「沙綾」

この上なく至近距離で名前を呼ばれた。

触れ合うだけの口づけは一瞬で、気まずさと照れくささで口を真一文字に引き結んだまま顔を上げられそうにない。

(寝てるとはいえ、湊人もいるのに。私、なんてこと……)

そんな沙綾の内心に気付いたのか、拓海が湊人を両腕で抱き直しながら小さく苦笑した。

「悪い、今日一日ずっと一緒にいられたのが嬉しくて浮かれてるんだ」
「拓海さん……」
「帰ろうか」

拓海の言葉に頷いたきり、駐車場へ向かうふたりの間に会話はない。

しかしその場の空気は嫌なものではなく面映ゆさからくる沈黙で、沙綾は心が浮き立つのを感じた。

(どんな話なんだろう。ううん、楽しみだって期待するのはまだ早い。それで一度ボロボロになるほど泣いたんだから)

期待していないと言えば嘘になるが、三年前の辛かった記憶が舞い上がりそうになる沙綾の感情を牽制する。

すべては来週、話を聞いてから。なによりも、まずは湊人を優先に考える。

沙綾は自分に言い聞かせるように何度も心の中で唱え、心を落ち着けたのだった。