クレオ*̣̩エシス





無機質な白い廊下には、いくつもの足音が響いている。それは規則的であり、時に不規則に。その中でも比較的規則的に響く2つの足音があった。


「それで、貴方の病室は…」


ひとつは、この病院の看護師のもの。
凛とした瞳と、高い位置に結ばれたお団子の黒髪が印象的な女性だった。はっきりとしたその話し方からは、仕事の出来が伺える。

もうひとつは、まだ10代前半の少年のものだった。少し襟足の長い黒髪は、栄養が行き届いていないのか、所々色が抜けている。淡く、エメラルドグリーンの光を放つ瞳からは、希望や興奮の感情は読み取れず、ただただ窓の外を眺めているだけだった。

恐らく、話など聞いていないのだろう。少年は看護師に気付かれぬよう、小さく溜息を着いた。


「────じゃあ、直ぐに戻ると思うから。そこで少し待っていてね」


気が付くと、中庭のベンチに座らされていた。ろくに話を聞いていなかったせいで、なぜ看護師がいなくなるのかすら分からない。

話を聞いていなかったのは自業自得だが、なすがままの自分に嫌気がさし、少年はもう1度、今度は普通にため息をついたのだった。

彼がこの病院に来たのは、病気の治療のためだ。
いや、正確に言えば、彼の病気の治療法は分かっていない。


─────《モリンシ》。

正確には、モリンシ・ウイルス。
それは、今世界中を混乱に貶めている、新型ウイルスのことである。感染するのは、主に子供。現在では12歳以上の子供は感染のリスクが低いことが判明している。その為、12歳以上の感染者はほとんどいない。しかし今や、学校や保育園、孤児院でさえも満足に機能しておらず、皆不安と焦燥感に駆り立てられていた。

世界中を混乱に貶めていると言っても、感染リスクが高いのは、充分な健康状態が保たれていない子供。健康体であれば、そのリスクは高くはない。ただ、一度
かかってしまえば、未だ特効薬は疎か、治療法さえも分かっていない為、いずれ訪れる死を待つしかない。

死は突然らしい。何の予知もなく、いきなり意識を失い、徐々に衰弱していく。
今は、そんな恐ろしいウイルスが蔓延る時代だった。


────後の、『悪魔時代』である。




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「風がでてきたな…」


先程まで静かだった中庭に、木の葉のざわめきが生まれる。風に乗った桜の花びらが、深夜の足元まで舞い、落ちていった。ただそれだけで、何かが変わったような錯覚に見舞われた。

否、変わったのだ。


「───…ん」


先程は気が付かなかったが、中庭の真ん中に立つ大木の根元。丁度少年からは死角になる位置。
そこに人影が、あった。


「全然気付かなかった」


何を思ったのか、少年はおもむろに立ち上がり、大木へと歩いた。その気配に気付いたのか、人影も立ち上がり、少年の方を振り返った。

それと同時、


「うわっ───」


一際強い風が桜吹雪を纏い、少年を煽った。少年は思わず手で顔を覆う。
その細めた目の端で、


銀色が、舞った。


それはまるで、大きな羽のようで。


「──────天使だ」


少年が目を奪われるには、十分すぎる光景だった。夕日を受けて輝く白銀は、その人物の髪だったようだ。
それは、この少年と同じくらいの歳の少女だった。銀色の髪は、しかしよく見ると白髪で、左側の髪のひと房だけが、血のような紅だった。同じように細められた黒瞳は、夕日に照らされオレンジ色に輝き、それでも尚その瞳には、生気が見えなかった。その少女は、あの突風を受けても声を上げず、右側の髪を抑えながら、風が止むのをじっと待っていた。


「あっ…」


少年は、少女の首からかかっているネームカードを見て、思わず声を上げた。
黒い、ネームカード。
これはモリンシ患者を意味するものだ。


「お前も、モリンシ患者なのか?」


念の為聞いた少年に、少女は僅かに頷く。


「俺は紅深夜。お前、名前は?」


少女は躊躇った。
視線を落とし、開きかけた口を閉じた。その様子は、何かと戦っているようであり、少年──深夜は、少女の目の前に行った。そして少女の前に片膝を着き、その瞳を真っ直ぐに見上げた。


「教えてくれるか」


そう言って、その少女を安心させるように、唇を持ち上げた。だが、そう言った深夜の目の奥に、悲しみの光が灯っていることを、彼女は見逃さなかった。その光が灯っているのは、何故なのか。
それは彼にしか分からない。


「私は───」


初めて聞く彼女の声は、小さいけれどとても心地のいい声で。


「美冷…羽月…」


ほんの少しだけ、少女──羽月は微笑んだ。

その名前を聞けただけで、深夜は満足だった。