「えっ……」

杏(あんず)の手から力が抜け、鞄が地面に落ちる。だが、そんなことなど気にしている余裕はなく、杏は目の前の光景をただジッと見ていた。

杏の視線の先には、上質な着物を着た男性が楽しそうに女性と話し、歩いている。男性は女性に腕を差し出し、女性は嬉しそうにその腕に自身の腕を絡ませる。

二人のそんな様子は、多くの人が恋人同士に見えるだろう。だが、杏は違った。ドクドクと締め付けられる胸を押さえ、唇をただ震わせる。

「どうして……」

杏が見つめている男性は、ただの通行人なのではない。杏の婚約者となったはずの男性だ。

十五歳の杏は、つい数ヶ月前に両親からお見合い話を持って来られ、とある名家の男性と婚約することになった。この時代は親が決めた相手と結婚するのが当たり前の時代だからだ。杏はとても緊張したものの、男性はとても優しく、会うたびに杏に甘い言葉をかけてくれた。

「杏さんの髪、とても綺麗ですね」

「その振袖、とても似合っています」