帰りのHRになっても春野は教室に戻ってこなかった。
春野の辛そうな様子を知っているはずなのに今井はどこかあっけらかんとしていた。
『あれは女にしか分かんない辛さなのよ。ま、心配いらないからあんま騒ぎ立てて大事にしないであげてよ』
今井はそう言っていたけど春野の顔は明らかに青ざめていたし、心配にならないほうがおかしい。
春野の荷物は今井が保健室まで届けてくれるというので、任せることに決めて部活に向かう。
途中で保健室の春野に会いに行こうと思い立ったものの、考え直す。
翔太みたいにお喋りでもなければ気の利いたことの言えない俺は、春野になんて言葉をかけたらいいのか分からない。
心配だし家まで送り届けてやりたいけど、今日も部活があってそれも叶わない。
春野、早く良くなるといいな……。
取り出したスマホで春野にメッセージを送ると、いつもより少し重たい足取りで俺は部室に向かって歩き出した。
高校に入ってからの俺は、わき目も降らずサッカー一筋の生活を送っていた。
平日は朝7時から1時間半ほどの朝練をこなし、放課後は16時から19時半まで練習。
そのあと、各自自主練を行いようやく練習から解放される。
土日などあってないようなもので、練習試合や大会の前は休みなく朝から晩まで練習をする。
そのかいあって、高2でレギュラーを掴み取ってから俺は益々サッカーにのめり込む……はずだった。
放課後練習を終えた頃、外はもう真っ暗になっていた。
部室の扉を開けるとむわっと蒸し暑い空気が体中にまとわりついてきた。
汗なのか体臭なのかとにかく男臭い部室に顔をしかめながら自分のロッカーを開ける。
真っ先にスマホを取り出すと、隣のロッカーを開けた翔太がにやりと笑ってこっちを見た。
「賢人、好きな女できたっしょ?」
「つーか勝手に人のスマホ見んなよ」
首どころか鼻の下まで伸ばして俺の画面をのぞき込もうとしてきた翔太を牽制する。
「いいじゃん。減るもんじゃないんだし」
「減る」
「減らねぇよ」
翔太は俺が隣にいるというのに全身に制汗スプレーを噴射する。
ロッカー内が煙くなり、「おい、外でやれよ!」とあちこちから非難の声が上がっても翔太は飄々としている。
「しかし、わっかりやすいよなぁ、お前ってさ」
「なにがだよ」
とぼけたふりをすると翔太は見透かしたようにクックッと喉を鳴らす。
「誰からの連絡待ってんの?あ、待って。当てるよ。春野だろ?」
「答えたくない」
プイっと翔太から顔を背けて一方的に会話を切り上げると、練習用のTシャツから長袖のYシャツに袖を通してまくり上げる。
例え夏になったとしても長袖のYシャツをまくり上げて着ることを貫く人間が、校内では八割弱を占める。
何故かというと単純な理由だ。半袖より長袖をまくり上げた方がほんの少しだけカッコいいから。
「まあ好きな女が辛そうにしてたら保健室に連れて行ってあげたくもなるよな?」
なんて答えたらいいのか分からず黙り込んだのがよくなかったのか、翔太に全てを悟られてしまった。
「じゃ、また明日な~!」
部室を出ていつものように校門まで来ると、翔太が手を挙げた。
「おう」
「修学旅行中に春野と仲良くなれたらいいな?」
暗がりの中、翔太が細い目を更に細めてニヤついたのが容易に想像できた。
「やめろって」
「ははっ。賢人ってホント分かりやすいよね?頑張れよ~!俺は応援してるぞ!」
弾んだ声で言うと、今度こそ俺に背中を向けて歩き出す。
必死になって取り繕ったはずなのに心の中を見透かされたみたいで落ち着かない。
中学から付き合いのある翔太は普段はへらっとしているけど意外に勘が鋭かったりする。
自転車にまたがりしばらく風を切って走ると、人気のない場所まできてブレーキを力いっぱいかけた。
周りに部活の連中がいないことを確認すると、ポケットからスマホを取り出した。
【具合大丈夫?無理すんなよ】
部活が始まる前に春野に送ったメッセージの返信をようやく確認することができた。
【春野:もう平気だよ。ありがとう。部活終わったら電話してもいい?】
続けて送られてきたぺこりと頭をさげた猫スタンプの破壊力に俺は打ちひしがれる。
「可愛すぎんだろ」
もちろん、猫のスタンプではなく春野が。こんな可愛いスタンプを送ってくる春野がマジで可愛い。
このスタンプを押す春野を想像しただけで胸の中が爆発しそうになる。
一度小さく息を吐いて咳払いをしてからアプリを起動して通話ボタンを押した。
画面をタップするだけで春野の声が聞ける。
聞きなれた呼び出し音が俺の気持ちを急かす。
春野と電話するのは今日が初めてだ。
緊張よりも春野の声を聞けるという喜びの方がずっと大きかった。
『もしもし、九条?部活終わったの?』
春野はすぐにでた。
いつも隣でしゃべっている声と電話口から聞こえてくる声は少し違う。
もちろん、どちらの春野の声も最高に可愛い。
「さっき終わった。ごめん、遅くなって」
『謝らないでよ。私はいつも暇だし気にしないで。それより今日は保健室まで連れてってくれてありがとう』
「いいってそんなの。体調はもう大丈夫なのか?」
『今はすっかり元気!でも、正直あのときはすごい辛かったんだ。九条がいなかったら階段踏み外してケガしてたかも』
「それはヤバいな。修学旅行来週だぞ?」
『だよね。それにしても、九条って優しいね。お腹にタオルかけてくれたりとか、なんかすごい嬉しかったんだけど』
「俺が?いや、優しくないだろ」
『十分優しいよ。この前も数学のノート見せてくれたし。私ってばいつも九条に助けられてるね』
思わず表情が緩む。
春野は知らない。誰に対しても無条件に優しい春野と俺は違う。
俺が優しくしたいのは春野だけだ。
「優しいのは、春野のほうじゃん」
『私?』
不思議そうに聞き返す春野。俺はクラス替えしたばかりのころを思い出していた。
春野のことは同じクラスになる前から存在は知っていたし、可愛い子だなと密かに思っていた。
肩の下まであるストレートの髪。髪も瞳も元々色素が薄いのかこげ茶色。
スラリと細く伸びた真っ白な手足も相まってどことなく中世的な印象を受ける。
クラス替えのあと、校内でも派手で有名な今井三花と一緒にいるようになり、今井と同じように自己主張が激しくて気が強いタイプの女子なのかもしれないと勝手に決めつけていた。
でも、そんな思い込みはすぐに覆される。
クラス替え後すぐ数学の教科係を選ぶ時、稲田のことを嫌いなクラスメイトたちの間で係の押しつけ合いが始まった。
クラスでも力のある人間や意見を述べる人間がやりたくないと言い出し、大人しい人たちがやり玉に挙がった。
『こういうのはモブキャラがやるべきだろ!』という一言にクラス中の空気が最悪になる。
俺はというと朝練の疲れから眠気で瞼が重たくなり、うつらうつらしていた。
そんな俺の眠気を吹き飛ばすように隣の席の春野が真っすぐ手を挙げた。
まさか自分がやると名乗り出たのかと驚いたけどどうやら違うようだった。
『みんなやりたくないんだし、公平にじゃんけんにしようよ』
一部の人間から強い反発にあっても、春野は意見を変えなかった。
『そんなに嫌ならじゃんけんで勝てばいいんだよ』
結局、春野の意見がクラス中の支持を集めじゃんけんで決めることになった。
『え!私40分の1の確率を引いちゃったのぉ!?』
結局、最後まで負け続けたのは春野だった。
絶望の声が教室中に響き渡り、前後の席の女子達に声をかけて励ましてもらっていた。
『やだー!』と騒ぎながらも春野から悲壮感はまったく感じられない。
結局、言い出しっぺの春野が数学の教科係になるという壮大なオチがついてクラス中が爆笑の嵐に包まれたのを今でもよく覚えている。
「なあ、春野。数学の教科係選ぶときなんでじゃんけんにしようって言ったの?」
『え!?何急に』
「なんでかなって気になってさ」
『うーん……。嫌な役を誰かに押しつけようする空気感も嫌だったし、それにモブキャラって言葉がホント無理だったの』
春野の言葉にはわずかな怒気が含まれていた。
『私が好きな漫画の推しがなぜかモブキャラ扱いなの。でも、私にとっては世界一強くてかっこいいんだよ』
へぇ。春野って漫画好きなんだ。熱く語る春野の意外な姿に思わず微笑む。
『それにモブだから、とかそんな分類するのっておかしいもん。だから、ついじゃんけんにしようって提案したはいいけど自分が負けるとかホント私って……』
電話口の春野がため息を吐く。
「俺はあの時に春野を見る目変わったよ」
『……どういう風に?』
「春野っていい奴なんだなって思ってもっと知りたくなった」
自転車を片手で押しながらゆっくり歩いていてもあと数分で家に着いてしまう。
いつもなら一分でも一秒でも早く家に帰りたいと思っているのに、今日は違う。
春野と繋がっていられる時間は今しかない。この時間が俺にとって大切だった。
更に歩調を遅くする。一秒でも長く春野の声を聞いていたい。
『あのさ……』
「うん?」
何かを言いよどんでいる春野。
『私も……もっと九条のこと知りたい』
「……マジで?」
『マジで』
それって春野も俺と同じ気持ちってことか……?
いや、まだ分からない。
必死に喉元まで出かかる「好き」という言葉を必死に飲みこむ。
そのとき、電話口の奥から声がして春野が『分かった~!』と叫んだ。
『ごめんね、お母さんが早くお風呂に入れってうるさくて』
「そっか。ごめんな、長い時間付き合わせて」
『いいのいいの。九条としゃべるの楽しいし』
さらりと言ってのけるその言葉がどれだけ俺を喜ばせているのか、きっと春野は知らない。
「また明日、部活終わった後電話していい?」
ドキドキしながら春野の言葉を待つ。
『うん。待ってるね』
「ああ。じゃあ、おやすみ」
『おやすみ』
電話を切ったタイミングでちょうど家の前まで辿り着いた。
「よっしゃ!」
思わず声を上げていた。
自転車をサイクルポートに止めてから門扉を開けて玄関扉に手をかける。
普段は黙って家に入るのに「ただいまー!」と家に入る俺に驚いた妹の亜子がリビングから顔を覗かせる。
「ちょっと、お兄。アンタいいことあったんでしょ?」
「ねぇよ」
「嘘つけ!分かりやすい人だね、ホント」
普段なら妹にバカにされたら言い返して口喧嘩になるはずなのに、俺は華麗にスルーする。
今の俺なら、誰に何を言われても怒らない自信がある。
春野との電話のやりとりに俺の心は信じられないぐらいに躍っていた。
春野の辛そうな様子を知っているはずなのに今井はどこかあっけらかんとしていた。
『あれは女にしか分かんない辛さなのよ。ま、心配いらないからあんま騒ぎ立てて大事にしないであげてよ』
今井はそう言っていたけど春野の顔は明らかに青ざめていたし、心配にならないほうがおかしい。
春野の荷物は今井が保健室まで届けてくれるというので、任せることに決めて部活に向かう。
途中で保健室の春野に会いに行こうと思い立ったものの、考え直す。
翔太みたいにお喋りでもなければ気の利いたことの言えない俺は、春野になんて言葉をかけたらいいのか分からない。
心配だし家まで送り届けてやりたいけど、今日も部活があってそれも叶わない。
春野、早く良くなるといいな……。
取り出したスマホで春野にメッセージを送ると、いつもより少し重たい足取りで俺は部室に向かって歩き出した。
高校に入ってからの俺は、わき目も降らずサッカー一筋の生活を送っていた。
平日は朝7時から1時間半ほどの朝練をこなし、放課後は16時から19時半まで練習。
そのあと、各自自主練を行いようやく練習から解放される。
土日などあってないようなもので、練習試合や大会の前は休みなく朝から晩まで練習をする。
そのかいあって、高2でレギュラーを掴み取ってから俺は益々サッカーにのめり込む……はずだった。
放課後練習を終えた頃、外はもう真っ暗になっていた。
部室の扉を開けるとむわっと蒸し暑い空気が体中にまとわりついてきた。
汗なのか体臭なのかとにかく男臭い部室に顔をしかめながら自分のロッカーを開ける。
真っ先にスマホを取り出すと、隣のロッカーを開けた翔太がにやりと笑ってこっちを見た。
「賢人、好きな女できたっしょ?」
「つーか勝手に人のスマホ見んなよ」
首どころか鼻の下まで伸ばして俺の画面をのぞき込もうとしてきた翔太を牽制する。
「いいじゃん。減るもんじゃないんだし」
「減る」
「減らねぇよ」
翔太は俺が隣にいるというのに全身に制汗スプレーを噴射する。
ロッカー内が煙くなり、「おい、外でやれよ!」とあちこちから非難の声が上がっても翔太は飄々としている。
「しかし、わっかりやすいよなぁ、お前ってさ」
「なにがだよ」
とぼけたふりをすると翔太は見透かしたようにクックッと喉を鳴らす。
「誰からの連絡待ってんの?あ、待って。当てるよ。春野だろ?」
「答えたくない」
プイっと翔太から顔を背けて一方的に会話を切り上げると、練習用のTシャツから長袖のYシャツに袖を通してまくり上げる。
例え夏になったとしても長袖のYシャツをまくり上げて着ることを貫く人間が、校内では八割弱を占める。
何故かというと単純な理由だ。半袖より長袖をまくり上げた方がほんの少しだけカッコいいから。
「まあ好きな女が辛そうにしてたら保健室に連れて行ってあげたくもなるよな?」
なんて答えたらいいのか分からず黙り込んだのがよくなかったのか、翔太に全てを悟られてしまった。
「じゃ、また明日な~!」
部室を出ていつものように校門まで来ると、翔太が手を挙げた。
「おう」
「修学旅行中に春野と仲良くなれたらいいな?」
暗がりの中、翔太が細い目を更に細めてニヤついたのが容易に想像できた。
「やめろって」
「ははっ。賢人ってホント分かりやすいよね?頑張れよ~!俺は応援してるぞ!」
弾んだ声で言うと、今度こそ俺に背中を向けて歩き出す。
必死になって取り繕ったはずなのに心の中を見透かされたみたいで落ち着かない。
中学から付き合いのある翔太は普段はへらっとしているけど意外に勘が鋭かったりする。
自転車にまたがりしばらく風を切って走ると、人気のない場所まできてブレーキを力いっぱいかけた。
周りに部活の連中がいないことを確認すると、ポケットからスマホを取り出した。
【具合大丈夫?無理すんなよ】
部活が始まる前に春野に送ったメッセージの返信をようやく確認することができた。
【春野:もう平気だよ。ありがとう。部活終わったら電話してもいい?】
続けて送られてきたぺこりと頭をさげた猫スタンプの破壊力に俺は打ちひしがれる。
「可愛すぎんだろ」
もちろん、猫のスタンプではなく春野が。こんな可愛いスタンプを送ってくる春野がマジで可愛い。
このスタンプを押す春野を想像しただけで胸の中が爆発しそうになる。
一度小さく息を吐いて咳払いをしてからアプリを起動して通話ボタンを押した。
画面をタップするだけで春野の声が聞ける。
聞きなれた呼び出し音が俺の気持ちを急かす。
春野と電話するのは今日が初めてだ。
緊張よりも春野の声を聞けるという喜びの方がずっと大きかった。
『もしもし、九条?部活終わったの?』
春野はすぐにでた。
いつも隣でしゃべっている声と電話口から聞こえてくる声は少し違う。
もちろん、どちらの春野の声も最高に可愛い。
「さっき終わった。ごめん、遅くなって」
『謝らないでよ。私はいつも暇だし気にしないで。それより今日は保健室まで連れてってくれてありがとう』
「いいってそんなの。体調はもう大丈夫なのか?」
『今はすっかり元気!でも、正直あのときはすごい辛かったんだ。九条がいなかったら階段踏み外してケガしてたかも』
「それはヤバいな。修学旅行来週だぞ?」
『だよね。それにしても、九条って優しいね。お腹にタオルかけてくれたりとか、なんかすごい嬉しかったんだけど』
「俺が?いや、優しくないだろ」
『十分優しいよ。この前も数学のノート見せてくれたし。私ってばいつも九条に助けられてるね』
思わず表情が緩む。
春野は知らない。誰に対しても無条件に優しい春野と俺は違う。
俺が優しくしたいのは春野だけだ。
「優しいのは、春野のほうじゃん」
『私?』
不思議そうに聞き返す春野。俺はクラス替えしたばかりのころを思い出していた。
春野のことは同じクラスになる前から存在は知っていたし、可愛い子だなと密かに思っていた。
肩の下まであるストレートの髪。髪も瞳も元々色素が薄いのかこげ茶色。
スラリと細く伸びた真っ白な手足も相まってどことなく中世的な印象を受ける。
クラス替えのあと、校内でも派手で有名な今井三花と一緒にいるようになり、今井と同じように自己主張が激しくて気が強いタイプの女子なのかもしれないと勝手に決めつけていた。
でも、そんな思い込みはすぐに覆される。
クラス替え後すぐ数学の教科係を選ぶ時、稲田のことを嫌いなクラスメイトたちの間で係の押しつけ合いが始まった。
クラスでも力のある人間や意見を述べる人間がやりたくないと言い出し、大人しい人たちがやり玉に挙がった。
『こういうのはモブキャラがやるべきだろ!』という一言にクラス中の空気が最悪になる。
俺はというと朝練の疲れから眠気で瞼が重たくなり、うつらうつらしていた。
そんな俺の眠気を吹き飛ばすように隣の席の春野が真っすぐ手を挙げた。
まさか自分がやると名乗り出たのかと驚いたけどどうやら違うようだった。
『みんなやりたくないんだし、公平にじゃんけんにしようよ』
一部の人間から強い反発にあっても、春野は意見を変えなかった。
『そんなに嫌ならじゃんけんで勝てばいいんだよ』
結局、春野の意見がクラス中の支持を集めじゃんけんで決めることになった。
『え!私40分の1の確率を引いちゃったのぉ!?』
結局、最後まで負け続けたのは春野だった。
絶望の声が教室中に響き渡り、前後の席の女子達に声をかけて励ましてもらっていた。
『やだー!』と騒ぎながらも春野から悲壮感はまったく感じられない。
結局、言い出しっぺの春野が数学の教科係になるという壮大なオチがついてクラス中が爆笑の嵐に包まれたのを今でもよく覚えている。
「なあ、春野。数学の教科係選ぶときなんでじゃんけんにしようって言ったの?」
『え!?何急に』
「なんでかなって気になってさ」
『うーん……。嫌な役を誰かに押しつけようする空気感も嫌だったし、それにモブキャラって言葉がホント無理だったの』
春野の言葉にはわずかな怒気が含まれていた。
『私が好きな漫画の推しがなぜかモブキャラ扱いなの。でも、私にとっては世界一強くてかっこいいんだよ』
へぇ。春野って漫画好きなんだ。熱く語る春野の意外な姿に思わず微笑む。
『それにモブだから、とかそんな分類するのっておかしいもん。だから、ついじゃんけんにしようって提案したはいいけど自分が負けるとかホント私って……』
電話口の春野がため息を吐く。
「俺はあの時に春野を見る目変わったよ」
『……どういう風に?』
「春野っていい奴なんだなって思ってもっと知りたくなった」
自転車を片手で押しながらゆっくり歩いていてもあと数分で家に着いてしまう。
いつもなら一分でも一秒でも早く家に帰りたいと思っているのに、今日は違う。
春野と繋がっていられる時間は今しかない。この時間が俺にとって大切だった。
更に歩調を遅くする。一秒でも長く春野の声を聞いていたい。
『あのさ……』
「うん?」
何かを言いよどんでいる春野。
『私も……もっと九条のこと知りたい』
「……マジで?」
『マジで』
それって春野も俺と同じ気持ちってことか……?
いや、まだ分からない。
必死に喉元まで出かかる「好き」という言葉を必死に飲みこむ。
そのとき、電話口の奥から声がして春野が『分かった~!』と叫んだ。
『ごめんね、お母さんが早くお風呂に入れってうるさくて』
「そっか。ごめんな、長い時間付き合わせて」
『いいのいいの。九条としゃべるの楽しいし』
さらりと言ってのけるその言葉がどれだけ俺を喜ばせているのか、きっと春野は知らない。
「また明日、部活終わった後電話していい?」
ドキドキしながら春野の言葉を待つ。
『うん。待ってるね』
「ああ。じゃあ、おやすみ」
『おやすみ』
電話を切ったタイミングでちょうど家の前まで辿り着いた。
「よっしゃ!」
思わず声を上げていた。
自転車をサイクルポートに止めてから門扉を開けて玄関扉に手をかける。
普段は黙って家に入るのに「ただいまー!」と家に入る俺に驚いた妹の亜子がリビングから顔を覗かせる。
「ちょっと、お兄。アンタいいことあったんでしょ?」
「ねぇよ」
「嘘つけ!分かりやすい人だね、ホント」
普段なら妹にバカにされたら言い返して口喧嘩になるはずなのに、俺は華麗にスルーする。
今の俺なら、誰に何を言われても怒らない自信がある。
春野との電話のやりとりに俺の心は信じられないぐらいに躍っていた。