何をするにも“視力”は大切だ。
細かい作業には尚更。

創作が一段落ついたローズマリーは、落としてしまった右の目玉を探すため、再びあの雑木林にやって来た。
三日も経っては、野生の鳥や獣に食われてしまっただろうか。

目玉がもし見つかれば幸運だ。それに肉桂と初めて会った場所にまた立てると思うと、幸せな気持ちに包まれる。ローズマリーの足取りは軽かった。


しかし問題なのは、正確な場所が思い出せないこと。
三日前の行動は、材料探しのために足元を見るか、時々月を見上げるか。雑木林のどこをどう通ったかなど、ほとんど覚えていなかった。

当て所なく雑木林をさまよっていると、

「あら?こんな洞穴あったかしら…?」

以前は見たことのない、大人一人がやっと入れそうな大きさの洞穴を発見した。

明らかに三日前の場所ではない。
残った左目を凝らして中を覗くと、暗闇に動くものが見えた気がした。大人の背中のような。
これだけの大きさだ。ウサギやアナグマなどの野生動物とは考えにくい。

「まさか…!」

ローズマリーの頭にある考えが閃く。

まさかこの中にいるのは、三日前出会ったキョンシーの青年・肉桂なのでは?
元々迷子だった彼だ。今の自分と同じく、雑木林の中をさまよって、この洞穴へ辿り着いたのかもしれない。

「……あ、あの!もし…!」

穴の中の背中へ声を掛ける。
が、反応は無い。もしや声が小さかったか。

もし彼なら、彼にまた会えるなら、こんなに嬉しいことはない。
ローズマリーは高鳴る胸を抑えて、代わりに声を張り上げた。

「…に、肉桂、様っ!!」


ローズマリーの呼び掛けに、洞穴の主はやっと反応を示した。
背中がゆっくりと振り向き、穴から姿を現す。

ただしそれは、彼女の求めていた肉桂ではなく…、

「……あ、あらっ?」

黒い体毛。2メートルを優に超える巨体。
ギラギラした黒い目玉に、剣のような鋭い爪。
現れたのは、野生のヒグマだった。

「……ヒッ!!」

ローズマリーは息を呑んだ。

ヒグマは緩慢な動きで、一歩また一歩とこちらへ近付いて来た。
口元からずらりと並んだ牙が見える。鼻が匂いを嗅ぐためにしきりに動き、鋭い眼光がローズマリーを捉えた。

「……ア、アワワ…!」

声を上げるべきか。黙るべきか。
ローズマリーは口をアワアワさせるばかりで、その場から一歩も動けずにいた。

ーーーわたくし、ゾンビだから…!食べても美味しくありませんわよ…!

心の中で念じた命乞いとは裏腹に、彼女を食料もしくは外敵と判断したヒグマは、その鋭い爪を大きく振りかぶった。

「!!」

爪を振り下ろす動きがひどくゆっくりと、スローモーションに見える。これが走馬灯か。

この一撃を食らっては、ボロボロのローズマリーの体など跡形もなく粉砕されてしまうだろう。
恐怖のあまり、彼女はとっさに左目を強く瞑った。

…だが、

痛みも衝撃も来ない。
代わりに何かの音が聞こえた気がして、ローズマリーは恐る恐る目を開く。

「あっ!」

これは夢だろうか。
立ちすくむローズマリーの前に、ヒグマの横殴りのパンチを両手で受け止めた、肉桂の姿があったのだ。

ヒグマと比べるとかなり線の細い体ながら、重い一撃を受け止めてもびくともしない。両脚でしっかりと踏ん張り、体幹を固定している。

次いで、ヒグマがもう一方の前足でパンチを仕掛ける。目にも止まらないスピードだ。

肉桂は左手で最初の一撃を止めたまま、右手を素早く外へ薙ぎ、ヒグマの二撃目を弾いた。
バチンッと力強い音が鳴り、ヒグマの体がよろける。

その隙を見逃さない。
肉桂は両脚の位置を変えてさらに強く踏ん張ると、一瞬で左手と右手を胸元で構え、ヒグマの首を目掛けて、一気に掌底を撃ち出した。

猟銃が獣を捉えるが如き音がした。
唖然とするローズマリーの目の前で、首に強烈な一撃を食らったヒグマは、天を仰いで背後へと倒れ込んでしまったのだ。
倒れた衝撃で、地鳴りのような音が辺りに響く。

「!」

ローズマリーは思わず口元を押さえる。
ヒグマはピクリとも動かない。完全に伸びている。


「ローズマリーさん。怪我はありませんか?」

たった今熊狩りを披露した肉桂は、三日前と同じ抑揚のない調子で、ローズマリーに声をかけた。

しばし唖然とヒグマを見ていたローズマリーだが、やがてハッとして彼に向き直る。

「にっ、肉桂様…!
わ、わたくしを助けて、くださったの…!?
あ、ありがとう、ございます…!!」

恐怖の余韻と、助かった安堵と…再び彼に出会えた喜びが怒涛のように湧き上がる。

「あ、あのあの、肉桂様どうしてここに…っ、あ、いや、わたくし…っ、あれからずっとあなたに…、」

言葉が上手く整理できない。
たどたどしく思いを伝えようとするローズマリーを、肉桂が制止した。

仰向けに倒れているヒグマを一瞥し、

「脳を揺らして気絶させただけなので、じきに目を覚まします。今のうちに安全な場所へ避難しましょう。」

肉桂は流れるような動きで、ローズマリーの背中と膝を抱き上げた。
いわゆる“お姫様抱っこ”スタイルだ。

「ギャ!?」

「少しの間我慢してください。」

冷たい体温と、死体の匂いさえ感じてしまう至近距離に彼がいる。

「アワ……。」

自壊寸前で放心するローズマリーを軽々抱いて、肉桂は彼女が元いた墓場を目指し、風のようなスピードで走り出した。