別宅も、あの最初に連れてこられた家と同じくらい立派だった。

白い家、というより邸宅はかなり広い庭付きで、それだけで私は心が和らぐのを感じた。やっぱり緑があるのは良い。
イヌツゲやニシキギを横目に、実父の後に続いて石畳を歩く。そうして庭を通り抜けると男の人が玄関ポーチに立っていた。私たちの先を行っていた運転手さんと何やら話している。

「彼が秋永(あきなが)だよ」

実父の言葉に私はその男の人をマジマジと見つめてしまった。
遠目ではあまりよく分からないけど、褐色の肌で、全体的に中肉中背の体型なのは見てとれた。運転手さんは恰幅(かっぷく)が良くて色が白いから、余計にそう思うのかもしれない。
二人は和やかに話していたかと思うと、私たちのほうを向いて一礼した。慌てて私も礼を返しそうになるけど、ぐっと(こら)える。私はお嬢様で、相手は使用人なんだから礼を返すのはおかしい。散々そう教えられたけど、気を抜くとやらかしそうになる。
実父もそれを見てとったらしい。

「分かっているとは思うけど、婚約破棄ということになれば…」
「ええ、分かっておりますーー“お父様”」

嫌悪を隠して返事をすれば、実父は尊大に頷き秋永さんたちがいるほうへと歩き出した。私は数歩ほど遅れてついていく。習った通り、優雅な歩き方を意識して。
秋永さんが絶妙なタイミングでドアを開ける。重厚な装飾が施された黒いドアから、この家に飲み込まれるような気がして、呼吸が少し浅くなった。

通されたリビングは、庭の最も美しい部分を見られるようになっていた。それだけじゃない、日光を出来るだけ取り入れられるよう設計された邸宅だ。テレビで“芸能人のお宅訪問!”みたいな番組を見たことがあるけど、それを生で見ているような気持ちになった。
だけどこの家でこれから暮らすのは、画面の向こうにいる芸能人じゃない。この間まで安アパートで暮らしていた二十歳そこそこの娘なんだ。
元主人の娘とは言え、庶民の娘でしかない私に秋永さんは一体どういう気持ちで礼をしたんだろう。
そんなことを考えているとも知らず、実父は私に向き直り、言った。

「菜乃花さん、彼が秋永だ。秋永 篤郎(あきなが とくろう)。何か必要な物あれば、遠慮なく言いなさい」

私は改めて秋永さんを見た。黒々とした髪をオールバックにし、アーモンド型の目は穏やかな光を(たた)えている。こちらに一礼した時も思ったが、とにかく所作に不自然さがない。本当に何十年と執事として働いていたんだろうと、素人の私でも分かった。

「本日よりお嬢様にお仕えいたします。秋永と申します」

秋永さんは余計なことは言わずに、再び一礼した。私は頭を下げることなく、口の端を僅かに上げて言った。

「ええ、よろしく」

これで良いんですよね、と目だけで実父に聞くと、目を細めて首肯した。正解だった。良かった。付け焼き刃の振る舞いもそれなりに見えるらしい。

「失礼します、ただいま戻りました」

突然、若い男の声が響いた。何事だろうと声がしたほうに目を向けると、リビングの奥から若い男が現れた。

男はいかにも庭師という出立ちだった。黒い作業服を着ていて、地下足袋を履いている。手には専用の軍手を付け、全体的にキビキビとした雰囲気があった。
薄汚れていて、今の今まで作業していたと言わんばかりの姿で目を丸くしている。
見た目は秋永さんくらいの褐色の肌に、黒髪をツーブロックにしている。…どことなく秋永さんに似ているような、そんな気がした。

雅樹(まさき)、お前はそんな格好でーー」
「いや、秋永、このまま菜乃花さんにも紹介させてもらおう」

秋永さんが注意しようとしたところを、実父が止める。この人も、ここで働いているらしい。

「菜乃花さん、彼は秋永の息子で、雅樹くんだ。ここで庭師をしている」
「はじめまして! 植えたい花や木があれば、何でも仰ってください」

そう言って人懐こそうに笑った。秋永さんによく似たアーモンド型の目を細めると、目尻に笑い皺ができて快活な印象を受けた。

「ええ、そうするわ」

さっきと同じように、僅かに口の端を上げる。秋永さんは、息子さんに急いで着替えてくるように命じ、自身はお茶の用意をしにキッチンへと向かった。

「それじゃ、私は家に帰るとするよ」
「はい、あの、笹ヶ谷さんとの連絡は…」
「ああ、秋永に連絡してもらうよう伝えてある」

「今後は何事も秋永を通して連絡するからそのつもりでいなさい」と言って実父はそそくさと帰っていった。正直な話、ホッとしたし清々していた。実父と今後の付き合いは最低限になる、ということを意味するのだ。小躍りしたいくらいだった。
それでも問題がある。あのトンデモ御曹司もそうだけどーーー

「失礼致します」

そう言ってリビングに戻ってきた秋永さんを見ると、シンプルなデザインのティーワゴンも一緒だった。紅茶は湯気を立てていて、甘く優しい香りが漂ってきた。
私はは上質なソファに腰掛けて、紅茶がセットされるのを見ていた。丁寧で慣れた手付きの秋永さんは何も言わない。

この人は私を監視するために連れて来られたんだろう。私が一瞬であろうと気を抜くことがないように。
気を抜いて素を出すようなことあれば、あの御曹司を騙し続けることは叶わない。これからずっと演じて生きていくならば、常に人目を気にする必要がある。
実父は私を試しているのだ。

上等だ、やってやる。
そう決意して、私はそっとカップに口付けた。