ーー笹ヶ谷様の潔白は必ず証明されます。その時は、水流井の家も無事ではすまないでしょう。ニュースになるはずです。その時は、必ず連絡いたします。

秋永さんはそう言って私を送り出してくれた。
そして一ヶ月後、何の音沙汰もなかった。

強がって「すぐ戻る」とか言っちゃったけど、ないわ。恥ずかしいわ。
どうにかしようにも相手は雲の上の人、話を聞こうにも手段が少なすぎる。週刊誌や新聞を漁っても裁判の“さ”の字もなかったし、笹ヶ谷グループの本社に一回だけ電話をかけてみたけど、笹ヶ谷さんに繋げてもらうことはできず、やんわりとお断りされてしまった。
連絡先は秋永さん親子に渡してきたから何かあったら連絡はくれるはずだけど、こうにも音沙汰がないとじれったくて辛い。

だけど本当に辛いのは笹ヶ谷さんだ。
やってもいないことで糾弾されている人と比べるのもおこがましい。笹ヶ谷さんのご両親だってそうだ。息子が謂れのない罪で訴えられるかもしれないんだから、心労はどれだけのものか。
私も母さんに心配をかけてしまったから、人のことは言えないけど。



荷物をまとめたその足で病院に行って再会した日、母さんは喜びと怒りを内混ぜにした表情で迎えてくれた。お互いに抱きしめて子どものように泣いた後は、自分の身に起きたことを一日かけて話した。

「そう、それで戻ってこれたのね」
「うん…笹ヶ谷さんは心配だけど、私にできることはないから」
「…菜乃花、あの…今更だけど、あんたを引き取った時のこと、聞きたい?」
「!」

私は母さんの目を見つめた。母さんも私を見つめ返した。

「教えて、話せる範囲でいいから」

母さんは少しだけ目を伏せると、水流井から電話がかかってきた日のことから話し始めた。


ーーあれは二十年前のことだった。秋永さんから電話がかかってきたの。そう、夏菜子さんの執事。彼とお父さんは昔からの友人でね、うちにもよく遊びにきてた。
私たちはあの頃、不妊治療をしていたんだけど、どうしてもだめで、子どもはもう諦めようかって話もしてた。
だから、秋永さんから養子を育ててみないかって言われた時は、運命だって思った。夏菜子さんのご実家は荒れた夏菜子さんで手一杯で、水流井の家はあれだもの。私たちの手で幸せにしようって決めた。
秋永さんは泣きながら「よろしくお願いします」って言ってた。生まれたばかりで両家から厄介者扱いされるあんたが不憫だったって。
でもまさか、水流井の家があんたを利用するなんて思ってもみなかった。もう関係ないのに、どうして放っておいてくれなかったんだか。


「…秋永さんはそんな話、してくれなかった」
「そうなの? まぁお喋りじゃなかったし、水流井に口止めされてたとかじゃないの?」
「…かもしれない」

私は何か引っかかるものを覚えたけど、母さんの言葉にその場は納得した。次に会ったら聞いてみればいいだけだ。

それにしても、これほど親身になってくれる人だなんて思ってなかった。初めて会った時は、私を監視するために連れてこられたんだろうとさえ考えていたのに、正反対の人だった。執事の立場を超えて、私を慮って行動してくれている。雅樹さんだって私を最後まで心配してくれた。
思い出してしまえば、途端に皆が恋しくなった。一年にも満たない期間なのに。
笑子さん、清隆さん、街浦さん、美南さんや納里さん、津江崎夫妻、京さん、運転手さんや茶道の先生、それとーーー。
笹ヶ谷さんは。
ーー睦月さん、は。

「菜乃花? 疲れてる?」
「ううん、大丈夫」

母さんの言葉に笑って首を振った。この気持ちは、誰にも知られず墓まで(いだ)いておかなくちゃ。

「そう…」
「いったん荷物、置いてくるね。そのまま来ちゃったから」
「…今日はゆっくり休みなさいよ?」
「大丈夫、わかってる」

ゆっくり休んだら、明日からバイト探しだ。病院に近いコンビニあたりで募集していた気がするから、そこに行ってみよう。深夜の時間帯をさせてもらえないか聞いてみないと。
これから忙しくなりそうだけど、また母さんと一緒にいられるんだから。幸せだ。本当に幸せだ。

「母さん」
「うん?」

私は黙って母さんを抱きしめた。痩せてしまって、背中に回した手に硬い感触があった。でもとってもあったかい。もう二度と会えないと思っていたその人を、私は抱きしめているんだ。

「甘えたになっちゃったねぇ」
「なるよ」
「…そうだね」

病院に泊まれるものなら泊まりたかったけど、病院の規則でダメだった。面会時間はそろそろ終わりだから、本当にもう帰らないといけない。
私はそっと離れた。

「また明日」
「うん、また明日」

コートや鞄を抱えて病室を出た。窓の外は真っ暗で、街灯が星あかりみたいにぽつん、ぽつんと光っていた。ナースステーションで看護師さんに挨拶をして、エレベーターで一階に向かう。
待合室は人影も(まばら)で、面会時間の終了を知らせる案内がスピーカーから流れてきた。こんな時間まで病院にいたことなんてなかったから不思議な感じだ。
自動ドアが開くと、待ってましたとばかりに寒風が吹きつけてくる。すぐに鼻が冷たくなって、マフラーを巻き直した。

鼻をすすってバス停までの道を歩く。手の甲で目を乱暴にこすって、何もないような顔をした。