あの日から三日後、私は笹ヶ谷夫人ーーー笹ヶ谷 笑子(ささがや えみこ)さんと慰問に来ていた。笹ヶ谷グループが出資している老人ホームに、二人で行ってみないかと誘われたのだ。

それがここ、介護付き有料老人ホーム〈あまのがわ〉だ。
この老人ホームは入居条件が緩く、要介護状態ではない自立した人も利用している。介護サービスと生活支援サービスはもちろん、レクリエーションやイベントに力を注いでいるのが特徴だーーーと調べた時にそう評されているのを知った。
笹ヶ谷グループは老人ホームだけでなく、多くの児童養護施設やシェルター、子ども食堂などの社会福祉事業に出資している。ノブレスオブリージュとでも言うのか、慈善事業を率先して行っている。

心無い人たちが下衆の勘繰りで、「政界に出るための足場固めをしているだけだ」とネットの掲示板で書き込んだのを見たことがある。でも、それで一人でも多くの人が救われるなら良いんじゃないか、やらない善よりやる偽善のほうがよっぽど良いと思う。
だがこういう人たちの中では、「成金の笹ヶ谷は人気取りして政治家デビューするために弱者を利用している。海外との取引が多いのも、海外の政治家と繋がって日本の政界に圧力をかけるためだ」ということになっているらしい。成金、成金と貶める自分たちは成金にすらなれないというのに、不思議なものだ。

そもそも笹ヶ谷家は笹ヶ谷現会長ーー笹ヶ谷 清隆(ささがや きよたか)氏の父親が株でひと山あてたのが契機で、そこから驕らず、堅実に投資をしたりベンチャー企業を興したりして大きくしていった。生きていれば、この老人ホームにいるお年寄りたちと同じくらいになる。自身を省みず、精力的に働き続けた結果、早くに亡くなったという。

私は集まって楽器を演奏したり、俳句を詠んだりしているお年寄りたちを見回した。皆して思い思いの趣味に没頭している。生き生きして、とても楽しそうだ。
このレクリエーションルーム自体が明るいのもあるんだろう。日当たりのよいこの部屋は、なるべく自然の光を活用して電灯を抑えめにしてある。それに、一面の窓ガラスから見える外はちょっとした公園のようで緑が生い茂り、舗装された散歩道も見える。

「菜乃花さん」

涼やかで優しげな声に振り向くと、笑子さんががっしりした体付きの男性と共にいた。パンツスーツでかっちり固めている笑子さんとは対照的に、ポロシャツにチノパンとラフな装いだ。

「こちら、施設長の納里(なやざと)さん」
「はじめまして、こちらの施設を任せていただいております。納里です」
「はじめまして、水流井 菜乃花と申します。本日はよろしくお願いいたします」

性急にならないよう、かと言って鈍重にならないよう緊張しながらお辞儀をした。二人の反応を見たが、表面上はとてもにこやかだ。

納里さんは今日のイベントについて簡単な説明をしてくれた。今日の午後、民間の有志によるサークルが演奏を行う予定だという。笑子さんはそれを聞いて穏やかに相槌を打って、演目について質問している。この分なら、問題なく終わりそうだ。

「立ち話もなんですから、どうぞこちらのお部屋へ」

そう言って納里さんが手で事務所の奥を示し、私たちを応接室へと案内しようとした。
その時だった。

「みゆきちゃん!」

幼気な声が間近で聞こえたと思ったら、いきなり左手をつかまれた。
驚いて後ろを向くと、真っ白で緩くウェーブのかかった髪をした女性がそこにいた。

「みゆきちゃん、やっと来てくれたのね」

嬉しいわ、とさらに言い募ろうとする女性を、納里さんは慌てて押し留めた。

美南(みなみ)さん、私たちこれからちょっとお話しがあるのでーー」
「そんな、久しぶりに会えたのに、どうして邪魔するのよ!」

小さな目をしょぼしょぼさせながら(たかぶ)る姿に、納里さんは太い眉を八の字にした。

「ではお菓子やお茶を用意していただけませんか? 私は部屋を整えておきますから」
「いいの! それは後で! ねぇ、みゆきちゃん、ガーベラが綺麗に咲いたの、こっちよ!」

彼女はまるで、きかん気な子どものように私の手を引いた。どうしたらいいのか迷ったけれど、一瞬で覚悟を決め二人に言った。

「すぐに戻ります。奥の応接室でしたよね?」
「いえ、大丈夫です! 美南さん、本当に後にしてーー」
「納里さん、菜乃花さんに任せていただけませんか?」

事態を静観していた笑子さんが言った。それでもまだ何か言いたげな納里さんに、心配なら私もついて行きます、とまで言い出して、どうにか納里さんは折れてくれた。

「本当にすぐですから」
「行こう、みゆきちゃん!」

その女性ーーー美南さんは手を繋いだまま走り出そうとするものだから、私は宥めすかしてゆっくりと歩いていく。笑子さんは後ろかたニ、三歩ほど離れてついてきた。どういう訳で味方になってくれたのかは分からないけど、とにかく急いで終わらせようと思った。