────納得いかない。
カツカツと足早に廊下を歩く足音がひとつ。その少女はクルンとカールしたボブの髪を揺らしながら、不機嫌なオーラを漂わせていた。笑顔でいれば可愛いと思われる顔も、今は眉を寄せ、目も怒りでつり上がっていた。
そう、九重桃音である。
彼女はあれ以来、深夜の前に姿を現していない。否、そんな勇気が彼女にはない。
今まで何でもとは言わずとも、ある程度のことは許してくれていた深夜が、自分に明確な敵意を向けてきた。それも、自分の為ではなく、あの女の子の為に。
その事実がどうしようもなく悔しく、辛かった。
「何であんな子の為に…っ」
思わず零れた愚痴に気づき、キュッと唇を引き結ぶ。
自分があの子──羽月の事を気にしている事実がまた、桃音を苛立たせていた。
いよいよ嫌になり、こんなこと忘れてしまおうと意気込んで顔を上げると。
「わぁ…っ」
目に入った人影に、思わず魅入った。
凛とした、気品を感じる歩き姿。艶やかな髪はハーフアップツインテールにしていて、シフォンのリボンがふわりとたなびく。伏せ目がちな瞳が、桃音に気が付き目が合う。思わずドキリと心臓を弾ませた桃音は、その少女を盗み見ながらすれ違う。
「貴方が九重桃音さん?」
すれ違いざまに呼びかけられた言葉に、桃音は思わず歩みを止める。驚いて振り返ると、少女が少し温度の無い瞳で、桃音を見つめていた。
「そ、そうですけど…」
警戒しながらも返答した桃音を見て、少女は問い掛ける。
「少し、付き合っていただけます?」
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穏やかな風が、ふたりの間を吹き抜けていく。屋上に出た2人は、しばらくの間その風に身を任せ、無言を貫いていた。
よく晴れた青空。7月にしては気温は低いが、それでもじわりと汗ばむ陽気だった。
「そういえば、自己紹介が遅れてしまいましたわね」
そういうと、少女は桃音の方へ向き直り、足を少し斜めのT字のように揃えると、優雅にお辞儀をした。
「私は橙雨花姫と申します」
顔を上げた彼女の表情は冷たく、まるで恋敵でも見るようなものだったが、それも次の言葉で納得出来た。
「美冷羽月の、親友ですわ」
その言葉に、桃音は自分が呼び出されたわけを悟る。自分は彼女の親友たる美冷羽月を侮辱したのだ。そのことに決まっている。
「私に、何をしろって言うの…」
少し花姫の方が身長が高い為に、上目遣いで睨む桃音は、警戒を隠さず問い掛ける。花姫は小さく息を着くと、肩の力を抜いた。
「別に、貴方に何かをして欲しいわけじゃありませんわ。これはただのお節介なのですから」
予想とは違う返答に、桃音は眉を顰める。彼女は一体、何をしに来たのだろうか。
「貴方にお教えしようかと思いまして。羽月の過去について」
「えっ…」
突然の提案に、桃音は目を見開く。責められるわけではなく、更には羽月の過去について教える。一体花姫は何を考えているのだろうか。
戸惑う桃音の視線をしっかりと捉え、花姫はその瞳を見つめる。
「深夜が激怒した理由を、知りたくありません?」
知りたい、と思わず叫びそうになった言葉を飲み込む。これでも彼女は美冷羽月の親友だ。恋敵の友達に、簡単に気を許すわけにはいかない。
「貴方に、分かるんですか」
警戒を解かない桃音に対し、花姫は冷静だった。
「私にも、全て分かるわけではありませんわ。けれど…恐らく私が同じ立場なら、同じように怒ったはずです」
グッと桃音は思わず息詰まる。先程から彼女から漂う怒りを、今しっかりと認識してしまったからだ。しかし、自分の罪を認めることは難しいもので、桃音もまた、罪を認めたくはなかった。
「貴方も、深夜くんも…みんな揃ってあの子のことっ!そんなにあの子が大切なの!?」
胸の前で右手を握りしめ、花姫に向かい一歩攻め寄る。そんな悲鳴のような声にも、花姫は動じなかった。ただ静かに、羽月に対する思いのままに動いている。
「そうですわね。私にとって羽月は、形は違えど同じ痛みを持った友達。初めての親友、ですわ」
はっきりと告げられてしまった事実に、桃音の勢いも沈む。
「深夜が羽月のことをどう思っているのか、私には分かりませんわ。ですが、彼にとって大切な人であることは間違いないでしょう」
決定的な事実を突き付けられ、桃音は言葉が出ない。なんとなく感じていた深夜と羽月の間の絆。自分の方が付き合いは長いからと油断していたことを後悔した。
それと同時に、自分の重ねてきた数年間の絆が、たった3ヶ月しか過ごしてない羽月に負けると認めたくなかった。
「どうなさいますか」
冷たい花姫の声が、桃音をじわりと追い詰めていく。
桃音は視線を彷徨わせた後、悔しそうに口を開いた。
「…聞いても、謝るとは限らないわよ」
それでも、何が深夜をそこまで動かしたのか。その原因を知りたいという衝動には勝てなかった。
「構いませんわ。…まぁ、聞いても何も感じないというのならば、その程度の方ということです」
後半の呟きに身を固くしながらも、桃音は次の花姫の言葉を待つ。
羽月に競争心を募らせる一方で、彼女に興味が無いといえば嘘になる。誰だって気になるだろう。それほどまでに、彼女は特別なのだから。
「私も、全てを知っているわけではありませんし、羽月に許可をとったわけではないので、要約してお話することになりますが」
スッと花姫の表情が抜ける。
今まで顔に現れていた怒りや警戒が解かれ、何を考えているのか分からない。
突然のことに、桃音は混乱する。だが、花姫のその挙動は、当たり前のことだったのだ。
「羽月は、あの見た目のせいで両親が離婚し、学校でいじめられ、その一貫で階段から突き落とされ、モリンシにかかり、母親が過労で倒れ、姉に拒絶された。そういう子ですわ」
羽月の過去を話すには、感情を表に出すわけにはいかないから。
情報量の多さに、桃音は絶句する。その過去を一度に理解するには、桃音は幼すぎた。
「え…。ちょ、ちょっと待って!あの子って、私たちとそう変わらないわよね!?」
「まぁ…そう、ですわね」
自身も羽月の年齢を下に見ていたので、少し歯切れ悪く答えてしまった花姫。
一方桃音は未だ困惑から逃れられず、上手く言葉を発せない。それを見兼ねた花姫は、静かに声を掛けた。
「何か思う所があるのであれば、考えてみてくださいまし」
私から言えることはそれくらいですので──。
そう言い残し、花姫はその場から立ち去った。桃音の視界の端に橙色の輝きを残して。
花姫が去った後も、桃音はその場から動けずにいた。自分とそう年の変わらない少女が受ける罰にしては、重すぎる。桃音は自分の過去から、悲劇のヒロインのようだと思っていたが。
「何よ…こんなの、酷すぎるじゃない…っ」
彼女の歩んだ道程に比べれば、こんな悩み、些細なことに過ぎなかったのだ。
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静かに屋上に続く階段を降りながら、花姫はそっと息を吐く。
自分は上手く立ち回れただろうか。
あの桃音という少女に、花姫は自分と似た何かを感じていた。環境のせいで、自由に動けない。そんな束縛を。
橙雨花姫は、所謂お嬢である。
家は地元では知らない人はいない程有名な老舗店。主に高価な家具や雑貨、装飾具などを扱う、骨董屋だ。大勢の金持ちが通う店の跡取り娘となれば、ある程度不自由のない生活がおくれることだろう。だがそれは、“他から見た時”の話。当事者である花姫は、そうではなかった。
厳密に言えば、花姫は自分が恵まれていることも、自分に対して望まれていることもわかっていた。それでいて、否、それこそが彼女を繋ぐ鎖となり、彼女を長年苦しめていた。
花姫は将来その店を継ぐために、幼い頃から常に教育を受けていた。それは勉学だけに限らず、礼儀作法、護身術、相手を口車に載せる方法、表情の作り方から運動まで。それと共に、彼女に元から備わっていた、相手の気持ちを汲み取る能力と、リーダーシップ。学校に入学し、注目の的にならないわけがない。初めこそ、自分は橙雨家の人間として恥じない人物になれているのだと、手放しで喜んだ。
いつからだろう。その喜んで受け取っていた眼差しの、本当の意味に気がついたのは。
気がついてしまえば、後に残ったのは『人に対する疑念』だけだった。自分に向けられているのは、賞賛と尊敬の眼差しだと思っていた。そこに少しの嫉妬はあれど、皆自分を認めてくれていると、そう、信じていたのに。
そこに隠れていたのは、もっと醜い人の欲望だった。
彼女は利用されていたのだ。
例えば運動会。
例えばクラスの話し合い。
例えば委員会の仕事。
それだけではなく、今まで普通に遊びに来ていた友達達が、本当は花姫の母が取り寄せるお菓子が目当てで来ていたとしたら。それだけでは飽き足らず、商品を盗んでいたら。
それら全てを悟った時、花姫は人を信じることを辞めた。
友達だと信じていた自分が馬鹿らしい。本当は、自分に“友達”なんて、いなかったのだ。人間は皆嘘つきだ。嘘と欲望にまみれた、醜い存在だ。
そして自分もまた、醜いと批難する人間なのだと、認めていた。
そんな心を閉ざした彼女に、今までと同じ教育は苦難だった。日に日に低下していく能力に、彼女の両親は怒りと落胆の念を向けた。どうして出来ないのか、期待はずれだと何度言われたことか。それで自分が、向上心を取り戻すとでも思ったとだろうか。
しかし、それでも花姫には引き下がれない理由があった。それが、彼女の1つ下の弟の存在だった。元々病弱な弟に、こんな苦難を味わわせるわけにはいかなかった。
そうして、耐えて、耐えて、耐えて。
疲れて、しまった。
立ち止まってしまえば、もう歩き出すことは出来なかった。改めて振り返って、なぜ自分があんなに必死になって頑張っていたのか分からない。
そして振り返ったからこそ、自分がどうして頑張っていたのか、分かってしまった。
そう、自分は。
「純粋な愛が、欲しかった」
ただ普通に、家族として、友達として、兄弟として。そういった当たり前の関係が欲しかったのだ。そのために自分は、必死になって繋いでいたのだ。自分と他とを繋ぐ、橙雨家という鎖を。それがちぎれてしまえば、自分に存在意義などなくなってしまう。それを悟っていたから、逃げられなかった。
しかし、花姫がモリンシにかかったとわかった時、彼らは確かに悲しんでいた。何故自分たちの娘が、と世の理不尽を嘆いていた。例えそれが、橙雨家を継ぐはずの自分を失ったことへのショックだったとしても、そうして自分の為に心を動かしてくれたことが、花姫は嬉しかった。
長い廊下を進み、病室のドアを開ける。ふわりと漂う、羽月の居た空気。少し前と一寸違わぬ部屋を見回し、花姫はひとり微笑みを浮かべる。
もう友達を持つまいと思っていたのに。彼女は、彼らは、他の人とは違っていた。真っ直ぐな目線、心の籠ったお礼。そして何より。
目には見えない、傷だらけの心。
話した瞬間、悟ってしまった。自分達との違いを。その彼女が、友達になって欲しいと言ったのだ。断れるわけがない。そして自分もまた、人を信じてみようと思ったのだ。
羽月といる時間はとても暖かい。友達とはこういうものだと、初めてわかった気がする。悩んでいるなら助けてあげたい。泣いているなら慰めてあげたい。喜んでいるなら、一緒に喜びたい。そう思える存在を、友達と、“親友”と呼ぶのだろう。
今まで知らなかった感覚。けれども、心のどこかでずっとその関係を求めていたのだと、今ならわかる。
だから、彼女には、彼女にだけは。
幸せになって欲しい。
────────だけど。
「私達の未来は、どうなるのかしらね」
忘れてはいけない。
自分達は、絶対不治の病。

