クレオ*̣̩エシス





カチッ、カチッ、と時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。羽月のベッドに横並びで腰掛けた2人は、どちらも口を紡ぎ、話し出すタイミングを失っていた。覚悟を決めたはいいものの、いざ話し出そうとすると、どうしても言葉が出てこない。


「…その…俺、先に話そうか…?」


先に沈黙を破ったのは深夜だった。恐る恐ると言った様子で羽月の顔を伺う。すると羽月は首を振った。


「気を使わせちゃってごめん。大丈夫、私から話すよ」


顔を上げた羽月は、鋭く正面を睨みつけていた。まるで、敵と戦うような。いや、“ような”では無い。羽月は自分の過去と戦っているのだ。


「──私は、産まれた時からこの白髪だった」


羽月は、悲しそうに、或いは忌まわしそうに、自分の白髪を掴んだ。


「私のお父さんの方の家が、古いしきたりがある家だったみたいで、お父さんとお母さんは、愛し合っていたのに、離婚しなくちゃいけなかったらしい。私のこの髪は、家にふさわしくないからって。…それを知らされたのが、私が5歳の時だった」


淡々と話しているように見える。しかし、それはあくまで表面上の話だ。羽月の内面まで理解するには、共にいる時間が少なすぎた。


「小学校に入学して、初めは皆、私の髪を不思議がって、興味本位でいじってくるだけだった。これが普通の反応なんだって、思ってた。…でも、徐々に、皆の目が、興味から蔑みに変わって…。気持ち悪い、気味悪いって、言われるようになった。それも、当たり前なんだって、そう、思ってた。…その時はお母さんも、女手一つで私たちを育ててくれていたし、お姉ちゃんも学校が忙しかったから、心配かけちゃいけないと思って、黙ってたの」


上げていた顔が、少しずつ下がっていく。
それでも深夜は、静かに話を聞き続けた。


「でも、3年生になってから…クラス替えがあってから、かな。同じクラスになった子で、私を気にかけてくれる男の子がいたの。でも、その子は他の子にも優しかったから、クラスで人気で。…そのうち女子から、いじめられるように、なった」


決定的な言葉に、深夜は息を飲む。


「はじめは避けられたりとか、無視されたりとか…それは今までもあったから、特に気にしてなかったの。でも、どんどんヒートアップしていって、わざとぶつかってきて、給食こぼしたりとか、水かけられたりとか…。でも、それも私の見た目のせいだから…悪いのは私だからって、無理に納得して…っ。そうしなきゃ、私…」


涙をこらえているのか、少しずつ嗚咽が混ざっていく。


「それで、ある日」


そこで、羽月は顔を上げ、深夜の目を真っ直ぐ捉えた。瞳は湿っていて、今にも泣き出しそうなのを、ぐっと堪えていた。


「私は、階段から突き落とされた」


あまりにもストレートすぎる言葉。


「は…」


今まで黙って聞いていた深夜も、これには驚きの声を上げた。


「どの段から…っ」


「1番上。何人かいたから、誰が突き落としたかは、最後まで分からなかったけど…。足は打撲、左腕は骨折。まだ小学校の階段だったからこのくらいですんだ。…ここの階段よりは低いから」


重症なはずなのに、薄く笑みまで浮かべた羽月に、つい口を開きそうになった深夜だったが、それでは昼間と同じになってしまうと、口を閉ざした。


「それで、病院に運ばれた。お母さんとお姉ちゃんも、急いで駆けつけてくれて…でも私、『誰にやられたの』って聞かれても、分からないから、答え、られなくて…。そうしたら、お母さんが言ったの」


『羽月。あなたを産んでしまって、ごめんね』って。


その言葉は、深夜に深く突き刺さった。
母親に自分の生を否定される。
それがどれだけ辛いかを、彼もわかっているから。


「倒れた原因は、過労からくる栄養不足と睡眠不足だったみたい。意識が戻るかどうかは…分からないって」


暫く羽月は唇を引き結ぶ。そうしていないと、言葉にならない気持ちが口を出そうで。


「そしたら私…どうして自分が生きてるのか、分からなくなっちゃって…っ」


握られた拳は、血が滲みそうなほど強く握られ、震えていた。


「そんな時にね、看護師さん───幽見さんから、『モリンシに感染してることがわかった』って、報告された。…その時、私、笑ってたの」


ふっ、と。
嘲るように、羽月は笑った。


「自分でもびっくりした。…でもね、なんで笑ってるのか、分かっちゃったの。これでもう、苦しまないで済むんだ。やっと解放されるんだって」


鋭く息を吸う音が響く。それは後悔と怒りと、嫌悪を纏っていた。


「サイテーだよね。散々家族をぐしゃぐしゃにしたのに、1番最初に逃げてくの…っ」


ギリッと聞こえた音は、羽月が歯ぎしりした音だった。


「だから、はやく死にたかった。そうしたら、お姉ちゃんもお母さんも、解放されるって。それで、お姉ちゃんに言いに行ったの。私は1人で死ぬから、もうお金、払わなくていいよって…」


羽月はゆるゆると首を振る。
当時の自分の愚かさを呪って。


「今考えたら、そんな事出来るわけないよね。でも、当時はどんなことをしてでも、はやく、はやく死ななきゃ…って。そればっかり考えて。だから、お姉ちゃんを、すごく怒らせた。『あんたが産まれてから、私は不幸になった』って」


聞き覚えのある言葉に、深夜は無意識に息を吸う。
『私と一緒にいると、貴方が不幸になる』
初めて会った日に、羽月が言ったことだった。この言葉は、彼女自身が言われた言葉だったのだ。


「それでてあお姉ちゃんに、殴られた。もしかして聞いたかもしれないけど、この紅い髪は、その時の血の色なの。なかなか落ちなくて…。頑張れば、落とせたんだけど。なんだかそれじゃあ、私の罪も、落ちちゃいそうで」


当たってしまった予想に、深夜は目を伏せた。


「それがきっかけで…ううん、もっと前かもしれないけど、私、生きる意味が分からなくなっちゃって…。もう、人と関わらないようにしようって、心に決めた。感情も無くして、表情もなくして。“無”でいれば、誰からも相手にされないだろうって。そしたら、誰も傷つけずに済むって。…だから最初、深夜に冷たい事言って、突き放そうとした」


ごめんなさい。

そう言った羽月は、酷く弱々しくて。


「これが…っ、私の過去」


何故彼女は、泣くのを我慢しているのだろうか。


「羽月。手、出せ」


「…?」


そんなの、我慢する必要ないのに───


「えっ…」


深夜は、差し出された羽月の手を取り、自分の方へ引き寄せた。羽月の頭が、ポスッと深夜の胸に収まる。


「っ…!?」


驚いて声も出せないのか、無言で困惑する羽月の髪を、優しく、優しく撫でる。羽月にかけられた悪い言葉の数々を、落とすように。




「────頑張ったんだな」




その一言で。
羽月の心に絡まった鎖が、音を立てて、壊れた。


「1人で悩んで、1人で苦しんで。そうやってお前は、誰にも頼れずに、戦い続けてたんだな」


羽月の唇が震える。しかし彼女は、しっかりと口を引き結ぶ。


「いつも深夜は…っ、私の1番欲しい言葉を、くれるね…っ」


「泣いて、いいんだよ」


もう涙は零れそうなほど溜まっているのに。優しく声をかけたが、羽月は首を振ると、涙を拭った。


「まだ、泣かないよ。だって深夜の話、まだ聞いてないから」


──泣かなかった原因は、俺か。

羽月の心遣いに、心が締め付けられたように、苦しくなる。自分だって、辛いはずなのに。深夜と苦しさを共有するまでは、自分も泣かないと言っているのだ。


「そう、か。…ありがとな」


最後に1度だけ、ゆっくり撫でると、羽月は体を離した。


「じゃあ、聞いてくれ。俺の過去も」


羽月は座り直すと、凛とした瞳で、頷いた。


「俺の家は、3人暮らしだった」


そんな、なんでもないような事から始まった話。


「普通の会社に勤めてた母と、小説家の父。…アイツのこと、父なんて言いたくないけどな」


そう言った深夜は、今まで羽月が見た事もないくらい、冷たい眼差しで宙を射抜いていた。


「普通の家族だったんだ。仲は良かったし、アイツの仕事は決して調子が良かったわけじゃなかったけど、それでも、家族で支え合って暮らしてた。…けど、俺が5年生になったぐらいかな。アイツの小説が、急に売れるようになって。初めは俺たちも一緒に喜んでたし、アイツも普通だった。でも、だんだんアイツは周りからのプレッシャーに負けて、ストレスから酒と煙草に溺れるようになった」


羽月の眉が、傷ついたように歪められる。家族が壊れる絶望に、その感覚に、覚えがあったから。


「元々酒癖が悪かったアイツは、母さんや俺に暴力を振るうようになった。初めはしばらくすると勝手に落ち着いてたんだけど、段々そうはいかなくなって。見えるとこに毎日傷が出来るから、学校でも、周りの奴らはどんどん離れていったよ。…ま、1人だけいたんだけどな。しぶとく俺を心配してくれた幼馴染みが。けど俺は、そいつの好意も無駄にした。今にして思えば、何も出来ない非力な自分に、苛立ってたのかもな」


嘲るように小さく笑った深夜は、澪には悪いことしちゃったな、と呟いた。


「それが1年くらい続いた。そんなある日だった。母さんが、どうしても仕事で遅くなるらしくて、俺のこと心配してたんだ。俺は『今日も図書館で時間潰すから、大丈夫だ』って言った。…でも俺はその日、図書館へは行かなかった」


羽月は不思議そうに首を傾げた。家にいても暴力を振るわれるだけなのに、何故帰ったのか。


「そんとき、変な覚悟が出来ちゃったんだ」


首を傾げた羽月を見て、深夜は悲しそうに微笑む。


「もう、逃げるのはやめよう。俺が母さんを守るんだ…ってな。でも結果として、俺は母さんを騙したんだ。もしかしたら、アイツがまだ、優しかった頃の父さんに戻るかもって、期待してたのかもな」


「そんな…」


騙したと言うには、あまりにも悲しい事実。


「それで、帰った俺はアイツに言ってやったんだ。『お前のやっていることは犯罪だ。今すぐ母さんを解放しろ』ってな…っ」


深夜は眉を寄せる。


「そんなこと、狂ってるアイツが聞くわけないのに。…怒ったアイツは、その辺にあった…、カッターで───」


深夜の手が、震える。
その時の衝撃が、痛みが思い出されて、深夜は言葉に詰まった。
キュっと、羽月は深夜の手を握る。優しく、包むように。それだけで、深夜の震えは幾分か止まった。


「ありがとう」


深く息を吐いた深夜は、目線を上げた。


「カッターで、俺を傷つけ始めた。さっきお前が見たのも、その時の傷だ。あとは…ココと、ココ」


左頬、右目の上、そして左の鎖骨の辺り。刃物の切り傷が、痛々しく残っていた。


「この3箇所で済んだのは、母さんが予定よりもはやく帰ってきたからだ。…必死になって、止めてくれたんだ。その日は俺、痛くて怖くて…自分が不甲斐なくて、眠れなかったよ。守るとか言って、結局守ってもらったからな」


そこで深夜は言葉を切る。
次に出た言葉は、穏やかなのに悲鳴のようで。


「その、次の日だった。母さんが…自殺したのは」


羽月が息を飲む。目を見開き、瞳を涙で潤ませた。


「朝、まだアイツは寝てる時間帯。俺も眠れなかったから、ちょっと早く起きようと思って。…母さんにとっては、予想外だったんだろうけど。っ…ベランダの柵に、体預けるように立ってて───

『苦しめてごめんね。子供は親を選べないから…。でもこれで、大丈夫だからね』

───これが母さんの、最後の言葉だった」


深夜の喉が詰まる。湧き上がる感情を、必死に飲み込む。羽月は俯いていて表情は分からないが、深夜の手を握る手に力が込められた。


「そのまま、空を仰ぐようにして落ちていったよ。俺の住んでたマンションは3階だったから、多分、即死だったと思う。下に人がいたのか、俺の叫びが酷かったのか、警察はすぐに来たよ。そこで俺たちは連れていかれて、今までのことを洗いざらい話した。…母さんは分かってたんだよ。自分が騒ぎを起こせば、アイツの罪は浮き彫りになるって。まぁ、アイツはまだ…黙秘を続けてるらしいけどな」


伏せられた目に浮かぶのは、悲しみか、憎しみか。


「それで、医者が俺の髪見てさ。こんな酷い栄養失調なら、モリンシ感染の恐れがあるって言って。案の定、感染してた。丁度その日なんだよ、羽月と初めて会ったの。…同じ日なんだ、母さんが死んだ日と」


「同じ、日…っ」


羽月はあの日を思い出す。自分が、酷いことを言ってしまった日だ。あの日に深夜は、自分の母親を亡くしていたのだ。一体、どんな気持ちだったのだろう。


「深夜…っ、私…!」


「別に、謝ることねぇよ。お前だって、色々大変だったワケだし」


優しく微笑むと、深夜は目を逸らした。
それと同時に、笑みが消える。


「俺、時々夜に喋ってるだろ。あれ、アイツから受けた暴力を、体が覚えちまってて…っ最悪だよな、夢ん中でまで、アイツに痛めつけられてんだ」


フッと笑った。そう、笑ったのだ。
どうやら彼は、辛いことがあると、笑って隠すらしい。


「これが、俺の過去。────って」


顔を上げた深夜の目に映ったのは、自分の時よりも目に涙をうかべ、堪えきれず頬を濡らしている羽月の姿だった。


「なんでお前がそんなに泣いてんだよ…」


「だって…っ!深夜は、深夜は何も悪くないのに…!そんな酷いこと…。おかしいよ…っ…そんな、そんなこと…!」


とめどなく流れる涙が、沈みかけている太陽の光に反射して、キラキラと輝く。その様子を見ていた深夜も、徐々に涙が込み上げてきて。


「そんなこと言ったら、お前だって何も悪くねぇじゃん…っ。見た目なんて、自分じゃどうにも出来ないし…っ…羽月の方が、よっぽど…」


歯を食いしばり、必死に声を上げないように堪える。
もはや羽月の方は、涙を堪えることすらしなかった。


「俺達、頑張ったよな…。誰にも頼れずに、1人で抱え込んで…っ。必死に、生きて…」


「うん…っ、うん…!そうだよ…頑張ったよ…!」


何度も頷く羽月に、深夜は尋ねる。


「ホントのこと、言っていいか」


「なに…?」


ふと視線を逸らして、怯えるような深夜に、羽月は優しく答える。


「俺…羽月に過去知られたら、他の奴らみたいに離れてっちゃうんじゃないかって、怖かったんだ」


思わぬ言葉に、羽月は瞬く。


「羽月が色々抱えてんだろうなってのは、何となくわかってたし、これ以上、不安にさせたくないなって。だから、隠してた。…ごめん」


「謝る必要ないよ。私のこと、考えてくれてたんでしょ」


ふわっと、羽月が笑う。
その笑みは、自然に浮かんだものなのだろう。

───羽月、こんな風に笑えたんだな。

その笑みを見られたことが、深夜は嬉しかった。



叶うならば、ずっと近くで。



「これからは、さ。2人で半分こしよう。嬉しいことも、辛いことも。私、今までどうやって1人でいたか、わかんなくなっちゃった」


「俺もだ。2人で支え合っていこう。お互いの過去を知った俺たちなら出来るよ」


そう言い、深夜と羽月は、お互いの涙を拭いながら、笑いあった。その笑いは、あのぎこちない笑みでもなく、本心を隠すための笑みでもなく。2人の心の底から浮かんだ、暖かな笑みだった。




‧✧̣̥̇‧✦‧✧̣̥̇‧✦‧✧̣̥̇‧✦‧✧̣̥̇‧✦





「顔の傷…まだ痛むの…?」


涙が収まった頃、ふと浮かんだ疑問に羽月は控えめに尋ねた。


「え?あぁ、だいぶ良くなったんだけど…。まだ少し痛む、かな」


そっと頬の傷に触れると、思い出したように羽月を見た。


「羽月こそ、骨折したんだろ?後遺症とか大丈夫なのか?」


焦ったように尋ねた深夜。自分の知らないところで、羽月は苦しんでいたのではないかと、今更ながら不安になる。


「後遺症はほとんどないよ。もう2年も前のことだしね。でも、未だにその時の癖が抜けなくて」


運動機能には全然問題ないよ。と、深夜を安心させるように微笑んだ。


「実は…。私も昔、顔に傷…あったんだよね」


唐突に呟かれた言葉に、深夜は意表を付かれ、え、と声を上げる。


「私の所為で離婚したって話された時、何もかもが怖くなっちゃって。ハサミでむやみやたらに髪を切ったの。まだハサミ使うの下手くそだったから、顔が切り傷だらけになっちゃって…。それで余計に家族を傷つけた」


「それ…っ、跡は…」


「もう殆ど残ってないと思う」


よかった。と、深夜は胸を撫で下ろす。
その様子を不思議に思った羽月、首を傾げた。


「だって、羽月綺麗な顔してるから。傷残ったら勿体ないなって」


「それ言ったら深夜だって」


「俺は男だからいいんだよ」


羽月、少し不満そうに頬を膨らませる。その様子がおかしかったのか、深夜は明るく笑い出す。不満げにしていた羽月も、深夜につられ笑いだした。


「ねぇ、深夜」


口元に笑みを浮かべたまま、羽月が口を開く。


「私さ、深夜に救ってもらってばっかだから」


──そんなことないのに。

深夜はその言葉を、口の中で留まらせる。
正直、その後に羽月が何を言うのか気になったからである。


「今日の夜、試したいことがあるの」


その言葉の意味を瞬時に理解出来ず、深夜は数回瞬いたのだった。