カルロは近頃、多忙を極めていた。
 ただでさえ忙しい生徒会や寮長の仕事のあいまに、ヴァーレン祭で行うオペラの総監督の役目まである。
 さすがに毎日放課後のクラス練習に付き合う時間は取れず、ほとんどは監督に任せていた。しかし、その日久しぶりに参加を決めたのはマリアがミッシェルの代役で練習に参加するということを知ったからだ。

(演技できるのか……?)

 もはやマリアとは八年もの付き合いのため、彼女がオペラにまったく興味がないことは知っている。
 強制的にクラスでオペラを観覧させられた時は、ものの十分でよだれを垂らして寝息をたて、エセルに馬鹿にされていたのだ。

(そんな彼女が……演技……)

 一応は婚約者だし、総監督という立場もあるため、カルロは何かあった時はフォローせねばという義務感に駆られたのだ。
 もちろん、フォローというのは万が一マリアの演技が下手くそすぎてエセル達に馬鹿にされてあげくマリアが怒り狂って物を破壊し、クラスメイトから白い目で見られることを未然に防ぐということだ。
 しかしカルロの心配をよそに、マリアはぎくしゃくしていたものの、初めてとは思えないような演技力を発揮した。まるで、これまでも誰かの演技をしたことがあるかのような自然な振る舞いだった。あの毒舌のエセルが褒めるくらいには。

(いらない心配だったな……)

 そう安堵しながら、更衣室の鍵を手に廊下を歩いていた。
 多目的ホールや更衣室の鍵は、いつも総監督か監督が室内を確認した後に鍵を閉めてから職員室に返しているのだ。
 いつものように更衣室の扉を開けて、ぐるりと室内を見回す。忘れ物があれば職員室の忘れ物コーナーに預けるためだ。
 カルロはロッカーの奥まったところにハンカチが残されているのを見つけ、『またか……』と心の中でため息を落としながら、何気なくそれを手に取る。

(何か入っている……?)

 その硬い感触に好奇心を刺激される。
 わざわざハンカチに包んでいるということは見られたくないものだろうか。

(いや、忘れ物として届けるなら中身を確認しなければ……)

 ほんの少し芽生えた罪悪感から目を背けて、ほとんど義務感からハンカチを開いた。
 そして、そこにあったものに目を奪われる。

(え……? どうして、これがここにあるんだ……?)

 それは、八年前にカルロがマリアにプレゼントしたブローチだった。

(いや、おかしくはない……のか? これはマリアへ贈ったものなのだから)

 彼女が忘れ物をしたのだと考えれば何も不自然なことではない──はずだが……。
 どうしても釈然としないものが残る。
 もし彼女が今まで持っていたなら、なぜ八年前にマリアは『記憶にありませんけど……?』などと言ったのか分からない。
 仮にその後にどこかで無くしたブローチを見つけたのだとしても、どうしてこんな風に学校に持ってくるのか。ハンカチに大事そうに包まれている理由が理解できない。

(彼女は海賊王のことが好きなはずだ。それは間違いない)

 マリアが嫌いな男──興味のない男からもらった物を身に着けたり、校舎に持ち込むような性格とも思えない。

(これは偽物? いや、でも……)

 混乱のあまり、ありえない想像までしてしまう。
 これは同じものは二つもない特注品だと兄から聞いているのに。

(何かが、おかしい……何かが……)

 思えば、休暇が終わってから──いや、パーティの時からか? マリアの様子がおかしかった。
 これまでしつこいほど毎回聞いていた海賊王の話をしない。
 礼節をわきまえた態度を取る。
 やたらオドオドしている。
 泣きそうな表情で偉そうに振る舞う。
 いつもなら喧嘩していたエセル達に腰が低い。
 前より賢くなっている。
 そして、大の苦手だったはずの裁縫もするようになった。
 演技が思ったより上手い。
 そして、ギルアンを筆頭として、男に異様に怯えている……。
 一番違和感をおぼえるのは、ギルアンへの態度だ。
 マリアは勝ち気な女性だから、仮に彼と何か揉め事があったとしても拳で解決するはずなのだ。それがないのはおかしい。

(ギルアンと何があった……?)

 その時、カルロはマリアがギルアンと話していた言葉を思い出す。
 カルロが遅くなったマリアを迎えに行った時、たまたま廊下で二人が会話している話が耳に入ってきたのだ。
 途中からしか聞いていなかったし、聞き取れない部分もあったが、確かギルアンはこう言っていた。

『俺には幼馴染のマリーという女がいてな……じつは彼女が行方不明になっているんだ』

『へ、へえ……それはお気の毒だけど。どうして、私にそんな話を?』

『彼女が、お前にそっくりなんだ』

『あなたがそんなに想像力が豊かとは思わなかったわ』

 マリーが馬鹿にしたように笑い、ギルアンは肩をすくめた。

『違いない。マリアをマリーと混同するなんて、俺もずいぶん疲れているようだ』

 カルロは己の想像に雷に打たれたような衝撃を受けた。
 その時は何のことか分からなかった会話が、ようやく繋がったように感じた。

(いや、まさか……そんなことありえる、のか……?)

 荒唐無稽すぎる。
 それは、幼い頃に出会った『マリー』と『マリア』が別人という説だ。
 あまりに常識外れな推論だったから未だに受け入れがたいが、しかし、そう考えるとすべての辻褄(つじつま)が合う。

「マリアとマリーは別人……なのか?」

 ギルアンには『マリー』という幼馴染がいて、彼女がいま失踪中。『マリア』にそっくりな彼女は、何らかの事情で『マリア』の振りをしている。

(だから『マリー』はギルアンに正体を知られてしまうことを恐れているのか?)

 カルロは頭を振った。

「いや、何度考えても非常識すぎる。ありえないだろう、そんなこと……」

『私達は悲しい運命によって引き裂かれ、離れ離れになってしまったのね……でも、これからはずっとそばにいるわ、リオン。だって私達は双子の兄妹なんだから……』

 そうマリアが演じたライラの言葉が脳裏によみがえった。

(双子……? ありえるのか、そんなこと……?)

 しばらくの間、放心していた。
 そして更衣室にいることに気付き、気持ちの入らないまま鍵をかけた。ブローチが包まれたハンカチを握りしめながら。
 もはや職員室の忘れ物コーナーに渡す気にはなれない。

(……僕の初恋の『マリー』が『マリア』とは別人で、もしも『マリア』の振りをしているんだとしたら……僕は……)

「カ、ルロ……様……」

 その時、マリーが目の前に立っていることにようやく気付いた。
 弾かれたように顔を上げて、カルロは慌てて取りつくろう。

「あ、あぁ……。マリア、どうしました?」

「あの……更衣室って、もう確認されましたか?」

 どこか怯えた様子で確認してくる彼女に、カルロは少し迷ってから「ええ」と答えた。

「誰かがハンカチを忘れていたようです。……これはマリアの忘れ物ですか?」

 そう言って彼女にハンカチを差し出したのは、かまをかけるためだった。
 もしも、マリアだったらブローチを持ってきた理由は分からないにしても『ああ、忘れちゃってたのよね。ま、お礼くらいは言ってあげるわ。ありがと』と、そっけなく言って終わりだろう。
 しかし今の彼女は、まるで重大な秘密を知られてしまったかのように、顔をゆがませていた。
 彼女の瞳が潤みだしたのを見て、カルロは『泣かせたくない』と強い焦りをおぼえた。だから急いで彼女にハンカチを返した。
 足早に立ち去って行く彼女の後ろ姿を見つめながら、カルロは不思議な確信を抱いていた。

(こんなところにいたのか……マリー……)

 心の底から喜びが込み上げてくる。
 感情があふれてきて、目の端がにじんだ。

(いや、まだだ。きちんと裏付けを取らなければ……)

 カルロは校舎の柱の影に隠れている人物に向かって、声をかける。

「ユージーン」

「はい、カルロ殿下」

 ユージーンはすばやくカルロの元まで寄ってくる。彼は表向きクラスメイトだが、実際にはカルロの【影】と呼ばれる隠密集団の一人だ。

「ちょっと調べ物をしてください。……ここ数か月、シュトレイン伯爵家で何か変化があったか。そして、ギルアン・テーレンの過去の交友関係。それに、帝都の【ショコラール】という喫茶店の近くにかつて住んでいた『マリー』という名の少女について」

 カルロがそう命じると、ユージーンは深く「承知しました」と頭を垂れた。



 ユージーンに経緯を説明しながらカルロが職員室に鍵を返しに行くと、室内は薄暗く、ひと気がなかった。

「不用心ですね……誰もいないのかな?」

 ユージーンが眉をひそめて言う。
 カルロは肩をすくめて、鍵を所定の場所に返して出ようとした時──奥まった場所にある来客用のための半個室──カーテンをかけて部屋のように区切ってある場所からに気配を感じ、衣擦れの音が聞こえた。

「誰かいるんですか?」

 そうカルロが呼びかけると、間もなく中から生徒がひとり現れた。
 それはギルアンだった。首に巻いていたクラヴァットが乱れて、胸元が露出している。
 彼には服装を崩していることを注意したことがあるので、普段だったらそれほど気にならないことだったが──。

「ギルアン、そこで何をしていたんですか?」

「いや、誰もいなかったから昼寝をね」

「昼寝? 誰もいない職員室に勝手に入ってはいけないでしょう」

「鍵をかけてない方が悪いだろ? それにカルロ殿下だって無断で入っているじゃないか」

「僕は鍵を返さなきゃいけなかったので」

 らちが明かないと思ったカルロは嘆息だけで済ませた。

「もう良いです。さっさと出ましょう、ギルアン」

「へいへい」

 そう面倒くさそうに職員室を出ていくギルアン。
 ユージーンは興味津々な様子でギルアンが出てきた半個室の方をじっと見つめている。
 おそらく、そこに誰かがいるのだろう。カルロもそれは気付いていたが、面倒ごとを起こしたくないという気持ちもあり、深入りするのは避けた。

「行きましょう、ユージーン」

 そう声をかけると、ユージーンはうなずきカルロについて出ていく。
 おそらく、個室にいたのは教師だ。生徒同士なら別の場所を選ぶだろうから。

(わざわざ誰もいない職員室で生徒と逢引きをしていた辺り、向こう見ずな性格なのか、命知らずな火遊び好きなのか……)

 その調子でいたら、いつか痛い目に合うだろうな、とカルロは思った。





 一週間後、カルロの元に信じられないような報告がもたらされた。
 シュトレイン伯爵家の使用人から密告されたのは、マリアが家出をしてそっくりの赤の他人の『マリー』が『マリア』に成り代わっているという話だった。
 そして帝都にいた『マリー』という少女は、平民でギルアンの幼馴染だという。
 彼女は育ての親である娼館の女主人に多額の借金をしていたが、それをカタにギルアンの専属娼婦にさせられそうになっていた。
 しかしシュトレイン伯爵家に資金援助を受けることを条件に、『マリア』の振りをすることになったのだと。
 社交界で話題の【織姫】はマリーだった、ということにも驚く。
 マリーが初めてカルロに会った時にローザのことを『親戚』と不自然な態度で言っていたのは、娼婦の母親が娘を仕事相手の前に連れてくるのは仕事の足を引っ張ってしまうと気をまわしたのかもしれない。
 これまでのことを思い返し、『マリー』が『マリア』の振りをしているのだという確信が強くなっていく。

「信じられない……」

 人が誰かと成り代わることもそうだが、マリーがこれほど過酷な状況に置かれていたことがカルロには衝撃的だった。そしてギルアン達のせいで男性恐怖症になってしまったことも。

(八年前に出会ったマリーは明るくて、誰かに怯えるなんてことはなかったのに……奴のせいで、肩身の狭い思いをしてきたのか……)

 そう思うと、胸がぎゅうと引き絞られるような痛みをおぼえた。
 だから、マリーはギルアンにあんなに臆するような態度を取っていたのだ。

(このままにしてはおけない……)

 いずれ学校からギルアンを追放してやる、とカルロは心に決めた。
 できれば再起不能にまで陥らせたい。ならば、先日の職員室の出来事を調べるのが一番だろう。

(マリーがマリアの振りをしていたのは本当に驚いたが……好都合かもしれない)

 たとえマリーが平民でも構わなかったが、彼女の素性を明らかにしてしまうと貴族の中には彼女が平民であることや、娼婦の母を持っていることを口うるさく騒ぎ立てる者も出るだろう。
 マリーが春を売っていなくても、娼館育ちのマリーには謂れのない中傷も浴びせられるはずだ。彼女をそんな目に合わせたくない。

(マリー……今度は僕がきみを助けるから)

 そう心に誓った。
 カルロが今すべきことは、マリーを目の前の脅威であるギルアンから守ることだ。