フリードリヒ皇子との婚姻の日に失踪した地方領主の娘サリューの話題は神聖帝国中を駆け抜けた。

結婚から逃亡したのか、或いは誘拐か。
それは帝国領民の恰好の噂話の種になっていた。
ヴァルデュークの館は悲しみに包まれ、中でも領主の妻はまるで無気力の塊の様な有様であった。

そしてサリュー失踪から二ヶ月ほど経った頃、皇子フリードリヒがヴァルデュークの館へ立ち寄った。
「これは殿下、この度はまこと面目次第もございません…」
「そなたに用はない、そなたの妻を出せ」
「はぁ、妻にございますか…」
そこで一室を設け、そこで再び皇子と領主の妻は対面した。
「そなたが娘を匿っている事は解っておる。いずこじゃ、いずこにに匿った」
「何の事か分かりかねます殿下。婚儀の段については誠に申し訳ありません。しかし私どもも娘を失って悲観に暮れております。今日のところはどうかお引き取りを…」
「戯言を…人の分際で神に偽りを申すか」
そう言うと皇子は領主の妻の肩を掴み、その額と自分の額を合わせ、そして大きく息を吸った。
その瞬間。領主の妻は意識を失い床に倒れた。
「ドヴェルグ…あの森か。よもや人の身になってまであの種族と関わるとはな」
そう呟くと皇子は部屋を出てヴァルデュークの館を後にした。

皇子が出て数分後、領主の妻は目を覚ました。
「一体何が…あの瞬間、私がサリューを森まで連れて行った光景が広がった…あれはまさか…」
皇子は読心の魔術により領主の妻の記憶を読み取ったのである。
皇子にその様な術があるとは思いもしなかった領主の妻は慌てふためいた。
広大な森の中とは言え、いずれサリューの居場所は見つけ出されてしまう。
憔悴し切った領主の妻の顔色はますます生気を失い、思い詰めた顔をし、そして地下室へと向かった。
どうにかして娘サリューを邪神の手から遠ざけねば。
その一心で彼女が取って読み漁ったのは自身が密かに所蔵していた古代の魔術書の数々である。
フリードリヒ皇子が邪神の生まれ変わりだと言えど今は人の身、防御する方法が何かあるはず…と三日三晩寝ずに魔術の研究をした。
そして領主の妻は一つの結論に辿り着く。

「サリューの命を一時的に仮死状態にすれば皇子も手が出せまい」
と。

そこで目を付けたのが毒林檎仮死延命術である。
それはその毒林檎を口にすれば一時的には仮死状態に陥るが肉体の状態はそのまま維持され、そして百年後、仮死したときの年齢のまま蘇る、というものだった。
百年も経てば皇子も生きてはいられないだろう…領主の妻はそう思いこの方法を選んだ。しかしその毒林檎を精製する為には大きな代償を伴った。
大量の魔力と術者の寿命を引き換えにしなければならないのである。
だが領主の妻には最早一切の迷いは無かった。
「サリュー、あなただけは誰にも傷つけさせない」
そう言うと地下室の中で部屋いっぱいの魔法陣を描き、その中心に大釜を置き、更にその中に一つの林檎を入れた。
領主の妻は座禅を組み、怪しげな呪文を唱え出すと大釜の中からモクモクと黒い湯気が立ち、そしてそれはいつの間にか部屋全体を覆った。
領主の妻が地下室に篭ってから五日目の事である。
地下室の戸を開けて出てきたのは黒々とした湯気と、見るも無惨に年老いた姿と化した領主の妻であった。
その手には赤々とした林檎を持ち、そしてのそのそと歩きだした。
老婆は館の外まで出ると一頭の馬に乗り、ドヴェルグの森へと向かった…。


「それから先はアンタも知っての通りだよ」
「そんな、そんなのあんまりだ…!」
崖下の洞穴、ドルヴィは思わず叫んだ。
「私がこの森でサリューを見つけたとき、一緒にいたドヴェルグはアンタだね」
「え?姫さまとはいつも一緒にいたけど…」
「森でゴブリンを見かけただろう、アレはアタシの幻術で作ったものさね、白雪に林檎を渡すにはアンタと白雪を引き離す必要があったからね」
「…」
「あのとき、アンタがサリューの事を想ってくれるのは伝わったよ。サリューには可哀想な事をしたけど、アンタが一緒にいてくれてサリューも心強く思えただろうね…でも…」
サリューの母はますます血色を失っていた。
今にも息絶えてしまいそうな程生命力がか細くなっている様にドルヴィーの目には見えていた。
「あの、サリューのお母さん、オラまたサリューに会いにいく。会って皇子様からサリューを取り返して、オラの兄者達を元に戻してくる」
「それは…それは無理だよ、あの男は人の姿をした悪しき神、神話時代の遺物ドヴェルグとて敵いはすまい」
「それでも、それでもサリューにもう一度会いたい。たとえ皇子様に敵わなくてもどうにかしてサリューを不幸から守ってあげたいんだ」
「…そうかい、じゃあアンタはこれからブロッケン山に行くといい」
「ブロッケン山?」
「あぁ、その山の山頂にはかつて私が師事していた魔法使いが住んでいる。その魔法使いなら皇子を倒す方法と、他のドヴェルグ達の石化の呪いを解く方法を知っているかも知れない」
「わかった、オラその山に行くよ」
「…アンタ、もし白雪に会えたら伝えて欲しい事がある」
「何だい?」
「酷い母親でごめんなさい、あなたを守ってあげられなくてごめんなさい、と」
「うん、分かった」
「頼んだ…よ」
その言葉を残すとサリューの母親はひっそりを息を引き取った。

ドルヴィーはその死に際を看取ると、立ち上がって洞穴から抜け出した。
既に夜は明け始め、暗闇の空に一筋の朱色が差していた。
「サリュー、サリューのお母さんの気持ちは絶対に無駄にしない」
そう言うとドルヴィーは森を駆けた。
その目の中には絶望ではなく、強い意志がみなぎっていた。

「ハイホォォー‼︎」
そのとき、夜明けの静かな森に一つの雄叫びが響いた。