季節はあっという間に秋を越えて冬になった。

大学進学を決めた私は親と相談して駅近くの予備校に通い始めた。

努力のかいあってか模試の成績も徐々に上がりはじめこのまま頑張って勉強すれば志望校入学も夢ではないと稲田に褒められた。

賢人は相変わらずサッカーの練習で忙しくしている。

この日はテスト期間で部活が休みになり、珍しく賢人と一緒に下校することになっていた。

テストは嫌だけど賢人と一緒にいられるこの期間を私はずっと心待ちにしていた。

帰りのHRを終えるとサッカー部の顧問に用があるという賢人に昇降口で待っていると告げ、一足先に教室を出た。

すると、昇降口でバッタリいちかちゃんと会った。

彼女は私に気付くとそっと近付き、ニコリと笑った。

「――賢人と付き合ってるんだね?」

突然のいちかちゃんの言葉に面食らう。

今カノの前で元カレを呼び捨てにする彼女は私へ戦線布告をしているようだった。

猛烈な違和感を覚えて顔をしかめる。

「うん」

「そっか。あたしが賢人の元カノって知ってた?」

追試の時ににこやかに声をかけてきた人間とは思えない。

薄っすら顔に笑みを貼り付けているけど目は笑っていなかった。

「うん。賢人に聞いたから」

敵意丸出しの瞳を向けられて心の中がざわつく。

もう賢人はあなたになんの未練も関心もないから全部聞いて知ってますよって顔をする。

本当はいちかちゃんと付き合っている時のことを何も知らされていないけど。

「ふぅん。そういえば、二人って夏休みに花火大会に行ったでしょ?あたし、みたんだよね。二人が一緒にいるところ」

「それがなに?」

「賢人が着てた浴衣、私と一緒に買いにいったやつだよ。あたし達去年一緒に行こうねって約束してたんだけど、そのちょっと前に別れちゃったから。あの浴衣、賢人よく似合ってたよね」

あの日の記憶を辿る。

『もしかして九条も今日の為に浴衣買ったの??』

『あー、まあそんな感じ』

『そうなんだ!なんか嬉しいな。九条もそれだけ楽しみにしててくれたってことでしょ?』

あの浴衣は……いちかちゃんと一緒に買いにいった物なの?

知りたくなかった。自分だけ浮かれていたんだと知り、胸の中がモヤモヤする。

「だったら、なに?」

「なんかずいぶん余裕なさそうだけど、大丈夫ぅ?」

少し前、この子を可愛いって思ったけど前言撤回。私はこの子が嫌いだ。

人の心を見透かしたようにいやらしく笑うその顔も、毒を含ませたその言い方も全部全部大っ嫌い。

自分がどうやったら可愛く見えるか分かっていてそれを武器にして男をたぶらかすこの手の女には嫌悪感しかない。

唇の端をくいっと持ち上げて意地悪な笑みを浮かべたいちかちゃんに私は心の中で毒を吐く。

「それどういう意味?」

「あたしは賢人と長く付き合ってたから、その大変さが分かるよ。色々不安になるよね」

「……っ」

「でも、賢人って優しいよね。今まで付き合った彼氏の中で断トツいい男だったな。キスとかそれ以上のこととか……色々上手だよね?」

「ねぇ。どうしてそれをわざわざ私に伝えるの?なんで?」

色んな感情がグチャグチャに絡み合あって咄嗟に尋ねた。

まるで悲鳴でもあげるみたいな口調になった私をいちかちゃんは冷たい目で見下ろした。

彼女の顔から余裕そうな笑みが消える。むしろ、逆に私よりもずっと辛そうで今にも泣きだしてしまいそうにすら見えた。

「だってなんかムカつくんだもん」

この世界にはたくさんの女子がいるというのに、どうしてよりにもよってこんなにも嫌な女が賢人の元カノなんだろう。

どうして私より先にこの子と付き合ったりしたの。どうしてこんな子好きになったの。いったいどこがよかったの。

どっちが先に好きになったの?手をつないだの?キスも、その先も全部この子が初めてなの?

やり場のない感情が込み上げてきてコントロール不能になる。

勝負ではないって分かってるけどどうしても負けたくなくて私は真っ直ぐいちかちゃんの目を見た。

「あのさ、言わせてもらうけど余裕ないのはそっちじゃないの?」

言い返すといちかちゃんはワナワナと唇を震わせて逃げるように走り出す。

「言いたいことだけ言って逃げるとか超嫌な女」

自分からケンカを吹っかけておいてこっちをとんでもなく嫌な気持ちにさせたというのに。

理不尽すぎる彼女の言動に苛立って顔をしかめていると賢人が私の元へ駆け寄ってきた。

「待った?帰ろっか」

何も知らない賢人の待った?の一言にすら気持ちを逆なでされる。

昇降口に立ってたんだから待ってたに決まってる、と言っても仕方がないのでグッと言葉を飲み込む。

「……うん」

あと数分賢人がくるのが早かったらいちかちゃんとかち合っていただろう。

賢人がいなくてよかったと思う反面、いてもよかったのかもとも思う。

いちかちゃんがどういうつもりであんなことを言ったのか分からないけど、賢人にハッキリ言って欲しかった。

今、大切なのは私だけだって。好きなのも私だけだって。ちゃんと彼女に伝えてもらって安心したかった。

もういちかちゃんに未練は0.001%もないって私の前で証明して欲しかった。

「うぅ、寒い。全身冷え切っちゃった」

かじかんで冷え切った両手をすり合わせていると、賢人は私の右手をギュッと握った。

「あったかい?」

「うん。あったかい」

付き合ってから3か月を超えた頃倦怠期になったり、何かが違うと違和感を覚えたりする人もいるみたいだけど私達は大丈夫だ。

私は今も賢人のことが大好きでこうやって一緒にいられることにこれ以上ない幸せを感じているから。

賢人の家に着き、テーブルの上に教科書を広げると一緒に勉強しようと約束していたのに賢人はベッドの上でうつぶせになってスマホの動画を観始めた。

しばらく黙って勉強していたものの、動画の音が気になってしまい全く集中できない。

「テスト勉強しないの?」

一緒にテスト勉強しようって約束していたのに。思わず冷めた口調になる。

「さっきまでしようと思ってたんだけど、翔太から動画が送られてきてさ」

「動画?」

「来週、練習試合するチームの分析がしたくて」

「ふぅん」

「全国行ったことのある杉之原高校っていう名門校と練習試合が組めたんだ。あそこのフォワードマジでフィジカル強くてさ」

賢人はスマホ画面から視線を外すことなく楽しそうに答えた。

私は杉之原高校どころかサッカーの詳しいルールも良く分からない。

何度教えてもらってもオフサイドすら理解できていないから賢人の話がさっぱり理解できない。

「おー、すげぇ。この場面で裏のスペースに出てフリーになってシュートを打つとかマジで鳥肌立つ」

賢人が嬉しそうにサッカー談義を繰り広げるにつれ、私の怒りは徐々に増していく。

「そういうのって絶対にやらなくちゃいけないことなの?」

試験期間中の今も……私と一緒にいる間も賢人の頭の中はサッカーでいっぱいなの?

しゃべってるときぐらい、こっちを見てよ。私を見てよ。

「え。やったほうがいいい決まってるでしょ」

賢人はこちらに顔を向けて何を分かりきったことを聞くんだというように目を丸くしたあと、再び視線を動画に向ける。

私は喉元まで出かかったたくさんの言葉たちをぐっと飲み下して、再びテーブルの上のシャープペンを握る。

いつもだったらスラスラ解けるはずの問題が全然解けずに大きく息を吐きだす。

やっぱり無理だ。感情を抑えきれない。

ベッドの上の賢人がすげーとかやべぇとか独り言を繰り返す。

シャープペンを叩きつけるようにテーブルに置くとガシャンッという音がした。

それでも賢人は動画に集中しているのか私の苛立ちに気付かない。

『なんかずいぶん余裕なさそうだけど、大丈夫ぅ?』

いちかちゃんの言葉が蘇って目頭が急にあつくなって、噛み殺していたはずの感情がぐっとせり上がってくる。

元カノのいちかちゃんの言葉に私が傷付けられたことを賢人は知らない。

こうやってのんきにサッカー動画を観ていられなくしてやりたいと意地悪なことを考える。

私を見て欲しい。私の痛みを知ってほしい。あなたの元カノ傷付けられたという事実を受け止めて欲しい。

「今日、賢人の元カノのいちかちゃんに酷いこと言われたんだけど」

『賢人の元カノ』の部分を強調して鼻をすすりながら呟くと、賢人がようやく私を見た。

その目には驚きと困惑が色濃く映し出されていた。

「え……。なんで?」

「知らないよ。でもムカつくって言われた」

「……涼森が?いや、まさか……」

信じられないとでもいうように視線を宙に漂わせている賢人にダメ押しする。

「賢人のこと褒めてたよ?キスとかそれ以上のことが上手いんだって」

「なんだよそれ……」

「私に聞かれても分かんないよ。どうしてあの子は私にそんなこと言ってくるの?賢人に未練があるの?」

「いや、涼森には今彼氏がいるし俺に未練なんてないよ。最近うまくいかないっていってたし、それで情緒不安定になってるのかもしれない」

「……なに、それ」

声を震わせながら続けた。

「どうしてそんなことを賢人が知ってるの?私の知らないところでしゃべったの?それとも今も連絡取り合ってるの?」

「違うって」

「違くないでしょ!?」

「落ち着けよ、愛依」

ベッドから降りて私の隣に腰を下ろした賢人が呼吸を荒くして肩を上下させる私の背中をさすった。

「なんでそんな興奮してんの?」

「それを聞くの……?私がなんで怒ってるか賢人は分かんないの?」

ゴールが決まったのか、ベッドの上に放り投げてあったスマホから一段と大きな歓声がした。

賢人が一瞬、スマホに気をとられたのが分かった。

「……そんなにサッカーが大事?」

涙を流しながらそう尋ねると、賢人が困ったように眉を寄せた。

愛依のほうが大事だよっていう言葉が欲しかった。

例えこの場を収めるためだけの嘘だったとしても、私は賢人がそう言ってくれることを強く望んでいた。

そうすればきっと私はマグマのように沸き上がってくる怒りの感情を静めることができた。

いちかちゃんのことだって賢人の言葉を信じることができたと思う。

正直者の賢人は嘘がつけない。そういう真っ直ぐな部分を好きになった。

でも、今はその正直さが私の心をひどく傷付けて心がささくれ立つ。

「今日、いちかちゃんに言われた。花火大会の日に賢人が着てた浴衣、あの子と去年買いにいった物?」

「え……」

言葉に詰まった賢人の表情で全てを悟った。

「やっぱりそうなんだね」

「……ごめん、黙ってて。でも――」

言い訳なんて聞きたくない。

「……もう帰る」

乱暴にバッグに教科書やペンケースをしまい込み立ち上がると、賢人が私の手首を掴んだ。

「送ってくから」

私が欲しいのはそんな言葉じゃない。

引き止めて欲しかった。待ってよって、話をしようって、その言葉を私は待っていたの。

「賢人は動画みてていいから」

「後で観るから」

「なら、私が帰ったあとに見ればよかったよね?どうして今さらそんなこと言うの?」

会話を続ければ続ける度、私は賢人をつつきたくなってしまう。

「一緒に勉強しなかったのは悪かったって思ってる。でも……」

「もういい。このあと行きたい場所あるから帰るね」

部屋を飛び出して玄関で靴を履いた瞬間、我慢していた涙がどっと吹き出した。

賢人は私のすぐ後ろにいるのに、何も言わない。

「じゃあね」

賢人に泣いていることを気付かれたくなくて、涙を拭うこともできず頬をびしょびしょにしたまま玄関を飛び出す。

悔しさとやりきれない想いに胸が引き裂かれそうになり、嗚咽を両手で必死に抑えた。

賢人は追いかけてきてくれなかった。それが、賢人の気持ちな気がする。

鼻をすすり、私は唇を力いっぱい噛みしめるとポケットから取り出したスマホを耳に当てる。

呼び出し音のあと、すぐに三花が電話に出た。

「三花……。私……」

縋りつくように三花の名前を呼ぶ。三花は今すぐ行くからと言って電話を切った。