高級車の後部座席で、私はさっきまでのお見合いを思い返していた。意地になって、ものっすごいバカをやらかしてしまった気がする。
母の命がかかっているというのに、あんなつまらない駆け引きのような真似をして、本当に見合いが失敗したらどうにもならなくなるところだった。
あれから、笹ヶ谷夫妻と実父にこの話を進めてほしいと二人で伝えた。と言っても、ほぼあの御曹司が伝えて、私は彼の後ろでただ頭を下げただけだ。
三人とも喜んで、特に実父はこの車に乗った時に、私の両手を強く握って、「よくやった」と真面目くさった顔で言い放った。
私は何も返す元気なんてなくて、これから母には会えるんだろうか、とか大学はどうしようと中退だろうな、とか取り留めのないことばかり考えた。

「だいぶお疲れのようだね」

実父が声をかけてきた。私はゆっくりと顔をそちらへ向ける。

「これから疲れている暇はないよ、結婚式の準備や挨拶回りだってあるんだから」
「…バイトと大学は」
「退職と退学の手続きはもうしてあるよ」
「…母は」
「ああ、たまになら会わせてあげよう」

実父は肩の荷が下りたのか、終始穏やかな顔で饒舌(じょうぜつ)だった。話を聞く限り、本当に結婚のことだけ考えていれば良いらしい。母にもたまに会えるならば、もうそれで良いかと思った。
…花屋になる、その夢はもう叶えられないけど。
幼少期からの夢を、母と父は心から応援してくれた。父は私が小学生の時、事故で亡くなってしまったが、身繕(みづくろ)いの大切さや、整理整頓をよく教えてくれた、テーブルマナーだってそうだ。

『常に身ぎれいに、清潔にしておいで』

『食べ方が綺麗であれば、人は良い印象をもつものだよ』

『そうすれば、菜乃花を悪く言う人はいないからね』

父は几帳面な人で、少し潔癖のきらいがあった。でも私はそんな父が好きだったし、尊敬していた。母もそうだ。

『お金の心配はしなくていいから』

『あんたは好きなことをしなさい』

『父さんの教えを守る素直な子だもの、大丈夫、上手くいくから』

そう言って私に自信を与えてくれた母は、父が亡くなってからひたすら働いた。ケアマネージャーとして忙しなく働く母の助けになりたくて、家事を必死で覚えた。
勉強だって同じだけ頑張って、新聞配達のバイトをやった。そのおかげで、奨学金を得て高校に通ったし、希望する大学に入学できた。
大学に入ってからは花屋のバイトを始めて、開業資金をコツコツと貯めた。そこで接客の技術ーー笑顔とか声のトーンとか姿勢とかを学んだ。
楽しかったのはブーケ作りだ。客の要望に応えて作る技術は、一朝一夕で身に付くものじゃない。私はとうとうお客にブーケを作ることはなかったけど、店長が良い人で、店が終わってからブーケを作る練習をさせてくれた。
ガーベラの花束を作ったのを最後に、店が終わってからすぐに病院へ向かうようになって、それからーーーそう、隣りの男に連れ去られた。
記憶を走馬灯のように思い返していたら、また実父が話しかけてきた。

「私の別宅に着いたら、後は秋永(あきなが)に世話を任せるから、そのつもりでね」
「秋永さん?」
「ああ、君の本当のお母さんーー夏菜子の執事でね、彼女と別れてからもうちで働いてくれているんだよ」
「執事、ですか」
「気安く接したらいいさ。君のことを聞いて、とても喜んでいたから」

秋永さん、実母の執事だった人。
そう聞いてもピンとくるものはない。他人のようなものだし、これはどうしようもない。ただ、本宅ではなく別宅なのは、後妻とその息子を気遣ってのことだろう、これだけはわかった。
実父はもう説明することはないのか、目を閉じて軽く寝入ってしまった。それを見て少しホッとして、私は別宅に着くまでぼんやりと外の景色を眺めることにした。

等間隔で並ぶ街路樹や、歩道をゆっくりと歩く家族連れを見ながら、革張りの、ほど良く反発するシートに身体を沈めて、これからの人生を思う。
こんな高級車に乗れる日がくるなんて、一ヶ月前のあの日まで思ってもいなかった。人生なんて分からないものだ。

これから私は、自分自身を殺して生きていく。
あの美形だけど仏頂面の男に嫁いで、ひたすらに息を殺して暮らしていく。

あの男は一体なんなのだろう。「やっぱり本性隠してぶりっ子してる女は無理です! 」とか言い出すかと思ったのに、このまま話を進めてほしいと言ってきた。
私を試しているつもりなんだろうか、どこで音を上げて逃げ出すか、腹の中で(もてあそ)ぶ気なんだろうか。
ーー生憎だけど、逃げ出すつもりなんてない。
こうなったら、あの男が平伏すくらい完璧な婚約者を演じて、認めさせてやる。
そう腹を括って、視線を外から前に向ける。運転手の後頭部しか見えないが、私の目の前にはあの御曹司の顔が浮かんでいた。

「あー…コホン」

実父のわざとらしい咳払いが聞こえた。

「もう着くから、準備しなさい」
「はい」
「…その、そんなに緊張しなくて良いから」

実父の言葉に窓ガラスを見ると、ひどく険しい顔がそこにあった。知らないうちに力がこもっていたらしい。

私は深呼吸して、車が静かに止まるのを待った。