帰宅した私を待っていたのは、赤い顔した知らない--いや、よく知っている男だった。

「あ、え、睦月さん?」
「あー、なのかさん、おかーりー」

運転手さんにドアを開けてもらったは良いが、いつもなら控えている秋永さんがいない。何かあったのかとリビングに向かうと、酔っぱらいの婚約者が待ちかまえていた。
…べろんべろんだ。呂律が回ってなくて“おかえり”が“おかーりー”になってる。目もとろんとなって、いつもの凛々しさはどこかに吹っ飛んでる。
何がどうしてこうなった? 秋永さんたちは?
混乱する私をよそに、睦月さんは着ていたシャツを脱ごうとする。手元が危ういので全く脱げていないが、私はぎょっとして睦月さんを止めた。

「待って、ここうちのリビングです!」
「あつい」

そう言ってむすくれる笹ヶ谷さんは、聞き分けのない幼児のようだ。随分と大きな幼児だな。
それにしても、顔から険が取れると一気にあどけなくなる。眉はなだらかなアーチを描き、目は半目で目尻は下がっている。唇は薄く開いて隙だらけだ。
と思っていたら、いきなりふにゃりと笑った。

「なのかさん」
「!」

かわいい。
心臓が跳ねて、顔に熱が集まるのが自分でも分かる。

「ぎゅう」
「!ーー!、!?」

抱きしめられた。心臓の音だけが聞こえる。
それ以外は身体が熱いことだけしか分からない。そもそもこの熱さはこの人のせいなのか、私の熱が急上昇したせいなのか、ちっとも分からない。
…秋永さんが咳払いをするまで、私は抱きしめられたままだった。


「それで、どうしてあんなことになったんですか?」

私は廊下で正座している雅樹さんに事の経緯を聞いていた。秋永さんは笹ヶ谷さんを連れてキッチンへ向かった。とにかく水を飲ませて落ち着かせるつもりらしい。

「間違って酒を出しちゃったんです…」

今にも泣きそうな声で、振り絞るように言われた。青い顔で項垂れる雅樹さんは、ぽつり、ぽつりと、順番に事情を説明しはじめる。

本日の商談を無事に、かつスムーズに終わらせた笹ヶ谷さんは、私の顔を一目見ようと家まで来てくれた。もちろん、私が慰問から帰る時間に合わせようとしたが、思っていたより早く着いてしまった。
そこで待たせてもらうことになったが、ここで問題が発生した。
笹ヶ谷さんに出す飲み物が見当たらない。間の悪いことに秋永さんは不在で、雅樹さんが一人で対応しなければならなかった。
まさか、自分が飲んでいるお茶だのジュースだのを出すわけにもいかない。困った雅樹さんが冷蔵庫を覗くと、何やらガラス瓶に真っ黒な液体が入っている。よく見れば、“コーヒー”とラベルが貼ってあったので、深く考えずに出してしまった…という次第だった。

「それが、コーヒー酒だったんです…」
「しかも睦月さんはお酒に弱かった…」
「本当に申し訳ございませんでした…!」

この騒動からしばらくして、コーヒー酒について少し調べてみた。
コーヒーリキュール以外にもコーヒー豆と焼酎を漬けたお酒があるそうで、笹ヶ谷さんが飲んでしまったのはこのコーヒー酒だった。秋永さんが漬けておいたのを、雅樹さんが間違って出してしまった、というのが真相だが、一杯だけであれだけの効力を発揮するのが恐ろしい。

この後、秋永さんからも謝罪があったが、あんまりにも恐縮しているのが気の毒だった。

「…どうぞ頭をあげてください」
「お嬢様、ですが…」
「私は大丈夫ですから、睦月さんを見て差しあげて」

私はそう言ってソファに寝転がる笹ヶ谷さんを見た。まだお酒が効いているのか、腕で目を覆い、辛そうにしていた。水は飲んだし、衣服は緩めたけど、最悪の場合は救急車も呼ばないといけない。

「お嬢様、ここは私が引き継ぎますので、どうかお休みになられてください」
「…もう少しだけ、お茶を淹れたら、お風呂に入りますから」

いつも穏やかで動じない秋永さんだが、この時ばかりは眉尻が下がって困り顔になった。この人の心労を増やしたいんじゃない。でもどうしても放っておけなかった。

「…急須と茶葉と湯呑みはこちらでご用意させていただきます」

沈黙がしばらく続いたけれど、とうとう秋永さんが折れてくれた。私はお礼を言うと、秋永さんと一緒にキッチンに向かった。
私がお湯を沸かしている間、秋永さんは手際良く全てを準備すると、今度は笹ヶ谷家に連絡すると言ってキッチンから離れていった。私は電気ケトルをセットすると、鈍い青の湯呑みをケトルの近くに置いた。お湯が沸くまでの数分間、私はさっきの出来事を思い返していた。

ーー心臓が跳ねたのは、あまりのことに心がついてこなかったせいだ。怖かったとか、びっくりしたとか、そういうやつだ。

そう自分に言い聞かせた。だってそうじゃないとおかしい。私は母さんのためにあの人を騙しているんだから、好きになる、なんて。

お湯が沸騰したことを知らせるアラームが鳴った。私は考えるのを中断して、お茶を淹れようとケトルの持ち手をつかんだ。

ーーでも、“一目惚れ”したというのは信じてもいいかもしれない。

そんなことを思いながら。