私は欠伸を一つすると、ペダルを踏む足に力を込めた。
眠い。帰ってさっさと寝たい。それだけしかもう考えられない。
慣れるまでの辛抱とはいえ、キツいものはキツい。深夜から早朝にかけてのコンビニバイトは時給が良くなきゃやってられない。

あと少しで日が昇りそうな空は中途半端に薄暗く、自転車のライトは朧げな光で照らすだけ。車なんて通らない交差点で信号待ちしている間に目蓋は落ちそうになるし、頭も身体も全体的にぼんやりしているのが自分でもよくわかった。

やっとアパートが見えてきてスピードをゆっくり落とす。屋根もない駐輪場に自転車を置いて、鍵をかけた。
部屋の鍵をバッグから取りだして顔をあげると、私は思わず固まってしまった。

「…」

そこには女の人がいた。裸足で、薄着で、長い黒髪はボサボサだ。目ばかりがやたら異様で、ギラついていた。いわゆる“関わっちゃいけないタイプ”“目を合わせちゃいけないタイプ”の人だ。
私は気だるい眠気が一気に吹きとんだものの、身体はちっとも動かなくなってしまった。まるでホラー映画の一幕のような、思いがけない恐怖で何もできなくなる、そんな感じだ。
ただ、この場にいるのは役者ではなく私だし、これは作り物じゃなくて現実だ。異常事態になったらどうなるか、その時になってみないとわからないものだ。

「あなた、菜乃花さん?」
「あ…」
「違うの?」
「え…」
「違うのかって聞いてんだよ!」

女の人はいきなり距離を詰めて私の顔をのぞきこんだ。唇に血の気はなく、目は血走っていて今にもつかみかかってきそうだ。私はまともに返事ひとつできなくて、足は相変わらず動かないままだ。

「ちが、ちがう」
「いつ? いつかえってくる?」
「わか、な」
「かくしてるの?」
「え?」

女の人は目を見開いた。目尻が裂けてしまうんじゃないかと思ったけど、それ以上に大口を開けて口角泡を飛ばしながら喚きだしたのに気をとられた。

「あのおんなだせよあいつがじゃましてくるむつきはわたしのわたしのむつきむつきむつきあああああうんめいなのにどうしてわたしはこんなあんたさえいなけりゃあんたのせいだあんたのせいあんたのせいあんたのせいふざけんなふざけんなーーー」


「菜乃花さん!」


ひどく懐かしい声が聞こえたと思ったら、目の前は紺色の背広でいっぱいになった。いよいよ何が何だかわからない。なに、何が起こってる?

「お嬢様!」

また聞きなれた声がした。振りむくと秋永さんがこちらに向かって走ってくるのが見えた。いつもの仕事着ではなく私服で、ダウンジャケットを羽織っている。

「秋永さん、大丈夫?」
「ええ…大丈夫です」

いつもかっちり決めてるオールバックではなかったから、完全に休日だったんだろう。それでも気品を失わず、さっさと息を整えてしまったのには素直にすごいと思った。ーーいやそれどころじゃない。

「あ゛ああ゛あ゛あぁ!」

獣の咆哮かと勘違いしてしまいそうな悲鳴に、私は笹ヶ谷さんのほうを向いた。そうだ。どうして目を離してしまったんだろう。いくら笹ヶ谷さんが男でも、危険なのは変わりないのに。

「笹ヶ谷様!」

秋永さんが駆けよった。笹ヶ谷さんが膝をつく。両手でおさえている右脇腹から、ドス黒いシミがじわじわ広がっている。
女の人の目は焦点が合ってなくて、さっきの騒ぎが嘘のようにぼんやりと、魂が抜けた顔になっている。両手で何かを握りしめているのが見えた。

サイレンの音が聞こえる。目の前は急に暗くなって、意識もあっさりなくなった。



「…は、…が…」
「……も………す」

誰だろう。誰かが何か言ってーーああ、テレビをつけっぱなしで寝ちゃったんだな。電気代がもったいない。せっかく深夜バイトを頑張っているのに。
あれ、いつテレビつけたっけ? 今日、というか昨日のバイトが終わってから、自転車で帰って、駐輪場に止めて、それからーー
それから?

私は目を開けた。どう見ても自宅じゃない光景が広がっている。この構造、壁紙や窓、よく知ってる。ここは母さんが入院している病院の診察室だ。
ベッドの周りには配慮なのか、カーテンで仕切られていた。私はそっと起きあがって、カーテンを開けて声をかけた。

「あの…」
「お嬢様! どうぞまだお休みになられてください」

お医者さんと話していたらしい秋永さんは、驚いて私の近くまで寄ってきた。気を失う前に見た、ダウンジャケットのままだ。
ーー夢じゃなかったんだ。

「いやあの、ちょっとトイレ行きますね」
「あ、いえ、失礼しました」

いつも冷静な秋永さんが狼狽えているのは少しだけおかしかったけど、事態はそれだけ深刻なんだと聞かなくてもわかった。私の表情を見て何を思ったのか、秋永さんはベッドから下りようとする私を支えながら言った。

「笹ヶ谷様はご無事です、意識もしっかりしていらっしゃいます」
「よかった…、その、あの女の人は」
「警察に連行されました。後日、事情聴取をさせてもらうとのことでした」
「…あの人は、奥様なんですか?」

私の直球な質問に秋永さんは僅かにたじろいだ。私は畳みかけるように疑問をぶつける。

「私を探していましたし、睦月さんについても何か言ってました。というか実家に引きとられたんじゃないんですか?」
「…お気持ちはよくわかります。必ずお答えしますので、今はお休みください」
「睦月さんもここにいるんですか」
「お嬢様」
「それだけ教えて。会いにいくなんて言わないから」
「…こちらで応急処置を受けていらっしゃいます」
「…わかった。ありがとう」

私はそれだけ言うと、ここから近い女子トイレに向かった。