この日の三限は数学の授業だった。

担任の稲田先生の授業が始まり休み時間の騒がしさが一転して教室内の空気はずっしりと重たくなりピリピリする。

まだ二十代半ばと思われる稲田は校内でも若手教員のはずなのに、態度がでかくとにかく厳しい。

大半の先生は板書をしながら一方的に説明だけして授業を進めるけど、稲田は違う。

「じゃあ、この問題は……」

稲田は予習してくることを前提として授業を進める。

だから、問題が分からないとか答えを間違ったりすれば容赦なくみんなの前で晒し上げにあう。

ああ、キリキリと胃が痛む。

神様、お願いします。どうか当てられませんように……。

こういう時、私は大体ババを引く。

心の中で神頼みをしたものの、やっぱり神様はいなかった。

「じゃあ、春野。前に出てきて黒板に書いて」

「えっ!?わ、私ですか?」

「なにをとぼけたことを。春野という名前の人間はこのクラスにお前しかいないだろう」

時間稼ぎの為に自分のことを指差してとぼけると、稲田は呆れたようにフンっと鼻で笑う。

だけど、稲田につられて笑う人はいない。

次は自分が当てられるかもしれないと、予習を忘れた仲間たちは答えを導きだそうと必死になって教科書と睨めっこしている。

慌てて黒板に目を凝らす。

【次の数列の一般項an、初項から第n項までの和Snをそれぞれ求めよ】

数列なんてこれから先の私の人生で役に立つとは思えない。

ああ、こんなことならば昨日の夜予習をやっておけばよかった。

撮りためていた推しのアイドルグループのテレビ番組を見ながら寝落ちしてしまったのが運の尽き。

ああ、また絶対にグチグチと嫌味を言われる。

「何してる。さっさと前に出てこい。予習してきたならすぐに解ける簡単な問題だぞ」

どうしよう。分からないって答えようか。

だけど、正直に言えば予習してないことを責め立てられてるに決まってる。

「―ー春野」

隣の席から私を呼ぶ声がして顔を向ける。

「これ、もってけ」

九条は私にだけ聞こえるぐらいの小声で言うと、ノートをトントンっと指で叩いた。

まるで天の助けみたい。

弾かれたように頷くと先生に気付かれないように九条のノートを持って黒板の前に立ちチョークを掴み上げる。

サッカーで忙しいはずなのに予習までしてるなんて驚きだ。

それに、男子の字は総じて汚いものだと思っていたけど、ノートに書き記されている文字は私よりもずっと綺麗だ。

「正解だ。戻っていいぞ」

席に戻りホッと息を吐くと、隣の席の九条にこっそりノートを差し出す。

稲田が黒板に向いたタイミングで九条が手を差し出した。

『ありがと』と口パクで伝えると、九条はニッと笑ってうなづく。

日焼けした黒い肌と白くて歯並びの良い綺麗な歯のコントラストになんだかドキっとした。

めちゃくちゃ親切で勉強もできて字も綺麗で笑顔も良いとか、そんな人間が私の隣の席にいるなんて。

ノートの受け渡しに成功した後も、私の頭の中は九条のことでいっぱいだった。

不思議だ。なぜだか九条がいる右隣ばかりを意識してしまう。

体の右と左で体温が違うみたいに、九条側だけひどく敏感で熱を持つ。

数学の授業が終わり休み時間になると、九条は同じクラスのサッカー部の友達の席へ向かった。

その後ろ姿を見つめながら直接お礼を言えばよかったと少し後悔する。

でも、九条が隣にいなくなったおかげで張りつめていた緊張の糸が切れ、ようやくうまく息が吸える。

「ちょっとぉ~、さっきのなに~?」

私の席にやってきた三花がからかい口調で尋ねた。

三花の席は私と同じ列の2つ後ろだ。

私と九条のノートの受け渡しの様子をニヤニヤしながら見ていたに違いない。

「私が答えられずにいたから九条がノート貸してくれたの」

「ふぅん。よかったじゃん」

「うん。稲田に怒られなくてホントよかったよ」

「違うって。九条とのこと」

「へ?」

思わず首を傾げる。

「九条、アンタのこと絶対意識してる」

「いやいや、違うよ。ただ困ってたから助けてくれただけだって」

「じゃなくて。ほらっ」

どこかを見つめている三花の視線の先を追う。

サッカー部の男子たちが固まってしゃべっている輪の中に九条はいた。

でも、会話に参加することはなくぼんやりとこちらを見つめていた。

「……え」

目が合うと、九条はほんの少しだけ驚いていたけど私に向かって「よっ」という感じに右手を挙げた。

私もつられて手を挙げて小さく横に振ってみると、少し笑いながら九条も手を振り返してくる。

トクンっと一度心臓が鳴った。

その音は曖昧だった九条への気持ちをハッキリと知らせるものだった。

その音は自分の意思ではどうにもならないほどにどんどん大きくなる。

え……。今、私、九条が好きになっちゃった。

さっきまで小さく鳴っていた心臓の音が今度ははち切れそうなほど高鳴って胸の奥が詰まったように苦しくなる。

だけど、それはただ苦しいだけじゃなく喜びと幸せを運んできて自然と口元が緩む。

九条が手を振っていることに気付いたサッカー部の男子たちが一斉に私の方を向く。

不思議そうな表情が一転し、私と九条が手を振り合っていたことに気付いた男子たちの好奇の目が色濃く浮かび上がる。

「おい、賢人!!なに春野に手ふってんだよ!!」

「お前、マジか!」

九条をはやし立てるようにギャーギャー騒ぎながら肩を叩く男子たちに九条は苦笑いを浮かべる。

そんな余裕そうな九条の様子に息が止まりそうになる。

九条を見ていられなくて私は慌てて顔を背けて視線を机に落とす。

「うるせーな。ほっとけ」

聞いていない振りをしても、九条達のほうから笑い声が聞こえてきてドキドキしてしまう。

「愛依、可愛い~!」

三花に頭を撫でられて赤くなった顔がさらに赤みを増した気がする。

キュッと唇を噛んで溢れ出してしまいそうな感情を必死に堪える。

「九条って今フリーみたいだよ」

「……そうなの?」

顔を上げて三花に目を向ける。

「うん。愛依と九条、お似合いだと思う」

「そ、そんなことないよ!」

嬉しいけどなんだか恥ずかしくて素直になれない。

「ていうか、九条ってホントわかりやすいよね~」

「え?」

「また愛依のこと見てるし。見てみなよ?」

「無理!もう絶対無理!!」

九条達のいる方から視線が飛んできているような気がするけど、私はもうそっちを向けない。

自分の気持ちに気付いてしまった私は体中から九条が好きという光線を放ってしまうに違いない。

すると、三花が身を乗り出して私の耳元でこっそりと囁いた。

「本当は九条のこと好きになっちゃったんでしょ?」

そう尋ねた後、伺うように私の顔を覗き込む三花。

三花に隠し事はしたくない。

それに、これからのこと色々と相談に乗ってもらいたい。

「……うん」

「やっぱり!!あたし、応援するから!!」

小さく頷くと、三花はそう言って満面の笑みを浮かべた。