肉桂に返しきれない恩を貰ったローズマリーは、ひとつの決意を固めていた。

一人作業台に向かう彼女の前には、ボロボロの紙クズと化した「符」がある。

ヒグマから助けられたあの日、肉桂はこれを探していた。彼にとっては大切なもの。「家族」のもとへ帰るために必要なもの…。

それをなぜ一年以上も隠匿していたのか。理由は明らかだ。
符を返せば、肉桂がここからいなくなってしまうから。

「……肉桂様…。」

独りぼっちのローズマリー。彼女の楽しみは、大好きな肉桂と一緒に過ごし、彼のことを考えながら創作に勤しむこと。

だがそれは、ローズマリーの独りよがりに過ぎない。
自分の都合で肉桂をこんな何もない場所に繋ぎ止めていい理由など、どこにもないのだ。


幸い、彼はこれからも人形を作ることを了承してくれた。
例えここからいなくなっても、肉桂と過ごした記憶が鮮明に残っている限り、きっと寂しくはない。100年間独りで創作に打ち込んでいた日々がまたやって来るだけ。

ローズマリーは羊皮紙と赤いインクを準備する。
そして紙クズと化した符を見本に、全く同じものを複製することにした。

異国の文字を書いたことはない。
やり直しのきく造形とは違い、ペンは一発書きだ。最初の1文字で早々に間違え、羊皮紙を取り替える。手先が器用なローズマリーと言えど、これはなかなかに曲者だった。

真剣に集中しながら書き進める。
同時に、ローズマリーはこの符の文字がどういう意味を持っているのかが気になった。
“道士”という人が肉桂に授けた命令。肉桂は一体どんな命令を受けてこの墓場を訪れたのだろう。

「……ウゥ〜、気持ちが乱れますわ…!」

気持ちが乱れれば文字も乱れる。
唯一最後まで書き切った一枚は、美しい見本の字とは似ても似つかない。バランスがあちこち崩れ、偽物だとすぐに分かってしまう出来となった。

やり直し…そう思いクシャクシャに丸めようとしたが、

「………。」

せっかくの初の完成品だ。捨てるのは忍びない。
ローズマリーはいつもの癖で、パニエの中に偽物の符を突っ込んだ。


そういえば、今日は肉桂が霊廟を訪ねてこない。忙しくしているのだろうか。

インクの残量も少なくなってきた。原料となる茜の根を補充するため、そして肉桂に会うため、ローズマリーは雑木林へ行くことにした。


霊廟の外はとっぷりと暮れ、大きな満月が照らしている。ゾンビウォークにおあつらえむきの夜だ。

しばし月を見上げるローズマリー。
その背後で、何かの気配がした。

「?」

振り返ると、霊廟の影に人のシルエット。
もしかしてあれは…

「ーーーあっ、肉桂様?
そんな所にいらしたのね!」

喜びのあまり、シルエットのほうへ駆け出すローズマリー。
だんだん近づいていく中で、彼女の中に違和感が生まれた。

見覚えのない姿だ。肉桂ではない。


近寄ってきたローズマリーへ、人影は手から“何か”を放ってきた。
それは水のようだが、金の小瓶から放たれた水がローズマリーの左腕にかかった途端、

「アッ…!」

焼石に水をかけるような、ジュワッという大きな音とともに、ローズマリーの左腕を跡形もなく溶かしてしまった。

自壊する時とは明らかに違う現象。
再形成するための残骸さえ残さない、不思議な力の宿るアイテムだ。

ーーー肉桂様の造ってくださった腕…!

ローズマリーが慌てて後ろに下がると、今度は暗がりから、人影が歩み寄ってきた。

月光に照らされたのは、白いカソックを着た金髪の青年だった。
首からロザリオを下げ、左手には先ほどの水の入った小瓶、右手には分厚い聖書を持っている。
絵に描いたような聖職者。だが、ローズマリーはその青年の顔にどこか見覚えがあった。

青年は高らかに言い放つ。

「現れたな、醜い怪物め!!
僕は神のしもべ、ヒューゴ・オリバー・ペンドラゴン!
偉大なる祖父オリバーの名の下に、神に仇なす復活者を狩る者である!」

早い話がゾンビハンターだ。

だがローズマリーの驚きポイントはそこではない。見覚えのある顔立ち、癖のある豊かな金髪、そしてその珍しい名…。最悪の予感が頭をよぎる。

「…あ、あなた、…“オリバー”!?
100年前に結婚式当日に逃げ出したあの“オリバー”の…息子?いえ、…ま、孫!?」

当時の彼の年齢を考えると、今のヒューゴくらいの孫がいてもおかしくない。
決定打はヒューゴの言葉であった。

「逃げ出したとは無礼な!止むに止まれぬ事情があったのだ!
ーーーフン、これはお祖父様のご遺言。
かつての婚約者が病死後、墓地から蘇り、夜な夜な徘徊していることを知ったお祖父様は、ご存命のうちに奴を滅ぼそうとした!
しかし持病の椎間板ヘルニアが祟り、晩年は寝たきり!ついにその悲願は果たされなかった!」

「…ツイ…何?」

「だからこそ、孫の僕がその悲願を達成するべく、ここまで足を運んでやったのだ!」

大袈裟なおじいちゃん孝行といったところか。

しかしこれは大ピンチだ。
目の前には、聖水、十字架、聖書というゾンビ退治三点セットで武装した聖職者。
片やこちらは、闘う術を持たないインドアゾンビ。この危機的状況を打破する方法が全く思い浮かばない。

ローズマリーの懸念はまだあった。
自分は100年間、人形を作ることで憎きオリバーの幻影を思い続けていたのに、当のオリバーはローズマリーとの結婚を放棄して神のしもべとなった挙句、幸せな家庭を築き子どもや孫まで作っていたのである。
しかもその孫が自分を退治しに現れた。まさに死体蹴り。
第三者から見れば圧倒的にローズマリーが可哀想な状況だ。

「……い、今更身勝手な!
わたくし、人を襲ったりしてないし、誰にも迷惑かけていないし、退治されるいわれはありませんわ!」

至極真っ当な言い分も、神様マインドに支配されたヒューゴにとってはどこ吹く風。

「フン、罪人は皆言い逃れをするものだ!
貴様を野放しにして、万が一の事態が起こらない補償などどこにも無いからな!
何より、お祖父様のご遺言は絶対!」

“絶対ゾンビ殺すマン”と化した彼に何を言っても無駄なようだ。
聖水の小瓶と聖書を掲げてジリジリとにじり寄ってくるヒューゴ。対して、聖水と聖書の威力に怯え、十字架の輝きを恐れ、後退りしかできないローズマリー。

「……っ。」

ローズマリーは、ある葛藤に襲われた。
まだ自分は人を襲ったことも、食べたこともない。それは彼女の食欲より、創作意欲が遥かに上回っているから。
特段空腹でもない状態ではあるが、身を守るために目の前の男を…ヒューゴを、食うべきなのではないか?

謂れのない退治によって、本当の意味で“死ぬ”わけにはいかない。
左腕は無惨にも失ったが…最悪右腕さえ庇えば、この先も創作活動ができるかもしれない。
平和主義ゾンビとして越えてこなかった一線を、今まさに越えるべきと考えた。

「掛かってこないのか、醜い怪物め…!
では僕から正義の制裁を加えてやる!」

痺れを切らしたヒューゴが、力強く一歩前へ躍り出た。
対するローズマリーも覚悟を決め、牙を剥き出しにしてヒューゴを迎え撃……