俺のバイト先は「ささ木」という名の、個人で経営している創作料理が売りの和風居酒屋だ。

そこで俺はホールを任されている。

大学に入ってからすぐに見つけたバイト先だから、もうかれこれ3年近く勤めていることになる。

店長は佐々木淳という名の、スキンヘッドにシルバーのアクセサリーが良く似合う、ガッチリ体型をした中年男性だ。

パッと見だとオラオラ系に見えるが、実は繊細で優しい人柄であることはバイト初日からわかった。そしてその店長を支えるのが妻である佐々木東子さんだ。

姉さん女房らしく、ハキハキとした物言いでいつも店長の淳さんを引っ張っている。

俺はその二人を「淳さん」「奥さん」と呼んでいる。

なんでも「店長」と呼ばれると、耳がむずむずしてしまうのだとか。

賄いも美味しいし、俺はこの店を気に入っていた。

最近、一緒に働いていた溝口という大学浪人中の男が突然辞めてしまい、俺のシフトは毎日のように埋まっていた。

「鹿内君、ごめんね~。バイトさん、募集しているんだけど、なかなかいい人が見つからなくて。」

「大丈夫です。奥さんこそ、しっかり休んでください。奥さんに倒れられたら、この店潰れますから。」

「おいおい。俺の立場は?」

店長のだみ声が聞こえ、俺は肩をすくめた。

「鹿内君は辞める予定ないよね?」

「はい。就職が決まるまではここでお世話になるつもりです。」

「彼女さんに悪いわね。デートする時間は確保できているの?」

「いえ。そんな女はいませんので。」

「そうね。鹿内君目当てで来てくれる、若い女性のお客さんも多いから、そういうことにしておいた方がいいわね。」

本当にデートする女なんていないのに、奥さんは俺の言葉をまるっきり信じていないらしい。

それはそれで構わないのだが、女性客にそこを突っ込まれると困ってしまう。

常連客である生命保険会社に勤める三好リリコという三十路の女性は、保険を勧めるという体で、色々と俺の身辺をさぐってくる。

昨日も開店の30分も前に、店のテーブルを陣取り、俺に生命保険のパンフレットを広げて見せた。

「保険は早く入った方がいいわよ?」

「でも俺まだ独身ですし。」

「じゃあ医療保障のある保険は?鹿内君、野球やっているんでしょ?不慮の事故があったときのためにどう?」

「はあ・・・」

俺は健康には自信があるので、その必要性をまったく感じず、適当に受け流した。

「結婚願望とかはないの?」

三好リリコは、上向きにカールされているまつ毛の下の狐のような眼を光らせてそう尋ねた。

「まだ、大学生なので・・・。」

そう言いながらも、頭の中ではつぐみの顔を思い浮かべていた。

もしつぐみの心が手に入ったなら、なるべく早く結婚したかった。

本当ならすぐにでも、戸籍ごと俺のものにしたい。

けれどつぐみにだってやりたいことがあるだろうし、俺も就職して落ち着き、収入が安定しなければ所帯を持つことは難しい。なによりつぐみの父、健太郎さんの許しを得ることは出来ないだろう。

まだつぐみの彼氏になったわけでもないのに、そんな未来予想図を描いている自分が可笑しくなった。

でも・・・その確信はある。

もしつぐみを嫁に迎えることが出来たなら、生命保険に入ることだってやぶさかではない。

俺の命が尽きたその後も、つぐみを守る。

でも今はそのタイミングではないし、この三好リリコの勧める保険に加入するつもりは全くなかった。





「鹿内君。店まで来てもらって申し訳ないけど、今日は急遽店を休むことにしたの。」

俺がいつものように店の裏口から入ると、奥さんが申し訳なさそうな顔をして両手を顔の前に合わせた。

厨房の奥では、淳さんがスマホでなにかを話しながら、真剣な面持ちでいる。

「主人の仲の良い友達のお母様が他界してしまってね。お葬式に参列することになったの。

本当に申し訳ない!」

「いえ。了解です。俺もたまにはゆっくり休みたいですし。」

俺は早々に店をあとにした。

久しぶりに早く家に帰れる。

つぐみとはあの一件以来、顔を合わせていなかった。

それは淋しくもあり、有難いことでもあった。

あんなことをしてしまった後、つぐみとどんな顔で話せばいいかわからない。

もう俺はつぐみに嫌われてしまったかもしれない。

それを確認するのが怖かった。

家に入るといつも出迎えてくれる真理子さんの声がしない。

誰もいないのかと、リビングを覗いてみると、かすかに寝息が聞こえた。

その寝息の元を探してみると、つぐみがソファーの上で、その長いまつげを閉じ、あどけない無垢な顔で深い眠りについていた。

・・・なんて無防備な姿なんだ。

いくら自分の家だからといっても、俺みたいな男が帰ってくるような場所で、襲ってくださいと言わんばかりに身体を投げ出さないで欲しい。

俺はリビングの椅子に掛けられてあったクマ模様のタオルケットを、つぐみのその華奢な身体にそっと被せた。

出来れば今すぐ、その唇を塞ぎたい、その身体を抱きしめたい、そんな欲望に流されないように俺は急いで部屋に戻り、参考書を開き机に向かって、ノートに文字を書きなぐるように並べていった。

夜になり、腹が減ってきたと感じていたら、部屋のドアがノックされた。

ノックの音ですぐにわかった。つぐみだ。

「あの。夕食の用意ができましたけど。」

「今行く。」

俺がドアから顔を出すと、すぐそばにつぐみが立っていた。

「おう。」

俺は気まずさを隠せずにつぐみから視線を外してしまった。

つぐみより先に一階に降りてリビングに行くと、いつもキッチンで気忙しく料理を作っている真理子さんの姿が見えない。

健太郎さんもいない。

俺は後ろを振り向き、2階から降りてきたつぐみに問いかけた。

「あれ?君のパパさんとママさんはどうした?」

俺の言葉に、つぐみは平然としていた様子で答えた。

「パパとママは用事で新潟に出かけてしまって、明日の昼頃帰ってくるそうです。」

ということは、今夜この家はつぐみと俺のふたりきりなのか?

俺は内心の動揺を隠しつつ、食卓に並ぶ料理に目を落とした。

「じゃあ、夕食は。」

「私が作りました。」

「へえ。ちゃんと食えるんだろうな?」

「当たり前です!」

つぐみの料理の腕がたしかなのは、もう随分前から知っていたのだが、わざと茶化してみた。

献立は肉じゃがとカレイの煮つけ、ほうれん草のおひたし、ツナサラダ。

俺の好物ばかりだ。

ふたり声を揃えて「いただきます」を言う。

まるで新婚夫婦のようだ。

つぐみが作ってくれた食事はどれも美味かった。

つぐみは、饒舌によく喋り、俺もそれにあいづちを打ちながらその話題を膨らませた。

久々のつぐみとの会話は楽しいはずなのに、上手く話せているのか自信がなかった。

もうあの公園での出来事は、少なくてもつぐみの中ではなかったことになったみたいだ。

俺は、ホッとしたような、淋しいような、複雑な気持ちになった。

食事が終わり、皿洗いをしようと申し出たが、つぐみが頑なにそれを阻止し、根負けした俺はつぐみの優しさに甘えることにした。

その間、いつものようにベランダで煙草を一本吸った。

・・・こんなところに何気ない幸せがある。

俺が今まで欲しくてたまらなかった家庭の温もりという楽園。

いつか俺もこんな楽園を作り上げることが出来るのだろうか。

しかしその楽園につぐみという天使がいなければ、意味はない。

俺のために食事を作り、楽しい話をして俺の心を慰め、俺の使った食器を洗ってくれるつぐみ。

つぐみの全てを手に入れたい。

そんな思いが新たに沸き起こる。

最後の煙を吐き出して、ベランダから出ると、つぐみはクマのアップリケの付いたエプロンを外しながら俺に微笑みかけた。

俺も信二に言われた柔らかい表情を作ってみせた。

こんな状況でもいつも通り、なんの緊張感もないつぐみに少し腹が立ったので、俺はつい本音を漏らしてしまった。

「・・・それにしても俺は、君のパパとママによっぽど信頼されているんだなあ。」

「なんでですか?」

つぐみは目を丸くして不思議そうに首を傾げた。

「俺だって男なんだよ?なのに大事な娘を、狼がいる家へ置いていくなんてさ。

それとも俺、男として認識されてないのかな?」

つぐみに今夜俺とふたりきりなんだ、という事実を意識させたかった。

それにしても健太郎さんも健太郎さんだ。

あの男は俺がつぐみに手を出せない事をわかっていて、こんなことをするのだ。

それとも信頼されていると喜ぶべきなのか

「・・・何言っているんですか。私のことなんてどうせ女として見ていないくせに。」

つぐみの声は少し拗ねた幼い子供のようだった。

だから俺は言ってやった。

「そんなことない。俺は初めからつぐみの事、女として見ている。」

つぐみは何を言われているのかわからない、というようにぽかんとしていた。

「ま、生物学的には私も女ですものね。」

「ちゃんと異性として意識している。」

「じゃあ鹿内さんは私のことも大嫌いですか?」

「嫌いなら彼女役なんて頼まない。」

「そういうとこですよ。その気もないのに思わせぶりなこと言うの止めてください。」

「どうしてその気もないなんて決めつけるの?」

前に俺が愛されることから逃げていると言ったのはつぐみだ。

それなのに、君は今、俺の言葉から逃げている。

それも無意識的に。

「私は何からも逃げていません。」

つぐみはそうキッパリと言い放った。

そして、そんなことなど気にしないという風に、俺にゆっくり休めと背中を押した。

もうここで俺の気持ちを打ち明けてしまおうか。

そんな激情がこみ上げ、俺は気が付くとつぐみの手首を掴んでいた。

「つぐみ」

つぐみは立ち止まり、振り返った。

駄目だ。

今じゃない。

今ここで気持ちを表しては、ゆくゆく後悔する。

もっとつぐみの心を引き付けてからでなければ・・・。

そして偽装の彼女という役割から、つぐみを解放しなければ、いつまで経っても俺はつぐみの本当の男にはなれない。

「つぐみ。もう俺の彼女役を降りていいよ。」

「え・・・?」

「一旦、関係をリセットしよう。」

「リセット・・・?」

俺は今までの礼を言い、約束の品を渡すと説明した。

俺の言葉につぐみは一瞬驚いたようだが、すぐに俺の提案を受け入れた。

つぐみの顔が泣きそうに歪んでいる。

でもこれ以上偽物の関係に甘んじているのは嫌だった。

つぐみが俺の彼女役になってくれて、だいぶ物理的な距離は近づけたと思う。

でも心の距離をこれからどう近づけていけばいいのか、もう一度自分の中で整理したかった。

ふたりきりの夜、これ以上つぐみのそばにいたら、俺は理性を保てる自信がない。

「夕食ありがとう。美味しかった。・・・おやすみ。」

俺はつぐみに夕飯の礼をいい、その場から逃げるように、部屋に閉じこもった。

悶々とした心を晴らすため、俺はベッドの上に寝転がり、プロ野球の月刊誌を開いた。

しかしどんな選手のインタビュー記事も、俺の頭に入ってこなかった。

しばらくして、ドアの外から聞こえるコツンという小さな音を、耳が拾った。

・・・・つぐみ?

俺は深呼吸をして、ゆっくりと部屋のドアを開けた。

しかしそこには誰もいなかった。