「母親が家を出ていったのは、俺の八つ下の弟を産んですぐだった。当時、厚労省の大臣官房長になったばかりの父は多忙を極めていたが、決して家庭を顧みない人ではなかった。それなのに、身勝手に男を作って出ていった母に感じていた嫌悪感はなかなか消えず、女性に対して理想を抱くことも、恋愛に対して興味を持つこともなかった」

自嘲して顔を歪める拓海の頬に手を添えると、大丈夫だと言うように小さく微笑みを向けられた。

「官僚となったからにはいずれ結婚しなくてはならないと思っていたし、その相手は誰でもいいと思っていた。見合い話もうんざりするほどあったしな」

口を挟まず、ただ彼の話を聞いていた。

いつか彼が沙綾の話をそうして聞いてくれたように、少しでも心が楽になるのならと、ひたすら聞き役に徹した。

「だが、タイムリミットが近いと上司に勝手に申し込まれたあのパーティーで、俺は君に出会った。きっかけは同じ大学出身だとうっすら記憶に残っていたことと、君が語学堪能だったということだ。外交官の妻は、世間が思っているほど楽じゃないし、華やかなだけの世界じゃない。あの大学に通えていた君なら適任だと思った」

拓海は自身の頬に添えられていた沙綾の手を包み、その手にそっと口づけた。

「俺の直感も捨てたもんじゃないな」
「拓海さん」
「沙綾が結婚に頷いてくれてよかった。身勝手な申し入れをしたとわかってはいるが、君じゃなければ、きっとこんな風には思わなかった」

単なる偶然で利害の一致した結婚が、徐々に形を変え、沙綾にとって拓海はなくてはならない存在になりつつある。