東和大出版で漫画の編集者として働き始めてから5年が経った。
担当作の書店への挨拶周りを終えて店を出た瞬間、強い雨風に見舞われて一瞬で全身がずぶぬれになってしまった。
悲しいことに書店に来る前に立ち寄ったコンビニで私の傘はなくなった。
本当は店に逃げ込みたかったけど、ここまで濡れてしまっては店や本を汚してしまいかねないと諦めて軒下に立つとポケットの中のスマホが震えた。
画面には【さっき産まれた!】というメッセージとともに生まれたばかりの赤ちゃんとホッとしたように優しく微笑む三花とその隣で大泣きする山上君の写真が映し出された。
高校卒業後、三花を諦めきれなかった山上君からの猛烈アプローチにより二人は付き合い始め、去年結婚した。
【おめでとう!落ち着いたら抱っこさせてね】
めでたい報告に笑顔を浮かべながら出産祝いは何にしようかと考えを巡らせていたときだった。
「――愛依(あい)」
突然名前を呼ばれて顔を持ち上げると、私の目の前にはスーツ姿の男性が立っていた。
目が合った瞬間、確信した。目の前にいるのが賢人であることを。
賢人はあの頃よりずっと大人びてスマートな大人の男性になっていた。
綺麗にセットされた黒髪は雨に濡れて光り、ポタポタと前髪を伝って雨粒が落ちる。
学生時代、雨に濡れながら二人で笑い合ったあの眩しいほどに輝かしい思い出が一瞬で蘇る。
「……え、賢人(けんと)?」
賢人はあの頃と変わらない笑顔を浮かべた。
「すごい久しぶり。元気だった?」
つられて微笑む。
「愛依、この後暇?せっかく会えたし、どっかで夕飯でもどう?」
「……あ……ごめん」
「もしかして仕事中?なら今度でいいから。連絡先も教えて――」
「――私、結婚したの」
今年の初めに、私は大学時代に付き合い始めた人と結婚した。
賢人が息をのんだのが分かった。
視線が私の顔から左手の薬指に移動して再び私の顔に戻ってくる。
「だから、ごめんね」
「あ……そうだよな、もう10年も経ってるんだから。そっか、愛依が結婚か……。もう本当に終わりにしないといけないんだな」
自分に言い聞かせるように呟いた賢人は小さく息を吐いた。
あの時のように、賢人は泣かなかった。ただほんの少しだけ目を潤ませて私を見つめた。
「……幸せになれよ、絶対に」
「うん。賢人もね」
そのとき、「愛依~!」とパシャパシャと大きな足音を立てながら駆け寄ってきた愛しい人がそっと傘を差しだした。
「待たせてごめんな。こんなに濡れて寒かっただろ?」
「ううん。迎えに来てくれてありがとう」
スーツと革靴をびっしょり濡らしてボロボロの姿になりながらも私を一番に心配してくれる彼。
眼鏡も曇ってるし、雨粒で前だって見えずらかったに違いない。
こんな雨風の中、傘を盗まれたとメッセージを送った私のもとに飛んできてくれるのは彼しかいない。
「行こう。早く帰って風呂入らないと風邪ひくよ」
彼は当たり前のように私に手を差し出し、私は差し出された彼の手をギュッと握る。
私と賢人がしゃべっていたのにどうやら彼は気付いていないようだ。
だからあえて、伝えなかった。私と賢人の恋はもう通り過ぎたあとだから。
ねえ、賢人。
私は今になってようやくあの時の賢人の気持ちを理解できたよ。
賢人と目が合う。
言葉は交わさなかったけど、私達はほんのわずかに微笑み合った。
卒業式の日、背中に賢人の熱い視線を感じながら屋上を出た。
でも、今回は違う。
賢人は颯爽と私に背中を向けて歩き出す。前だけを向いて、もう振り返らないという固い決意を感じる。
その大きな背中に私は心の中で呟く。
ありがとう。ごめんね。バイバイ。
少し歩くと、傘が強風に煽られてひっくり返った。
「冷たい!!」
「うわっ、ヤバっ」
あっという間に傘の骨組みがバキバキに折れて傘としての機能は一切失った。
あの頃の幸せな思い出は今も心の中に大切にしまってある。
大人になってからもたまに思い出して懐かしんだりするけど、あの日にはもう戻れない。
幸せだった分、辛かったり悲しかったり切なかったりもしたけど、賢人を好きになってよかった。
今の私があるのも、賢人と出会えたから。
出会えて、好きになって、付き合えて……私は本当に幸せだった。
泡沫みたいな賢人との恋を、君と一緒に過ごしたあの日々を私は絶対に忘れない。
「あははっ!全然前見えてないでしょ?」
「全く見えない」
濡れた前髪をかき上げて眼鏡を外した彼の手を取って歩き出す。
「大丈夫。私が家まで引っ張っていくから」
「頼むよ、奥さん」
「任せて、旦那様」
「おっ、いいね。今日から旦那様って呼んでよ」
「調子に乗らないの!」
「はははっ、ダメか」
雨の中でふざけ合う私達。
この人と結婚してよかった。
私が私でいられるから。
彼の手をギュッと握ると、彼は「ん?」と微笑みながら首を傾げた。
「私ね、今すっごく幸せ」
「うん。雨に打たれてずぶ濡れで風邪ひきそうだけど、俺も最高に幸せ」
「前振り長いって!」
「ははっ、確かにな」
ほんの一瞬、雨の勢いが弱まったのを見逃さず同時に駆け出した。
手を繋いだままの私達の視線の先で、交差点の信号機が青になる。
【END】