「鹿内君、ちょっとだけいい?」

大学のゼミが休講だった日の午前中、モモの散歩を終えた俺は、真理子さんに声を掛けられた。

俺は少し走ったのでTシャツが汗で濡れていた。

「大丈夫ですけど・・・着替えてきてもいいですか?」

「ええ。もちろん。リビングで待っているわ。」

部屋に戻り、上着をTシャツからネイビーブルーのコットンシャツに素早く着替えると、階段を降り、真理子さんの待つリビングへ向かった。

「ごめんね~。忙しいのに。」

「いえ。今日は特に用事もありませんから。」

真理子さんは俺をダイニングテーブルの椅子に腰かけるように促し、そそくさとお茶を入れ出した。

改まって何の話だろうか?

真理子さんは入れたてのお茶と羊羹を出し、自分の分も用意して俺の目の前に座った。

改めて見ると、真理子さんは今日も美しい。

薄化粧した肌はシミ一つなく、目尻のほくろも色っぽい。

体型にも気を使っているのか、腰は砂時計のようにくびれている。

しかしそんなエレガントな容姿とは似合わぬ、お茶目な一面も持っている。

つぐみを温かく見守る母であり、健太郎さんをしっかりと支える妻でもあり、良妻賢母という言葉は真理子さんみたいな女性に相応しい。

「でね。折り入って頼みたいことがあるの。」

「はい。」

俺は背筋を伸ばした。

「つぐみのことなんだけど・・・」

「・・・・・・。」

「あの子、塾へ行きたいって言い出してね。つい最近のテスト結果が思わしくなかったの。

中学受験の時も最初は塾に通わせていたんだけど、あの子内弁慶でしょ?

塾の先生にわからないところを聞きにいくこともままならなくてね。」

「そうなんですか。」

「・・・家庭教師をつけて、やっとの思いで桜蘭学園に入学できたの。

だから大学受験にも腕のいい家庭教師がいてくれたらいいなって。」

「・・・・・・。」

「そこで鹿内君に、つぐみの家庭教師をお願いできないかな・・・って思いついちゃったのよね。鹿内君的にはどうかしら?」

「つぐみちゃんの家庭教師・・・ですか」

大学受験のノウハウは、ほんの3年前に経験したことだから、上手く教える自信はあった。

でも、つぐみは俺が家庭教師で納得するのだろうか?

俺が考え込んでいる間、真理子さんは爪楊枝で羊羹を綺麗に切り分け、そのかけらを口に放り込んだ。

「ん!この羊羹美味しい!鹿内君も食べてね。」

「・・・はい。」

俺もその黒光りしている甘い菓子を口にする。

甘さ控えめで品のある味がした。

どこか普通の羊羹とは違うような気がする。

「美味いです。」

「でしょ?これチョコレートが入っているんですって。

鎌倉にあるお店の羊羹ショコラっていうらしいの。友人がお取り寄せしたものを頂いたのよ。」

そう言われてみると、たしかにチョコレートの風味が漂っていた。

真理子さんは思い出したように、唐突に先ほどの話を続けた。

「・・・もちろんタダで教えて貰おうなんて思ってはいないわよ?

引き受けてもらえるなら、鹿内君に入れてもらっている生活費、ナシにしたいと思っているの。

ねえ。どうかしら?」

それは有り難い申し出だった。

大学生活も後半戦に突入し、残りの単位を取るのに時間を割いているため、最近はバイトのシフトを減らしているところだった。

金に困っているというほどではないが、貯金する額が減ってしまうのは、これから先のことを考えると正直痛い。

それにつぐみがどう思おうが、つぐみの将来の為に役に立てるなら、望むところだ。

「俺で良ければ、その話、引き受けさせて下さい。」

「ほんと?!良かった~。他につてもないし、どうしようかなって思っていたの。

鹿内君ならつぐみのこと、よくわかっているだろうし、安心して頼めるわ。」

「・・・つぐみちゃんは嫌かもしれませんが・・・。」

「あら。そんなこと絶対にないわ。つぐみってば最近鹿内君のことばかり気にしているのよ。

鹿内さんはどんな食べ物が好きなの?とか鹿内さんはいつも何時頃帰ってくるの?とか、もう大変!!

あら、つぐみには鹿内さんに言わないでよって口止めされていたんだっけ。

ついうっかり。これオフレコでお願いね。うふふっ。」

・・・つぐみが俺を気にしている?

どういうことだ?

もしかして俺のことを・・・?

思わず口元が緩みそうになる。

でもそう考えるのはまだ早い。

つぐみは心優しい子だ。

俺の過去を知って、同情しているだけかもしれない。

それに・・・家庭教師を引き受ける以上、つぐみは俺の生徒となる。

愛だの恋だのという甘ったるい感情は抜きにして、勉強に集中させなければならない。

俺はつぐみが大学受験を合格するまで、自らの恋心を封印することにした。