クレオ*̣̩エシス





夏の明るい日差しが差し込む廊下を進む。その足取りに不安が無いわけではなかったが、もう逃げまいと決めた心は揺るがなかった。

冷房から出た涼やかな風が、羽月の白髪を攫う。視界にそれを捉え、羽月は以前との違いを感じ取った。そう。以前ならば、この髪を視界に捉えることさえ忌々しかった。それが今は、その感情はほとんどなくなっていた。それは、自分を受け入れてくれた幽見や花姫、そして何より“一番初めに髪を褒めてくれた”深夜の存在が、何よりも強かった。

だから、彼には伝えたい。
私の、本当の気持ちを。

深く息を吸う。
これからのことを考えると、緊張でなかなか思うように息を吸えなかったが、それでも何とか呼吸を整え、ドアの取っ手に手をかけると。


勝手に、開いた。


「え…」
「えっ…」


驚いて声を上げると、正面の人物、即ち深夜と声が重なった。顔を上げれば、かなりの至近距離で視線がぶつかる。驚きに見開かれたエメラルドの瞳が、羽月を映して瞬いた。


「深夜、なんで…」


「羽月こそ…。いや、お前が遅いから探しに行こうかと思って」


話しながら、不意に眉を寄せた深夜に羽月は首を傾げる。すると深夜はするりと頬に手を添えた。その温度に、羽月の心臓が跳ねる。今までは、少し触れられることぐらいなんてことなかったのに、意識し始めるとこんなに変わるものなのか。
一人動揺する羽月をよそに、深夜は少し自信なさげに声をかけた。


「何か、あったか…?」


その言葉で、羽月はハッと現実に引き戻された。そうだ、自分は何故ここに戻ってきたのか。


「あの、ね。実は深夜に、話したいことがあって」


真っ直ぐに深夜の瞳を見つめ、羽月は言葉を紡ぐ。なるべく本心で、深夜に伝わるように。


「だから、その…」


話そうと決心しても、どうしても『聞いて欲しいというのは、自分の我儘なのではないか』という思考が頭を掠める。どうして自分はこんなにも“伝える”ということが下手くそなのか。
自信をなくして、思わず俯きそうになった時、不意に深夜が膝をおった。そのしゃがんだ姿勢で、羽月の顔を覗き込んだ瞳はとても優しくて。


「うん。聞くよ」


────私が口下手なことも、ネガティブなことも、きっと深夜はわかってるんだ。

自分の話なんて、誰も聞いてくれない。そんな過去の常識に、いつまで囚われているのか。そもそも、今ならわかる。聞いてくれないじゃなくて、自分から何かを発信しなければダメなのだ。人間は無音の言葉を読み取れるほど、器用じゃない。


「ん。ありがと」


小さく微笑むと、羽月は深夜の横を通り過ぎ、自分のベッドに腰かける。何となく、大切なことを話す時はここに来てしまうようだ。一方深夜は、窓辺に佇み外を見ていた。


「座らないの…」


不思議に思って声をかけると、「あぁ、ここでいい」と返答された。


カチッ──と、時計の長針が進んだ音が響く。
一体何から話したら良いものかと、羽月が思考を巡らせていると、深夜が静かに口を開いた。


「聞くって言っといてなんだけど、始めにこの誤解だけは解いておきたい」


「誤解…?」


「あぁ。この間の『羽月は友達じゃなくて』ってやつ」


ずっと心に残っていた言葉に、思わず息を飲む。


「あの時お前、最後まで聞かないで飛び出して行っただろ」


今となっては反省している事実に、うっと目を逸らす。それがすれ違いの発端と言っても過言でないのは自分でもよくわかっているのだ。


「あの時、俺は」


そこで少し言葉を切り、深夜は羽月の瞳を捉える。絡まりあった視線を逸らさずに、深夜の静謐な声が羽月の耳に届いた。


「『羽月は友達じゃなくて、大切な人だ』って言いたかっただけなんだ」


『大切な人』

スッと心に溶け込んでいったその単語を、口の中で繰り返す。友達じゃない、というのはやはり誤解だったのだ。その事実にホッと胸をなでおろしながら、もう一度そのフレーズを咀嚼した。


「それって、どういう意味…」


『友達』ではなく『大切な人』。
では、その違いとは。


「本当は、それについて話そうと思ってたんだけど…」


少し自嘲に近い笑みを浮かべながら、また深夜は視線を窓の外へ戻した。その様は、覚悟を決めかねているようにも、余裕があるようにも見える。


「でも、もう少し待つよ。羽月の話をちゃんと聞きたいし。…それに、まだ、このままでいたい」


後半の呟きは小さくて、羽月の耳には届かなかったが、自分の話を聞こうとしてくれている意志をしっかり受け取り、頷いた。

今度は、自分の番だ。


「…私は、他の人より話すのが下手で」


突然発せられた否定的な言葉に驚き、深夜は羽月を振り返る。


「人の気持ちを汲み取るのも、下手で」


一つ一つ。
纏まってなくても、伝える。


「花みたいな頭の良さも、桃音ちゃんみたいな女の子らしさも、幽見さんみたいな強さも…ない」


ぎゅっ、と握る拳に力が入る。


「他と違うって軽蔑されて、人の目に負けて塞ぎ込んで。頼ってもいないのに、誰も助けてくれないって、勝手に思い込んで…。人の好意を、散々無駄にした」


幽見の好意を、学校の先生の好意を、病院の人達の好意を。あったはずのそれらを否定して、勝手に孤独になっていた。


「だけど」


そんな自分が変われたきっかけ。誰かを頼ってもいいのだと、突き放されず、手を差し伸べてくれる人もいるということを、初めて知ったこと。


「深夜に出会って、私は変われた」


深夜を見つめた視線は、強く、揺るぎないものだった。
いつからだろう。羽月がこんなにも強い目をするようになったのは。初めて出会った時は、全てに絶望したような虚ろな目をしていて。とてもじゃないが、明るい話題をできるような雰囲気ではなかった。それが今では、笑顔まで見せるようになった。


「今まで拒絶され続けてきたこの見た目を…この髪を。深夜は『綺麗だ』って、そう言ってくれた。それが私にとって、どれだけの救いだったか、きっと誰にも分からない」


呪いでしかないこの容姿を、認めて、受け入れて、褒めてくれた。きっと、羽月が一番望んでいた言葉をかけてくれた深夜は、彼女の中でたった一人の『英雄』なのだ。


「でも、それだけじゃダメなの。例え受け入れてくれる人がいても、私が変わらなきゃ、意味が無い」


羽月は立ち上がると、深夜の前に立った。少し高い彼を見上げた羽月はとても凛とした姿勢で、その瞳を見据える。


「幽見さんから教えてもらったの。言葉があれば、例えすれ違っても、喧嘩しても、解決できるって。だから、深夜に伝える。私の気持ち」


一旦息を着き、深呼吸する羽月。
一体今から何を話されるのだろうかと、深夜は思わず背筋を伸ばした。


「────深夜の、声が好き」


思わぬ言葉に、深夜は声を零す。
目線を外さずにまっすぐ伝えられた言葉は、深夜の胸にスッと染みていく。


「深夜の指が好き」


やはり少し恥ずかしいのか、ほんのり頬を桃色に染めながらも、羽月は告白を止めない。


「深夜が名前を呼んでくれるのが好き。並んで歩いてる時、私の歩幅に合わせてくれるのが好き。深夜の、羨ましいくらい綺麗な黒髪が、好き」


「ぁ…羽月、な、にを…」


堪らず声を上げる深夜を見て、頬を緩める羽月。その姿を見てしまえば、口を閉じずにはいられなかった。


「悲しい時、頭を撫でてくれるとこも、寂しい時、優しく抱きしめてくれるとこも、悩んでる時、背中を押してくれるとこも、好き」


一度溢れた思いは止まらなくて。
コップいっぱいに注がれた水のように、止めどなく溢れていく。


「私の為に怒ってくれるところも、時々見せる子供みたいな笑顔も、私だけに見せてくれる微笑みも。それから、泣き顔も。全部、全部好き」


好き、好き…好きなんだ。
他のことがどうでも良くなるくらい。
彼は、彼だけには嫌われたくない。
彼に拒絶されるくらいなら、死んだ方がマシだと思えるくらいには、彼のことが好きだ。


「涙に光が反射して、淡く緑色に輝くその瞳が、好き」


胸の前で拳を緩く握り、一歩深夜に詰め寄る。
もう止められない。

全部、伝えてしまおう。


「深夜が私に…何も無くなって空っぽになってた私に“生きる意味”をくれたの。あの時から私は、深夜のために生きようって、そう思えた。ここが私の居場所なんだって、誰にも取られたくないって。だから、私は桃音ちゃんには負けないよ。私はまだまだ未熟で、全然敵わないかもしれないけど」


見た目でも中身でも、桃音には負けてしまうかもしれない。だけど、たったひとつある。絶対に負けないもの。


「深夜を想う気持ちは、絶対に負けないから」


深夜が誰よりも大切で、大好きで、ずっと傍にいたいと、そう思う気持ちは誰にも負けない。この場所を誰かに譲るなんて、絶対にしないから。


「それって…」


深夜の声は、少し掠れていて。動揺からなのか震える声は、普段の彼からは想像できないくらい弱々しかった。


「だから、ちゃんと伝えるね」


────私の、本当の気持ち。







「私は、深夜のことが好きだよ。他の誰にも負けないくらい、深夜のことが大好き」





深夜は静かに息を飲む。驚きに見開かれる瞳が、光を透過して宝石のように輝く。
声を出そうと試みるが、なかなか音にならず、暫く部屋は静寂に包まれた。


「そ、れは…告白と受け取って、いいんだよな」


やっと出せた声は酷いもので。自分でも信じられないくらい驚いているのだと、頭の片隅で冷静な自分が考える。それでも、目の前のこの少女が自分に好意をら恋をしてくれていた事実が、未だ信じられなかった。
ゆっくりと頷いた羽月を見て、深夜は思わずため息をついた。


「あぁぁぁぁ…。俺の意気地なし…」


急に右手でくしゃくしゃと髪をかきあげながらしゃがみ込んだ深夜に驚く羽月。そんな羽月にすまなそうな視線を向けながら深夜は言う。


「失礼かもしれないけど、羽月は恋とかそういうの、分からないだろうって…思ってた」


「うん。私も、最近まで気づかなかった」


「まさか、先越されるなんて。こんなことなら俺の方から…」


うだうだと何か呟いていた深夜は不意に立ち上がると、真剣な顔で羽月に向かった。


「本当はこういうことは男の方から言わなきゃいけないのに。…意気地のない男で、ごめん」


そう言うと片膝を折り、羽月の左手をとった。
突然の騎士のような態度に、羽月は狼狽する。


「だから、今度は俺が言うよ」


スッと顔を上げ、力の籠った瞳が羽月の瞳を捉える。いつになく真剣な表情に、羽月の心臓が跳ねた。ぎゅっと胸の前の拳を握りしめ、深夜の次の言葉を待つ。


「俺は初めて会った時、羽月のことを天使みたいだと思った。…それは髪のせいだと思ってた。でも、そうじゃなかったんだ」


羽月が天使のように輝いて見えたのは、誰よりも綺麗だと思ったのは、恐らくあの白髪のせいじゃなくて。




「俺はあの時、あの瞬間に。
羽月に───恋をしたんだ」


羽月が息を呑む。
潤んだ瞳が深夜を映し、大きく見開かれる。





「俺は羽月のことを愛しています。俺の、恋人になってくれませんか」




その言葉を聞いた瞬間、羽月の瞳から涙が零れた。
キラキラと輝くそれは、一体なんの涙なのか。

深夜は羽月の手の甲にそっと口付けをすると、ダメかな、と不安そうに微笑んだ。


「っ………ぁ、……つ……」


止めどなく涙を流しながら、羽月は何とか言葉を発しようとするが、嗚咽が混ざった声は、言葉にならない。







「っ…こんなことなら…っ。…言うべきじゃ、なかった…っ!」







涙ながらに発された言葉に、深夜の動きが拘束される。羽月の言葉の意味が分からない。


「な、んでだよ。俺もお前もお互いが好きで、それで付き合ってハッピーエンドだろ?どうしてそんなこと…」


「だからだよっ…!」


キンッ──と響いた叫びは悲痛なもので、何故だか分からないのに深夜の心を抉った。


「深夜も同じ気持ちなら、私は伝えちゃいけなかったんだ…!」


ふわっ、と深夜に抱きついた羽月は、眉を寄せ辛そうな表情で泣き続ける。わけがわからない深夜は、ただ視線を彷徨わせることしか出来ない。


「俺は、お前の気持ちが分かって嬉しいよ。俺たちは、これからも一緒にいられるんだ。そんなに泣くことないだろ」


「…私は、深夜と一緒に生きることは…出来ない」


嗚咽と共に小さく呟かれた言葉に、思わず深夜は羽月の肩を掴み突き放す。今のが聞き間違いでないのなら。


「どう、いうことだよ…!?ちゃんと説明してくれ…っ!!」


焦りで心臓が暴れる。そんなことありえないと、理性が叫ぶが、本能的に感じてしまった。


「私は…私の、命は──────」




──────羽月の、最期を。









「私は────次の春を迎える頃には、



………もう、いないの」