美の血液が一致した。針金をペンチでバラバラにして処分したものの一欠片が残っていたのだろう。奈美殺害の凶器だ」
「なる程、斉野圭子は毛利一行を憎悪している。性的加害の仕返しに、毛利一行を殺人犯に仕立て上げた。そうでしたか」
「報復に他人迄殺したとは、恐ろしい女だ」
「しかし、ちょっと待ってください……」
亀田は暫し熟考した。
「叔父さん、矢張りおかしいですよ」
「どういう点が」
「余りにも偶然が重なり過ぎています」
「そうかな」
「ええ、尋常じゃありません。誠に申し訳ないですが、再度事件を調べ直して頂けませんか」
「偶然が一致し過ぎている。その通りだな」
「お手数ながら お願い致します。事件を再度洗い直して頂けませんか」
「了解だ」
「有難うございます。 これからちょっと調査の資料を取りに行きます。メールやファックスでなくて結構、此方も出がけなので」
9
少ない人口の大半が密集していそうな、中央駅アミュ。亀田は或る写真を一枚持って、調査に当たっていた。
亀田は、ビックカメラにて、 店員に写真を見せて、聞き込みをした。
「この人物に見覚えはありませんか」
「はい、見覚えがあります」
「そうでしたか、彼はこの 家電製品を買いました?」
「はい、買いました」
「確かですね」
「ええ」
所変わって、騎射場の自転車屋あさひ。
此処でも亀田は、店員に同じ写真を見せた。
「この写真の人物に見覚えはありますか」
「はい、有ります」
「何を買ったか覚えてますか」
「はい」
10
亀田は、毛利一行に再度遭いに行った。
毛利は亀田を歓待した。
亀田は出されたコーヒーを一口飲んだ。
「毛利さん、斉野圭子が殺人容疑で逮捕されました」
「テレビニュースで観ました。私を殺人容疑に陥れようとしたんですね。恐ろしい。そんなに僕を憎悪していたんだ」
「そのようです。」
亀田はコーヒーカップを置くと、真顔になった。
「私はね、毛利さん、この事件を再度考え直したんです」
「何故?」
「余りにも偶然が多過ぎるので」
「そうでしょうか」
「多いですね、余りにも。 それで一度再構築したくなりました」
毛利の表情は動かない。
亀田は続けた。
「私はね、貴方の写真を持って、家電量販店などを聞き込みしました」
「それで?」
「貴方はアミュのビックカメラで、ペンライトを買いましたね」
「ええ」
毛利一行の表情は矢張り動かない。
「また貴方は、騎射場で、反射材を買っています」
「 ええ、 それで?」
「あの夜の事件を、想起してください。あの路地で、二人の瓜二つの女が交錯した。犯人は奈美の肩に予め反射材の欠片を付けていた。奈美の肩から糊の成分が検出されました。
犯人は路地の後ろから現れ、ペンライトをかざして、反射材に当てて対象を把握した。 これなら、片目でも奈美を素早く把握
できた」
「証拠はない筈だ」
ドアから、安田警部補が入って来た。
「斉野圭子宅の庭から、貴方の靴跡が検出された。先程玄関前で照合した。圭子宅に、血の着いた針金を持っていった時のものだな。貴様のは一事不再理を狙った入り組んだ犯罪だった。共犯の山田リエも逮捕した」
毛利一行は漸く諦めた。
11
亀田は、報告書を仕上げている最中だった。依頼人の市村京子が対座。相変わらずの汚い事務所にて。
「結局、スティグマは有るべきかもしれないな」
「急になんですか」
「人は墜ちていくことを好む。それを食い止めるためには、スティグマ付与は有効だ」
「駄目ですよ、亀田さん。偏見は禁物ですわ」
「そうだな、社会的に有用であっても、矢張り良くない」
天文館にある、或るレストラン。人は疎らな時間帯。井上和正と市村奈美は対座して食事していた。
井上は32歳の建設会社営業マン、容姿は長身痩躯、端麗な貌で、如何にも女性の好みそうなタイプだった。
一方、市村奈美は容姿は美しく、問題はないものの、今夜は酷く冷静さを欠いていた。
それもその筈、奈美は今夜は男から別れ話を切り出されていたのだった。
井上の方は憎らしい位に冷静さを維持していた。冷酷に平常心で、彼女を説得しようとしていた。
「何よ、和正さん、急に一体どうしたって言うの?」
「それ程急にではないと思うけどね。私達にも色々とあって、或いは今が潮時かと……」
「何言ってらっしゃるの。以前はあれ程誓ってくれてたじゃないの」
「何を?」
「何をって、愛をよ。いいえ、恥ずかしがる事ではないわ。あれは愛と呼べるものだった筈。それが、どうして突然、態度を急変なさるの」
「愛をって何だよ。私は一度も、君に結婚してくれ、とか言ったことはない」
奈美は頭を振った。
「それは確かにないわ。でも間違いなく、私達恋愛関係にあった筈よ」
「そうだろうか」
「しらばっくれないでよ。はっきり言うわ。私達、この半年間肉体的関係にあったじゃないの。それを否定なさるの」
「いや、事実は事実だ。でもそれが何だと言うんだ」
「そんなに冷たい方だったの。私は、少し古風な言い方になるけど、大切なものを貴方に与えたのよ。それを何とも思っていないと仰有るの」
井上は嘆息した。
「古風と言うより、今時少し可笑しいんじゃないかな。交際の事実は認めるけど、それは当然の大人の関係だ」
奈美は涙ぐんだ。
「あの関係は空気のように無意味だった、とでも言いたい訳なの」
「其処迄は言わない。君は本当に素敵な女性だった。それは肯定する。でもね、物事にはそれ相応の時期というものがある」
奈美は貌を上げて、相手を直視した。
「時期が過ぎたとでも?」
井上は頷いた。
「今が潮時だ」
「それじゃ、貴方詐欺だったの。私を騙したのね。半年間も」
「騙してはいない。私も本気だった」
「そんなに簡単に思いが変わるものなの。矢張り詐欺の類じゃないの」
井上は無表情で、コーヒーを吞んだ。
「このところ、二人の関係がギクシャクしていたのは認めるだろう?」
「それは、貴方に他に恋人が出来たらしいから……」
「そんなことはない。他に女性は居ない。それは請け合うよ」
「嘘だわ。そうでなければ、急に心変わりなさる訳ないもの。ねえ、嘘でしょう」
「違うね。もうこんな遣り取り長く続けても意味がない」
「私を捨てるの?」
「悪意があって意図的に捨てる訳じゃない。状況がもう終わったんだ」
奈美は長袖の黒いワンピースの肩を震わせた。
「酷いわ、あんまりよ」
「此処は大人らしく、友好的に別れよう」
「手切れ金を要求するわ」
「冗談だろう。夫婦関係にあった訳じゃないし、私はジゴロじゃない。君から金品を巻き上げたことはない」
「私の人生をめちゃくちゃにした」
「それどころか一時期、君を幸せにした筈だ。結婚詐欺でもない、何の約束もしてないから」
「貴方って、最低の男だったのね」
「何とでも言えよ。では……これで別れよう」
井上は食事の精算書に五千円札を置くと、立ち上がった。
「待って、待ってよ……」
「さようなら」
井上は彼女の制止も聞き入れず、レストランを後にした。
独り取り残された市村奈美は暫し茫然としていた。
夢遊病者のように立ち上がると、意外に平然と会計を済ませ、レストランを出た。
奈美は夜の天文館を目的もなく、歩き回った。もう何もかもがどうでも良く思えた。
奈美は薄暗い路地に入り込んだ。時刻は8時20分頃だった。
丁度其の折り、同じ方向から同じく黒のワンピース姿のもう一人の女性も路地に曲がった。
同じような髪型、背格好の女が、二人同時にその路地に曲がり込んだ。
路地の後方から、黒い革コートの人物が進み出て来た。黒いソフト帽にサングラス、不織布のマスクで、容貌は隠されていた。
革コートの人物は立ち止まった。
革コートの背中、その前方に、二人の黒ワンピースの女が交錯した。
黒革コートの背中は、迷うことなく、一方の女性に駆け寄った。それは市村奈美だった。
怪人物は奈美を背後から羽交い締めにした。革手袋の手に太い針金を持っていた。
奈美の頸に、背後から針金が回された。
もう一人の黒ワンピースの女は慌てて逃げて行った。
奈美の頸に針金が締まる。彼女は無抵抗の儘、次第に意識を失っていった。
そ
2
その薄暗い汚い事務所内では、デスクの周囲に書類が山積し、一方の壁にある小型のテレビはロックのライブ映像を映していた。
亀田浩志はDVDのリモコンを取り、画像を少し早送りした。チキンフットのDVD、get your buzz on Liveだった。
サミーヘイガーのヴォーカルも衰えたものだなと考えていた。そのような幾分蔑んだ評価を下しながら視聴すると、ジョーサトリアーニのギターも精彩を欠くようにも見えた。
亀田が考えるに、サミーヘイガーはオンリーワンウエイと云いながら、実際にはありとあらゆる道を探っている。
ロニーモントローズとの共演に始まって、ソロ、また成功していたソロ活動を抛って迄ヴァンヘイレン参加、その前にはニールショーンとの共演、そしてサトリアーニとの合体と道は実に沢山。要するに後戻り不可能という意味以外ないのかもしれないが。
亀田はこのところ相変わらず、仕事にあぶれ、やむを得ずDVD鑑賞にいそしんでいたのだった。
しかし酒に溺れれば、県警に届け出制の私立探偵の職も失い兼ねない。本当にやむを得ずのロック耽溺だった。転職すら考慮しない訳ではなかったものの、CDショップを開くには資金不足もいいところなのだ。
騒音のような音楽が佳境に入った頃、待ちかねていた電話が鳴った。亀田は矢庭に緊張した。
電話を取ると、若い女性の声が響いた。
「亀田探偵事務所様でしょうか」
「はい、そうですが、どのようなご用件でしょうか」
「わたくし、市村京子と申します。あの、新聞かテレビニュースをご覧頂いて居りますでしょうか」
「と仰有ると、どのようなニュースでしょう」
「OLの市村奈美が、天文館で絞殺されましたニュースです。結構大々的に報道されて居りますけれど」
亀田は深刻に声のトーンを落とした。
「なる程、あの殺人事件ですね」
「はい、わたくし被害者の市村奈美の妹、京子と申します」
「そうですか、被害者の妹さん、で……ご依頼はまさかあの殺人事件の調査なんですか」
「はい、いけませんでしょうか」
「悪くはありませんがね。私如きに殺人事件の依頼をなさる。少しお門違いかと」
「私、理由があって、警察不信なんです」
「なる程、そうですか。それならば結構でしょう」
多少荷が重くとも、断りたくなかった。
「何時頃来られますか?」
「1時間後に……」
「分かりました。宜しく御願い致します」
亀田は電話を切ると、散らかったデスク上を急いで片付けた。本当に久々の仕事依頼、意気込みは半端でなかった。
市村京子は午後2時頃、事務所に現れた。亀田は対座して、彼女にコーヒーを勧めた。
京子は25歳、明るい茶髪にジーンズ、ガンズのTシャツというラフなスタイル。性格的には内向の気味があった。
亀田は常套的な私立探偵の説明をした。探偵業法の縛りはあるものの、何ら公的な資格はなく、従って権力も有さないこと等。
「ですから逆に依頼人に寄り添うことが出来るかと思います。依頼人のプラスになるならば、時には隠れて不法行為も厭わないということです」
「あの……」京子は躊躇いがちに口を開いた。「秘密は守って頂けるのでしょうか」
「その点はご安心ください。秘密は厳守致します。私もこの職を失いたくないですから」
「あの、私、三年前に或る男性から性的加害を受けました。でも警察は何もしてくれなかった。地位のある男性でしたから、有耶無耶にされて闇に葬り去られたんです」
亀田は頷いた。
「分かりました。それで警察不信になられた」
「ええ、ですから姉の殺害事件の調査を御願いしたいんです」
「分かりました。お引き受け致しましょう。で、新聞で見る限りの知識しかないので、事情をご説明願えますか」
「はい、姉、市村奈美は井上和正さんと交際しておりました。それがあの夜、井上さんから別れ話を切り出された」
「理由は」
「多分姉に飽きたのではないかと。で、姉は井上さんと別れてから、傷心の儘、夜の街を彷徨った。そしてあの路地に差し掛かった。犯人が背後から近づいて、姉を絞殺した……」
京子の声は震えていた。
「井上氏にアリバイは?」
「井上さんには確固たるアリバイがあります。あの方は犯人ではありません」
「目撃者は?」
「警察の話では、一人女性が目撃していた筈だとか。でもまだ女性は見つかっていないらしいんです」
「物盗りの犯行だろうか。金品は盗まれてませんか」
「いいえ、何も盗まれてません」
「すると、通り魔か、動機のある殺害か」
京子は不意に何か思い出した風だった。
「あの、これは確かなことじゃないし、参考になるかどうか分からないんですけど」
「どうぞ、仰有ってください。重要かどうかの判断は私が付けますから」
「申し上げ難いんですけど」
「いえ、どうぞ」
「あの、姉は一度、井上さんはゲイかもしれないという疑いを洩らしたことがあるんです」
「それは興味深いですね。具体的には?」
「井上さんが、一度街中で、一人の美青年を見詰めていたって」
「なる程、奈美さんはそのことを気に掛けてらしたんですか」
「いいえ、まさかそんなことあり得ないと、直ぐ忘れてしまったようですが」
「じゃ、そんなことはその時一度だけだったのですね」
「はい、でもその時の、美青年を見る、井上さんの目の色が違ったと言ってた。私は後々迄気に掛けていました」
「そうですか……少し飛躍しますが、奈美さんは絞殺された。犯人は腕力のある男性かもしれない。そしてそれが奈美さんに対するゲイパートナーの嫉妬が動機かもしれないと」
京子は頷いた。
「私も其処まで想像しました」
「かもしれません。しかしテレビニュースによれば、凶器は太い針金様のものと言うことでした。それなら女性の力でも十分犯行可能に思われますが」
「そうですわね」
亀田は書類作成の準備を始めることにした。これが私立探偵の義務で、中々厄介なのだった。
「それでは奈美さんの写真をお持ちですか」
「はい、持参して居ります」
亀田は写真を手に取って眺めた。長い髪、端整な顔立ち、黒ワンピース。記憶に留めた。
「井上氏の住所をご存じでしたら、其処に記載を御願い致します。貴方の住所も勿論」
亀田は椅子に座り直した。
「調査が殺人事件に関わるので、危険手当てを頂こうと思いましたが、通常の調査料で構いませんので」
「有難うございます」
亀田は紙幣を受領した。
3
夏も終わり、海には秋の波が立ち始めたマリンポート。夏と違い、ひとけはなかった。亀田は廃車寸前の中古車を駐車場に乗り付けた。後からプリウスが横並びに遣って来た。亀田の従兄弟の安田警部補だった。
二人は車を降りた。海風が二人の髪を跳ね上げた。
「叔父さん、久しぶり……」
亀田は従兄弟を叔父と呼ぶ。安田警部補の方も、違和感は感じない風だった。
「また私の領域に首を突っ込んできたな」
「いつもギブアンドテイクだから、構わないでしょう」
「困った奴だな。で、何を訊きたい?」
「事件な概略を。ニュースだけでは漠然としているので」
安田警部補は腕組みした。
「うむ、マスコミに流した以上の情報は明かせない。レストラン隣の席の客によれば、市村奈美は、井上和正から別れ話を切り出されていた。井上と別れてから、奈美は天文館を彷徨した」
「二人が別れた原因は何でしょう」
「井上は奈美に飽きたらしいな」
「井上は実はゲイだったのでは」
安田は愕然とした。
「驚いたな、何処から得た情報だ」
「此方も色々有りましてね。で、正しいんですね」
「ああ、毛利一行という恋人がいた。LGBTの世界だな」
「警察はその嫉妬動機の線を考えていますかね」
「それは何とも答えられない」
「では、毛利というのはどんな男なんです」
「幼い頃に事故に遭って、左目が義眼なんだ。そのことを女性に揶揄されてから、女性憎悪に転じたらしいな。それから男しか愛せなくなった」
「なる程、他には何か?」
「毛利は5年前に、斉野圭子という女性に性的加害を遣っている。斉野は今でも毛利を憎んでいる」
「そうですか、それは毛利の方も逆恨みがありそうだ」
「うむ、あるかもしれんな」
「で、目撃者の件ですが」
安田は再度亀田を見直した。
「それまで分かっているのか」
「ええ」
「犯行現場の路地から、丁度犯行時刻に、黒ワンピースの女性が駆けて逃げ去るのを、或る防犯カメラが捉えていた」
「現場に防犯カメラは?」
「残念ながら無い。人通りのない路地だ」
「彼女の特徴は?」
「それがな、ちょっと問題になっている」
「どんな点が?」
「市村奈美に瓜二つなんだ」
「奈美では」
「戻ってきた映像はない。別人だ。奈美は実の妹にも余り似ていない。他には親類はいない」
「すると」
「他人の空似だろうな」
亀田は嘆息した。
「その女性はまだ見付からない?」
「ああ」
「状況は分かりました。他に問題点はありますか」
「そうだな、些細な点だが、奈美のワンピースの肩から、米の成分が微量検出された」
「彼女、レストランで、ライスを取っていました?」
「取っていた。ご飯粒が肩に付いただけだろう」
「なる程、済みませんが、関係者の住所等、メモを頂けませんか」
安田はメモを渡した。
4
亀田は毛利一行の携帯に連絡を取った。毛利は逢うのを嫌がったが、危機的状況にある貴方を、或いは助けることが出来るかもしれないとゴリ押しした。
亀田は毛利のマンションを尋ねることにした。実際は彼が無実か否か分かっている訳ではなかった。
毛利は矢張り美青年で、左目の義眼は精巧に出来おり、ちょっと見には気付なかった。
「私立探偵が僕に一体何の要件なんですか」
「私は亀田と申します。事件の調査をしていす。貴方はかなり微妙な状況にあります。警察が何時逮捕状を出してもおかしくない」
「僕はどうすれば良いんですか。逃げるべきなのかな」
「それは最悪です。市村奈美さんの殺害容疑が濃厚になるばかりだ」
「ではどうすれば良いんです?」
「貴方は奈美を殺していないんですね」
「勿論です」
「だったらじたばたしないことですね」
「しかし逮捕されるんだろう」
「濃厚です。気を強く持って、誘導尋問に掛からないように。アリバイはないんですか」
「独りでマンションにいた。誰も証明してくれない。しかし何故僕が疑われるんですか」
「貴方は市村奈美に嫉妬していたでしょう」
「それはそうですが、あの夜、二人は別れたとか聞いたけど」
「恐らくゲイに対する偏見でしょうか。嫉妬深いと思われている」
「偏見ですか、今はもうLGBTは病気とは言えないのに」
「しかし警察は近々動くでしょう。覚悟、心の準備を」
「全く厄介ですね……」
「私は貴方が殺したとは思っていません」
「何故ですか」
「何と言うか、勘ですね……貴方を恨んでいる人はいますか」
「僕は誰かに嵌められたとでも?」
「そこまでは判りません」
「そうだな、僕を憎悪している女が一人居る」
「斉野圭子ですね」
「驚いたな、何でもご存じなんだ。斉野は僕からレイプされたと思い込んでます」
「女性を愛せない貴方が何故、彼女と付き合った?」
「単に酒に酔った上の遊びでした。本来女に関心がないので、つい手荒になってしまった。それだけです」
「レイプしていない?」
「第一彼女の躰に僕の痕跡はなかった。それでも性的加害とか言われて追求された」
「それでも罪ですよ……今日はどうも有難うございました」
5
秋の夕暮れ時、亀田は天文館電停に佇んでいた。ガソリン代が高騰し、車ばかりも使えなかった。電車利用には特に抵抗はなかった。
亀田はふと思い付いて、スマホを取った。
「もしもし、叔父さん、ちょっと気になることが」
相手は安田警部補だった。
「どうした。何か?」
「訊き忘れていました、一つ」
「何かな」
「現場から逃走した女性を、犯人でなく目撃者と断定した理由は何でした?」
「うむ、確かに言い忘れたかな。それは、女性の挙動からだ。如何にもレイプ犯からでも逃げる感じで、恐怖に駆られていた。途中路肩で、吐いている。犯人とは思えない。どう見ても目撃者だ」
「なる程、分かりました」
「ああ、それとな、情報があるぞ」
「何でしょう」
「つい先ほど、毛利一行を別件逮捕した」
「何ですって。と云うと?」
「駐車違反だ。よりによってこの時期に、莫迦な奴だ。勿論殺害容疑で締め上げている」
「そうでしたか、残念だな」
「何だって」
「いえいえ、仕方ないですね。目撃者は見付かりました?」
「いや、まだだ」
その時、亀田は視界の前方に黒い影を捉えた。長い髪、黒いワンピース姿の女性だった。
亀田は前方に向かって、駆け出した。センテラスの方向だ。スマホは殆ど無意識に内ポケットにしまった。
雑踏の中に確かに、求める人影があった。亀田は全速力で追い掛けた。彼女は逃げたものの、直ぐに捕まった。
「君、何故逃げる?」
「貴方こそ、どうして追い掛けて来るの」
「君、市村奈美にそっくりだな」
「……」
「君は彼女の事件を目撃したね」
「誰にも云わないでください」
「何故?」
「怖いんです」
「何が」
「あの男は今度は私を狙うかもしれません」
「判るが、君は警察に協力しなきゃ駄目だ」
「怖いんです」
「だから、全て話して、警察の警護を仰ぐんだ。それが市民としての義務だ」
「嫌です」
「来たまえ、私が話を聞く」
「貴方は誰なんです」
「亀田と云う私立探偵だ」
「探偵さん、本当に」
「私の事務所に来 てほしい。直ぐ近くだ」
何もない小さな事務所に、彼女を招じ入れた。彼女のリクエストで、エヴァネッセンスのanywhere but home をかけ、甘いココアを出した。彼女は幾分落ち着いた様子だった。
亀田は改めて彼女を見直し、市村奈美の写真と瓜二つであることに、驚きを禁じ得なかった。
「君、名前は?」
「山田リエ……」
「偽名ではないよね」
「はい、大丈夫です」
「君は市村奈美の遠縁とかではないの」
「違います。ただあの夜、A路地で彼女とすれ違った時、余り私に似ているので、愕いたんです」
「その夜のことを詳しく話して欲しい」
リエはココアを飲み干した。
「A路地の左側の筋から、私達殆ど同時に路地に入った。その時路地の後方からあの犯人が現れた」
「どんな奴だった?」
「革コートにサングラスとマスクで、顔は見えませんでした」
「なる程、それから」
「犯人は躊躇わず真っ直ぐ市村さんに近寄り、羽交い締めにして、後ろから頸に針金を……」
リエは思い出したらしく、恐怖にかられた。
「それからどうしたのかな」
「私は走って、その場から逃げました」
「君はこれを警察に話さなくてはいけない。辛いだろうが」
「私、怖いんです」
「判るが、頑張って欲しい」
その時、亀田は何事か閃いた風だった。
「リエさん、ちょっと待ってくれよ。思い付いたことがある。紙とペンを渡すから、ちょっと図面を書いてくれないか」
亀田はA路地の略図を書いて、リエに渡した。
「此処に、君達二人が入って来た場所、二人が交錯した場所、そして犯人が来た方向、を書いてくれないか」
リエは言われた通り、図面を書き込んでいった。
「矢張りそうか。これは大変だ」
亀田は急いで、スマホを手に取った。
6
亀田は電車で、郡元迄来た。海の方向、鴨池新町に向かって歩いた。目的地は県庁の隣の警察署。彼が県警迄出向くことは滅多になかった。緊急事態であった。
厳めしい建物の県警に躊躇わず入った。私立探偵の名刺を渡して、安田警部補を呼び出して貰った。
一室に招じ入れられた。出された水を飲んで待った。
15分程で、安田警部補が現れた。
「どうも、叔父さん、忙しいところ済みません」
「何事だ。此処は御前の来るところではないぞ」
「済みません、急ぎの用事があって」
「何だ」
亀田は先ほどの図面を出した。
「先刻、山田リエを事情聴取しました」
「彼女は今、我々が取り調べ中だ。御前の出る幕はない」
「まあ、そう仰有らずに、これはリエの書いた現場の図面です」
「うむ、この通りだ」
「それじゃ、もうお判りでしょう。奈美とリエは此処から同時に路地に入って来た。そして犯人は此方の方向から、躊躇わず奈美に近寄り……」
「それがどうした
「あらゆる偶然が重なった。奈美とリエは瓜二つ、服も同じく黒ワンピース。するとどうなるか。犯人は躊躇わず奈美に近寄った」
「詰まり何だ」
「 毛利一行は片目は義眼です。距離感が摑める筈はない」
「つまり、躊躇わず奈美に接近出来た筈はない、と云うことか」
「無差別殺人ならともかく、今は動機から追求してる訳ですよね」
「そうだ」
「すると、犯人は毛利一行では有りません」
「ううむ」
7
数日後、亀田は毛利一行宅に招かれた。無事釈放のお祝いだった。愛人の井上和正も同席した。テーブルにはデコレーションケーキ、キャビアやローストビーフ、ウイスキーが饗されていた。
「この度はどうも有難うございました」
毛利一行は亀田に深々頭を下げた。
「いえ、何、偶然が幾つか重なっただけですよ」
「いいえ、亀田さんがいなかったら、僕は殺人事件の容疑者として起訴されるところでした」
「私からも礼を言います」井上が言った。「本当に何と申して良いか」
「井上や僕のようなLGBTは、社会の偏見を受けやすいのです」
「本当にその通りですね。社会の壁が重くのしかかるのでしょう」
毛利一行はウイスキーを呷ると、言った。
「僕らは一昔前なら、精神科の門をくぐらなければならなかった。するとスティグマ付与がある訳です」
亀田は頷いた。
「知っています。聖痕、あらゆる不利益を被る社会的烙印ですね。偏見と言い変えてもいい」
毛利、井上は同時に頷いた。
「スティグマがあれば、社会生活は厳しい状況になります」毛利は続けた。「殆ど生きていけない状況にあります」
「精神科医は」亀田は言った。「アンチスティグマ運動を推進しているようですが」
「そうですね。もっとアンチスティグマ運動が広まるべきですね」
「僕らのようなLGBTのカップルが、生きやすい世の中になってほしいものです」井上も主張した。
「どうなんでしょう」亀田は言った。「権利条約が批准されてから、法改正は進むのでしょうか」
「難しいでしょう」毛利は言った。「条約は法律の上にある筈ですが、国の構造を変えるのは難しいですよ」
「権利条約をマスコミはノータッチですから」亀田は言った。「例えば児童権利条約もほとんど喧伝されない。批准されてからも、矢張りこの国の民法では、相変わらず親権が強い」
「その通りですね」毛利は言った。「差別解消法だけでは物足らない」
「僕らのようなゲイが生きていくのは、相変わらず難しいんです」井上も言った。
何時の間にか、祝賀会は議論の場と化していた。
8
亀田は山田リエのリクエストだった、エヴァネッセンスを事務所にて聴き込んでいた。
女の子らしい趣味だが、これも20年前になる。ヴォーカルは今何歳だろう。クラシックロックと異なり、生き残りは大変だなと、漠然と考えていた。
スマホが鳴っていた。
「はい、 亀田探偵事務所」
「私だ。この前は世話になった」
「ああ、叔父さん、いえいえ、市民の当然の義務です」
「新たな情報だ」
「何でしょう」
「斉野圭子を殺人容疑で逮捕した」
「なる程」
「斉野の家から、針金の欠片が見つかった。欠片に残っていた血痕と、市村奈美の血液が一致した。針金をペンチでバラバラにして処分したものの一欠片が残っていたのだろう。奈美殺害の凶器だ」
「なる程、斉野圭子は毛利一行を憎悪している。性的加害の仕返しに、毛利一行を殺人犯に仕立て上げた。そうでしたか」
「報復に他人迄殺したとは、恐ろしい女だ」
「しかし、ちょっと待ってください……」
亀田は暫し熟考した。
「叔父さん、矢張りおかしいですよ」
「どういう点が」
「余りにも偶然が重なり過ぎています」
「そうかな」
「ええ、尋常じゃありません。誠に申し訳ないですが、再度事件を調べ直して頂けませんか」
「偶然が一致し過ぎている。その通りだな」
「お手数ながら お願い致します。事件を再度洗い直して頂けませんか」
「了解だ」
「有難うございます。 これからちょっと調査の資料を取りに行きます。メールやファックスでなくて結構、此方も出がけなので」
9
少ない人口の大半が密集していそうな、中央駅アミュ。亀田は或る写真を一枚持って、調査に当たっていた。
亀田は、ビックカメラにて、 店員に写真を見せて、聞き込みをした。
「この人物に見覚えはありませんか」
「はい、見覚えがあります」
「そうでしたか、彼はこの 家電製品を買いました?」
「はい、買いました」
「確かですね」
「ええ」
所変わって、騎射場の自転車屋あさひ。
此処でも亀田は、店員に同じ写真を見せた。
「この写真の人物に見覚えはありますか」
「はい、有ります」
「何を買ったか覚えてますか」
「はい」
10
亀田は、毛利一行に再度遭いに行った。
毛利は亀田を歓待した。
亀田は出されたコーヒーを一口飲んだ。
「毛利さん、斉野圭子が殺人容疑で逮捕されました」
「テレビニュースで観ました。私を殺人容疑に陥れようとしたんですね。恐ろしい。そんなに僕を憎悪していたんだ」
「そのようです。」
亀田はコーヒーカップを置くと、真顔になった。
「私はね、毛利さん、この事件を再度考え直したんです」
「何故?」
「余りにも偶然が多過ぎるので」
「そうでしょうか」
「多いですね、余りにも。 それで一度再構築したくなりました」
毛利の表情は動かない。
亀田は続けた。
「私はね、貴方の写真を持って、家電量販店などを聞き込みしました」
「それで?」
「貴方はアミュのビックカメラで、ペンライトを買いましたね」
「ええ」
毛利一行の表情は矢張り動かない。
「また貴方は、騎射場で、反射材を買っています」
「 ええ、 それで?」
「あの夜の事件を、想起してください。あの路地で、二人の瓜二つの女が交錯した。犯人は奈美の肩に予め反射材の欠片を付けていた。奈美の肩から糊の成分が検出されました。
犯人は路地の後ろから現れ、ペンライトをかざして、反射材に当てて対象を把握した。 これなら、片目でも奈美を素早く把握
できた」
「証拠はない筈だ」
ドアから、安田警部補が入って来た。
「斉野圭子宅の庭から、貴方の靴跡が検出された。先程玄関前で照合した。圭子宅に、血の着いた針金を持っていった時のものだな。貴様のは一事不再理を狙った入り組んだ犯罪だった。共犯の山田リエも逮捕した」
毛利一行は漸く諦めた。
11
亀田は、報告書を仕上げている最中だった。依頼人の市村京子が対座。相変わらずの汚い事務所にて。
「結局、スティグマは有るべきかもしれないな」
「急になんですか」
「人は墜ちていくことを好む。それを食い止めるためには、スティグマ付与は有効だ」
「駄目ですよ、亀田さん。偏見は禁物ですわ」
「そうだな、社会的に有用であっても、矢張り良くない」