九条賢人

もちろんやましい気持ちが1ミリもなかったかと言えば嘘になる。

放課後、デートをしようと約束していたもののあの雨風では行く場所が限られてしまう。

だからといって真っすぐ家に帰る選択肢はなかった。

部活がない日なんてテスト期間中の数日のみで、今日は放課後一緒にいられる貴重な日だったから。

家に着いて着替えたあと、愛依がペアルックだねって笑ってようやく俺達がお揃いの服装をしていることに気が付いた。

緊張しないように平然を装っていたけど、愛依が部屋にいるって思うだけで緊張してそれに気付きもしなかった。

一緒に昼飯を食べてゲームをやったあと、愛依がふいに立ち上がりカーテンをわずかに開けて外の様子を伺った。

俺のTシャツを愛依が着ると、ダボダボで不格好だ。

細くて華奢な後姿を見ていると、たまらなくなって俺は後ろから愛依を抱きしめた。

そこからはもう無我夢中であまりよく覚えていない。

ただ、愛依を傷付けないように出来るかぎり時間をかけて丁寧に抱きしめた。

ダサいことに心臓ははち切れんばかりに暴れまわりあっという間に余裕を失っていた。

そんなのを悟られるのは恥ずかしいし、愛依をギュッと抱きしめて平静を保とうと必死だった。

一つに結ばれた時、愛依が初めてだったことを知った。

愛依の初めての男になれたことが嬉しくてたまらない反面、愛依に「賢人は?」と聞かれることを恐れた。

もしもそこで違うと答えたら愛依は気にすると思うし、初めてだと言えば嘘をつくことになる。

でも、最後まで愛依は聞いてこなかったしもちろん俺も余計なことは言わなかった。

俺にとって今の彼女は愛依だけだし、好きなのも愛依だけだ。

過去の恋愛は一切引きずっていない。

ベッドの中で愛依のことを抱きしめながら幸せを噛みしめる。

大切にしようと思った。

自分から好きになって告白して付き合ったのは愛依が初めてだったから。

俺の腕の中にいる愛依を1ミリの隙間もないほどに抱きしめているとうっかり泣きそうになった。

愛依以上に大切な人はきっとこの先現れないとすら思った。

好きすぎてどうしようもないけどこんな気持ちを伝えるのは照れ臭い。

きっと翔太なら思ったことや自分の気持ちを全部彼女にぶつけるんだろうなと思う。

俺は「好き」と「可愛い」と言うのが精いっぱいだ。

枕元のスマホが震え、愛依が俺にスマホを手渡した。

【亜子】と表示された名前を見て一瞬焦る。

【亜子:今どこ?】

そのあとすぐに【亜子:あと30分くらいで着くんだけど、家の鍵忘れた】とメッセージが届いていた。

亜子は俺の一つ年下の妹で、隣町の高校に通っている。

亜子の学校も台風で下校時間が早まり、学校近くの友達の家に避難させてもらっていたらしい。

その妹があと少しで帰ってくると知った。

俺が彼女を家に連れ込んだと知れば、亜子は大騒ぎをするに違いない。

このままじゃ母親にもバラされ気まずい思いをすることになる。

「……私、そろそろ帰ろうかな。親心配すると思うし」

すると、タイミングよく愛依がそう切り出した。

ホッと胸を撫で下ろす。亜子に知られる前に家を出よう。

「制服乾いてた」

「……ありがと」

乾燥させていた制服を手に部屋に戻ると、なぜか愛依の表情が曇り俺のほうを見ようとしない。

「どうした?体辛いか?」

「ううん、なんでもない」

愛依の様子を不思議に思いながらも着替えようとしている愛依に背中を向けてスマホを弄る。

【分かった。ちょっと出かけるから鍵ポストに入れとく】

【亜子:りょ】

亜子に返信を入れた後、俺はサッカー部のグループチャットを開いた。

部員の人数が多いせいで通知が止まらないこともあり普段はミュートにしてある。

【賢人こねーのかよ!】【女か~?】【レギュラーとられんぞ!笑】

俺はやれやれとため息を吐く。

同学年の部員の中には唯一レギュラーの俺をやっかむ人間も少ないながらいる。

レギュラーになれるかなれないかでは雲泥の差がある。

大きな大会で大学関係者の目に止まれば大学の推薦にも有利になるからだ。

うちは年子で妹の亜子の将来の夢は薬剤師だ。そのためには六年間薬科大に通う必要がある。

今年から予備校に通う予定だと言い、家計は火の車だと母親が嘆いていた。

そのためにも俺は結果を残してスポーツ奨学金のある大学へ行く必要がある。

そうすれば、授業料が半額相当免除される。

今レギュラーだからといってこれから先もずっと安泰なわけではない。

今回はたまたまレギュラーに選ばれたというだけで、安心はできない。

愛依のことも大切にしなくてはいけない。

でも、それと同じように俺はサッカーに力を注がなくてはならない。


「着替え終わったよ」

「家まで送ってく」

外に出ると風はまだ少し強いものの、雨は止んでいた。

あっという間に遠ざかっていった台風にホッと胸を撫で下ろし、サイクルポートから引っ張り出してきた自転車にまたがる。

「愛依、後ろ乗って。こっちのが早いから」

なぜか元気のない愛依が心配だった。

今日は疲れただろうし、歩いて帰るより早く家に送って行ってあげたほうがいいと考えた。

一瞬ためらったように見えたものの自転車の荷台にまたがったのを確認すると、ペダルに片足を乗せる。

「風強いからちゃんと捕まってろよ?」

愛依の手首を掴んで俺の腹に回すように引っ張ると、愛依が腕にぎゅっと力を込めて俺の背中に頭をくっつけた。

風に煽られて転倒しないようにハンドルをギュッと握りしめてペダルを漕ぎ続けていると、「あのさ」と後ろで声がした。

「ん?」

「―ーたの?」

愛依の声がざぁっと時折吹き付ける強い風の音でかき消されてよく聞こえない。

「もう一回言って!聞こえなかった」

「……ううん、なんでもない」

そう言ったきり、愛依は家に着くまで一言もしゃべろうとはしなかった。

だから俺もそれ以上無理に聞こうとはしなかった。

大切な話ならきっとまた言ってくれるだろう。

「じゃあ、また明日な。今日はゆっくり休んで」

「……うん。ありがと」

家の前に着き自転車から降りた愛依の頭を撫でる。

「今度はちゃんと外デートしよ。休みできたらどっか行こう。愛依がいきたいとこでいいからさ」

愛依に元気を出してもらいたくてそう告げると、愛依が真っすぐ俺の目を見つめた。

「今度っていつ?」

「あー……、いつって言われてもまだ予定が……」

「そっか。じゃあいい。送ってくれてありがと」

愛依はあっさりと俺に背を向けて門扉を開けて玄関に吸い込まれていく。

「どうしたんだよ……」

何かにひどく苛立っているように見えたけど、俺には一切心当たりがなかった。

思い返しても愛依が何を考えているのか全く分からない。

小さく息を吐いた時、ポケットの中のスマホが震えた。

ディスプレイに亜子の名前が浮かび上がり、俺は「やべっ」と思わず声を漏らす。

『ちょっと!!お兄、今どこ!?ポストに鍵入ってないんですけど!!』

「ああ、悪ぃ。今から急いで戻るからちょっと待ってて」

『信じらんない!最低!!一分でも一秒でも早く家に帰ってきてよね!』

「はいはい」

愛依の様子が気になって亜子との約束をすっかり忘れていた。

『ちょっと~!はいはいってなに!?全然反省してないでしょ!』

亜子の金切り声に顔を歪めながら愛依の部屋を見上げると、愛依がカーテンの隙間からこちらを見ているのが分かった。

大きく手を振ると、愛依は俺を拒絶するようにカーテンを勢いよく閉めた。

俺の姿が見えなかっただけなのか、それとも見えていてわざとカーテンを閉めたのか。

「つーか、お前が鍵持っていき忘れたのが悪いんだろ?」

『ハァ!?逆切れ!?お兄、マジムカつく!』

「今から帰るからちょっと待ってろ」

一方的に電話を切ると、再び亜子からしつこく電話がかかってきた。

自転車のペダルに足を乗せてもう一度部屋を見上げても、愛依が顔を覗かせることはなかった。