好きとか愛とか

愛羅法とでもいおうか。

私だって父親が居なくて寂しかった。
だったらそれは、母親のいない壱矢にも父親が居なくて寂しい思いをした私にも、愛羅法が適用されてもおかしくないはずだ。
けれど、それは私には当てはまらなかった。
普段ワガママを通してきたものと、そうではないものの差。
壱矢も、甘やかされる妹を見てそうやって我慢してきたのかもしれない。

二人の中では、私たちは我慢できる側の人間と見なされたのだ。

確かに、収入の高い恭吾さんを伴侶にすれば切り詰める必要もなくなるけれど、あれだけものの大切さを私に解いていた母が旦那の言いなりになるなんて信じられなかった。
頼りない母ではあっても、人に必要な観念という部分だけはブレないと思っていたのに。
それでは愛羅の今後が心配だと、それくらいは主張すると思っていたのに、再婚後の母は完全に旦那に尽くすイエスマンとなっていた。
大黒柱の重圧がきつかったことは想像に難くない。
だからといって納得できない。

当時の衝撃は今はもうほとんど残っていないけれど、度々見られる愛羅への扱いは消化するのに時間がかかる。
なので、壱矢も私と同じような感覚であることが、アウェイな情況を軽減させてくれていた。
もともと完全に愛羅に合わせている印象もなかったとはいえ、彼女のふりという役どころが与えられなければ、もしかしたらここまで気付けなかったかもしれない。
だからこそ、いい大人の母の対応が稚拙すぎることが、目立ってしまうのだ。

 「いいのよ、壱矢君。おしゃれしたい年頃だもの。壱はおしゃれするとかには全く興味ないし寂しいと思ってたのよ。だから愛羅ちゃんとそういうお買い物が出来て嬉しいわ」

こんなふうに、愛羅に合わせ過ぎて周りが見えなくなり、私のことさえ視界に入らないように。
誰がおしゃれに興味がないだ。