私たちは応接室まで歩いていった。笑子さんは私の少し前を歩いていて、どういう表情なのかはよくわからない。怒っている雰囲気ではないけれど、何も話してはくれないので、正直、居心地は悪かった。

「…ああいう時は、変に否定してはいけないと言うけどーー」

私は俯きがちになっていた顔をあげた。美南さんのことを言っているのだとすぐにわかった。

「残酷な話ね…騙しているようなものでしょうに」

普段とは違う淡々とした口調は、まるで笹ヶ谷さんのようだ。けど笹ヶ谷さんと違い、隠しきれないやりきれなさが底のほうに見える。
私は意を決して、笑子さんに意見した。

「それでも、楽しそうでした」



手を引かれ花壇に向かうと、美南さんは楽しそうにガーデンガーベラを見せてくれた。夏だから本数こそ少ないけれど、一本だけ、ピンクのガーベラが光に向かい、咲いていた。聞くと、美南さんがこの花壇を受け持っていて、普段は職員の方と一緒に世話をしているそうだ。
美南さんの話を聞いていると、大慌てで職員の女性が一人、走ってくるのが見えた。ショートヘアの若々しい人で、私たちのところまで来ると、息を切らしながら謝罪してきた。
首から下げているネームプレートを見ると、“研修中”と書かれている。

『本当に、申し訳ございませんでした!』
『はい、では私たちはそろそろーー』
『みゆきちゃん、もう行っちゃうの?』

皺だらけの両手が私の右手を包んだ。職員の女性はかがんで美南さんに声をかける。声に必死さが混じって、懇願しているようだった。

『ね、美南さん、もういいでしょう? これかた急ぎの用事があるんですって、だから、ね? 手を離してーー』
『嫌よ! ねぇ、みゆきちゃん、私たち親友でしょ、ずっと一緒にいて…!』

とうとう美南さんは泣き出してしまって、職員の方も泣きそうになっている。ーー感動したから、というわけではないだろう。この人まで泣き出さないためにも、やらなきゃならないことは一つだ。

『ねぇ、離れちゃったら、もう親友じゃないの?』
『…みゆきちゃんは私と離れて平気なの?』
『距離が離れても、心まで離れるわけじゃないわ…そうでしょう?』
『みゆきちゃん…』
『辛いことや悲しいことがあっても、私を思い出して頑張ってきたのよね? 私もよ』
『…』

美南さんが鼻をぐすんと鳴らした。私は美南さんの両手に自分の左手を重ねた。

『あなたが私を思い出す時ーー逆に、私があなたを思い出す時、いつだって隣りにいるわ。距離なんて問題じゃない』
『…強いのね、みゆきちゃん…』
『あなたがいてくれるからよ』

『あなたが私を強くしたのよ』と言うと美南さんは力強く頷いて、私の手を話した。そうして職員の方にしがみつき、声を殺して泣き始めた。
私はそっと頭を下げると、笑子さんに目で合図して応接室に繋がる廊下に向かった。…後ろは決して振り返らなかった。



そのまま歩いていると、笑子さんが言った。残酷な話だと。私はそれに異を唱え、前だけを向き、笑子さんの言葉を待っている。たかだか婚約者の分際で生意気だと思われただろうか、でも残酷なだけだとは思いたくなかった。それだけだ。

ふっと、笑子さんの雰囲気が和らいだ気がした。

「…睦月が言ってた通りの人ね」
「睦月さん?」
「確固とした信念があるけど、相手にできる限り寄り添おうとする人」
「それはどういうーー」

意味ですか、と聞こうとしたけど、ちょうど応接室の前まで来てしまっていた。待っていたらしい納里さんが、汗を拭いていたハンカチをしまい、私たちたちに深々と頭を下げる。

「大変、失礼いたしました! どうぞこちらです」

そう言ってドアを開け、応接室に通してくれた。座り心地の良さそうなソファに、笑子さんと並んで腰掛ける。ちょっと柔らか過ぎるソファは思いの外よく沈んだ。
それからは、このホームの経営状態や利用者及び職員の一日、今後の方向性について話を聞いた。経済学についてはチンプンカンプンだったけど、特に大きな問題はないのだということだけは辛うじて分かった。
私は話がひと段落した時に、美南さんについて聞いてみた。納里さんはちょっと視線をさまよわせ、(おもむろ)に語り始めた。

「…美南さんには幼馴染の親友がいたんです。お互いが結婚しても交流を続けていて、ご家族の話では、まるで姉妹のようだったそうです。
 ですが、その親友の方がーーみゆきさんですね、ええーーその方が亡くなってしまってからは、一気に白髪になって、認知症にもなってこの〈あまのがわ〉に…」

その話を聞いて、私は美南さんとのやり取りを思い出していた。まるで、まだ親友が生きているかのような口振りだったけど、その死が余りにもショックで、精神的な負担が彼女を認知症にしたんだろう。辛い現実から逃げるために。
参加したイベントは大成功のうちに終わった。ちょっと辺りを見回したけど、美南さんは来ていなかった。

迎えにきた車の中で、私は実母について考えた。顔さえ知らないその人は、心を病み、入院してしまった。私が生まれたせいだと思っていたけれど、私はきっと、引き鉄(ひきがね)でしかなかった。色々なストレスが重なって、それがとうとう表面化しただけにすぎないんだ。

帰ったら、秋永さんに実母の話を聞いてみよう。まだまだ青い空を見て、そう思った。