「俺に叱られたくらいで退職を仄めかすなんて、お前にも案外可愛いところがあったんだな」
「あー、ちょっとチーフぅ。吉川さんを可愛いだなんて、聞き捨てならないんですけどぉ?」
「いや、言葉の綾だろ。ほら、吉川。バカを言っていないで、せっかくの週末だ、たまには定時に上がったらどうだ? 仕事のし過ぎで疲れてるんだろう」
「ふふふっ。吉川さんに週末の予定があるなら、ですけどねぇ」
(私、どうしてこんな職場で半年も我慢してたんだろう……)
頼れる親族がいない現状が、転職に二の足を踏ませていたのは事実だ。
それとは別に、ひなの以外は定時退社できないほど社員みんなが忙しくしている職場で、自分が退職したらこの店舗は回らないのではないかと、気を遣ってなかなか言い出せないでいた。
実際、ヨーロッパチームは五人編成だが、毎月売上の四割は沙綾が占めている。
しかし、そんな気遣いは無用だった。
仕事をしなくても許される社長の姪っ子、彼女を注意すれば一方的にこちらを責める上司、それを黙認し誰もなにも言えない同僚達。
(……もういい。お父さんとお母さんだって、この職場にいるよりは、城之内さんとの契約結婚の方を選べって言ってくれるはず)
沙綾は先週末の拓海のセリフを思い浮かべた。
『居心地の悪い職場に見切りをつけて、俺と結婚すればいい』
今なら、あの提案に迷いなく頷ける。
逃げかもしれない。でも、逃げでもいい。
ここではないどこかへ行けるのなら、契約結婚でもなんでもしてみせる。



