スカーレットは書斎で煙管(きせる)を吸っていた。彼女は東国から取り寄せた刻みタバコを吸うための細長いパイプを好んでいたが、マリーは漂ってくるこのにおいが苦手だった。
 ベティが前のめりになって抗議する。

「いったいどういうことですか!? マリーをギルアンなんかに売るなんて! 彼女がどれだけこの娼館に貢献してきたかご存じのはずです。率先して下働きの子達がするような仕事もしてくれていましたし、スカーレット様の仕立屋だってマリーの作った衣装で大繁盛していたじゃないですかっ」

 ものすごい剣幕でまくしたてるベティが不愉快だったのか、スカーレットは片眉をあげて、ふぅと白い煙を口から吐く。

「相手は四大貿易商のひとつ、テーレン商会長の息子のギルアン・テーレン様だよ。テーレン商会に睨まれちゃあ、うちも商売がやりにくい。それに商会長もギルアン様も、うちのお得意様だからねぇ。あれだけお金を積まれて頭を下げられちゃあ、私だって嫌とは言えないよ。マリーの借金を支払っても余裕でおつりがくるからねぇ」

 スカーレットがけだるげに話した言葉に、マリーの胸が(ふた)がる。
 ギルアンは男尊女卑の思想家で、言うこと聞かない女は殴ってでも分からせろ、という思考の持ち主だ。
 マリーも幼い頃から何度も殴られているが、揉め事になるたびにギルアンの父親がスカーレットにお金を握らせ、黙らさせられるのだ。そんな相手に身をゆだねるなんてできるはずがない。

「私には、できません……」

 か細い声で、マリーはつぶやくように言う。
 娼婦という仕事を下に見ている訳ではない。母親はやりたくもない水商売までしてマリーを育ててくれた。
 たとえ人から蔑まれるような職業であっても、マリーは母親を尊敬していた。しかし身体を売る商売は病気にもなりやすく、若くして亡くなる者が多い。母親はマリーにはそういう仕事をさせたくないと生前ずっと漏らしていた。男性恐怖症で異性と肌を重ねることへの抵抗感以上に、母親の気持ちを裏切りたくなかった。

「できる、できないじゃない。やるんだ。これは命令だよ! それが不満なら今すぐ借金を耳を揃えて返すんだね! できないならガタガタ言うんじゃないよ!」

 そう取り付く島もなくスカーレットは言い、マリー達は書斎から追い出されてしまった。
 廊下でベティに「何もできなくて、ごめんね」と申し訳なさそうに謝られてしまう。マリーは力なく首を振った。

「ううん。ありがとう、ベティ。……あと三日でお別れになってしまうのは寂しいけど、それまでよろしくね」

 誰も頼れる者がいないこの娼館で、母親の親友だったベティだけがマリーに優しくしてくれた。きっと彼女がいなければ、ここまで耐えられなかっただろう。
 マリーが無理やり作った笑顔を、ベティは悲壮感あふれる表情で見つめていた。





 マリーは下町を当てもなく歩きながら、物思いにふける。
 今は石鹸などの生活必需品の買い出しのためと言い訳して娼館を出てきていた。実際は娼館の中が息苦しくて、外の空気を吸いたかっただけだ。

「……そろそろ帰らなきゃ」

 マリーはぽつりとつぶやいた。
 遅くなれば、ベティ達を心配させてしまう。

(……もし、このまま帰らなかったらどうなるかな)

 逃げたい。明後日にはギルアンの元に身をよせなければいけなくなるのだ。
 逃げ出したことがバレたら折檻されるだろう。
 それでもギルアンなんかに好きにされたくない。大好きな仕事を奪われるのも嫌だ。
 脳裏で『逃げよう』とささやく声に背を押されて、娼館とは反対方向に震える足を踏み出しかけたが──今受けている依頼のことを思い出して足を止める。
 マリーが受けている仕事は【織姫】に制作してほしいという指名を受けたものだ。他の人が同じ図柄を織ってもお客が望む物は作れない。ここで逃げたらお客を落胆させてしまうだろう。

「でも……受注している仕事が終わるまで待っていてほしいと頼んだって、ギルアンが受け入れてくれるはずがないわ」

 彼の性格をマリーはよく分かっていた。

(私はいったいどうしたら……)

 そうつぶやいて途方にくれていた時──。

「きゃああぁっ!」

 突如、後ろから女性の悲鳴と何かが落ちるような音が聞こえた。

「あっぶねえだろ! 気をつけろ!」

 振り返ると、マリーのすぐ横をおんぼろ馬車が砂ぼこりを立てながら走り去って行った。
 おそらく先ほど怒鳴ったのは、その馬車の馭者だろう。馬車がようやく一両通れるくらいの道の端に若い母親と一歳くらいの娘がうずくまっている。
 マリーが慌てて駆け寄った時には、幼児は顔を真っ赤にして大泣きしていた。膝は少し擦りむいてしまったのか、血がにじんでいる。

(もしかしたら、遊んでいた時に馬車の前に出てしまって、驚いて転んでしまったのかもしれないわ……)

 若い母親は「ほら、大丈夫よ。泣き止んで」と言って娘を抱っこしてなだめようとしていたが、幼児は泣くばかりだった。

「……大丈夫ですか!?」

 マリーはそう問いかけながら、肩掛け鞄に入れておいたハンカチを取り出して、さりげなく幼児の膝に這わせた。それはマリーが織ったハンカチに、刺繍で【癒しの力】を宿す魔法陣を縫い付けてある。

(──精霊さん、この子の怪我を治してあげて)

 マリーがそう願いを込めて魔法陣に触れると、空中に金粉のようなきらめきが踊った。これは【織姫】である彼女にしか見えない精霊達が放つ光だ。人の姿をしている彼らが踊ると、擦りむいていた箇所は綺麗に治っていた。

「あら……? 怪我をしていたかと思ったけれど、気のせいだったかしら……?」

 そう不思議そうに首を傾げている母親に、マリーは微笑む。

「土で汚れていたから、血のように見えたのかもしれませんね」

「ああ……確かに、そうかもしれませんわね。まあ! ハンカチが汚れてしまいましたわ。申し訳ありません……っ!」

 恐縮して頭を下げる母親に、マリーは首を振って微苦笑した。

「いいえ、お気になさらず。洗えば落ちると思いますし。ハンカチはたくさん持っていますので」

 そう言ってハンカチを鞄にしまおうとしたのだが、その際に魔法陣を見られてしまったらしい。女性が驚いたような声を上げる。

「あ! それって、【魔法のハンカチ】じゃありません?」

「え? ええ……まぁ?」

 マリーが言葉をにごすと、女性は「わぁ!」と嬉しそうな声を上げた。

「それって【織姫】の作品ですよね!? 私も欲しいとは思っているのですが高価だし、人気すぎて手が出なくて……」

「そ、そんな大層なものではないですよ……」

 それらを作っているのはマリーだ。
 褒められることに慣れていないので、顔が一気に熱くなり、しどろもどろになってしまう。
 マリーの特殊能力とは魔法が使えることだ。
 祈りながら布や刺繍を編む際に模様として魔法陣を形成すると、それに不思議な力が宿る。魔法陣は幾何学模様や花植物を模して織られており、普通の人には魔法陣とは分からない。
 マリーはなぜ自分にそんなことができるのか分からなかいが、今は亡き母親は、『マリーは精霊の愛し子だから、彼らが力を貸してくれるのよ』と話していた。
『私は魔力がなくて精霊に好かれなかったけど、マリーならこの力を有効活用できるわ』
 そう笑った母の姿を、マリーは懐かしく思い出す。
 もともとは娼婦のお姉さん達へのプレゼントで作ったハンカチに魔方陣を織り込んだのが始まりだったが、スカーレットに見つかってから仕事として任されるようになったのだ。
 魔法とは言っても、せいぜい風邪を引きにくくするとか、好きな相手に偶然出会えるといった軽い効果だったが、話題が話題を呼び、マリーはいつの間にか【織姫】と呼ばれて仕事が舞い込んでくるようになっていた。
 その過剰な賛辞にマリーはまるで自分への言葉でないように感じて、落ち着かない気分になってしまう。

(効力は人によるし……ほとんど、おまじないみたいなものだけど)

 魔法陣によって精霊の通り道ができるのだが、どのくらい精霊達が協力してくれるかは分からない。その持ち主が精霊に好まれるかどうかにもよるため、とても効果がある時もあれば、何も影響がないことだってある。
 それでもマリーが作ったものは【魔法のドレス】や【魔法のハンカチ】と呼ばれ、その本来の魔法の効力以上に騒がれてしまっていた。そのことにマリーは時折、居心地が悪くなる。

「そんなことないですわ。皇都の貴族の女性達の間で、ものすごく流行っているらしいのですよ。庶民でしたら、それを持っているだけで時の人になれるくらいですもの。私の友人も皆に自慢していましたのよ」

「そ、そうなんですか……」

「でもスカーレット・モファットは誰に聞かれても、【織姫】の名前を教えてくれないらしいんですよ。誰なのか分かれば、こっそり依頼できますのにねぇ」

 女性は世間話をしているだけだ。
 しかしマリーがモゾモゾと身を動かしていると、女性は何かを察したのか「長話をしてすみません。ありがとうございました」と気遣うように頭を下げて去って行った。

(あぁ……話しかけてくれたのに、申し訳ないわ……)

 マリーは初対面の相手と気兼ねなく接することができるほど器用なタイプではなかった。女性なら男性よりは話せるという程度なのだ。例外は昔からの知り合いだけ。
 内向的な自分の性格に少し落ち込んでいた時、一両の馬車が近付いてくるのが見えた。

(貴族の馬車……?)

 こんな細い裏通りの道に金の馬車がやってくるのは珍しい。
 マリーは馬車を通らせるために道端に寄る。馬車が目の前を通っていく際に、車窓の中にいた女性と偶然にも目が合った。
 直後、馬車が急ブレーキをかけられる。
 馬が背中を反らして、いななきながら足を止めた。
 そして馬車の扉が勢いよく開き、タラップを落とす隙もなく中から十八歳くらいの女性が飛び出てきた。背中まであるストレートの黒髪は後ろでひとつに結えられており、その青い瞳は快活そうな色をおびていた。マリーが驚いたのは、彼女がまるで男性貴族のようなトラウザーズを穿いていたことだ。

(え? 女性……よね?)

 マリーは彼女を何度も確認してしまう。
 どう見てもその美しい顔は女性のものだったが──。
 彼女はとても貴族の子女とは思えないような駆け足で、マリーに近付いてきた。強く腕をつかまれてしまう。

「え……?」

 その無遠慮憂さにマリーはひどく混乱しながら、自分を睨みつけている背の高い女性を見上げた。

「マリア! お前、こんなところで何をやっているんだ!!」

 突然、怒鳴られる。

「え……? あ、あの……?」

 マリーは目を白黒させる。

(え? 知り合い? でも私にはお貴族様の知り合いなんているはずが……)

 大混乱しながら記憶の中を探ってみても、このような男装の麗人の知人はいない。
 女性は大仰にため息を吐きながら言う。

「あんな置き手紙だけ残して家出するなんて、どうかしているだろう! お前は一応、伯爵家の娘なんだぞ! 危険な目にあったらどうするつもりだったんだ!?」

「あ、あの……おそらく人違いで……」

 あまりにマリーの声がか細かったせいか、女性には聞こえない。

「まあ、お前は昔から海賊王の花嫁になりたいとか馬鹿なことばかり言っていたが。……漁港をいくら探してもお前の手がかりが見つからないと思っていたら、こんなところで油を売っていたんだな。どうせ、またあのオッサンにつれなく振られて、気まずくて家に帰れなくなったんだろう。まったく! さっさと邸に帰るぞ!」

 一気にまくしたてられ、マリーは会話に口を挟めるチャンスがなかった。
 女性にそのまま馬車の中に連れ込まれそうになって、さすがに慌てて、その場に踏みとどまる。

「ちょっと、待ってください……ッ」

 そして、やっと彼女の手から解放された。

「どうした、マリア? 言っておくが、しばらく自宅謹慎してもらうぞ。お父様もお母様もお怒りなんだからな。後で、しっかり謝っておけ」

「いえ、あの、そうじゃなくて……私、その……マリアさんって方ではないんです!」

「へ?」

 マリーと女性はじっと見つめあった。
 奇妙な沈黙を引き裂いたのは、馬車から降りてきた執事服の青年だった。理知的な風貌をしており、とび色の髪を後ろに撫でつけてある。黒ぶち眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら言う。

「エマお嬢様、この方はマリア様ではないのではないですか?」

「はぁ? ロジャー、お前こんなそっくりな人間が他にいるっていうのか? っていうか、私のことをお嬢様って言うのやめろって何度も言っているだろう! 私は次期シュトレイン伯爵になるんだから、エマ様と呼べ!」

「エマお嬢様が伯爵位にふさわしい立ち振る舞いを身に着けてくださったら、態度を改めますよ」

 ロジャーと呼ばれた青年はそう言いながらも、彼の主人と大して年は変わらないように見えた。エマとは、よほど気心知れた仲なのだろう。

「お嬢さん、わが主君エマ・シュトレインが大変失礼なことを致しました。どうかお許しください」

 ロジャーにそう丁寧に腰を折られて、マリーは恐縮して首を振った。

「あっ……いっ、いえ! お気になさらないでください」

「お嬢さんは、とてもお優しい方ですね。……もし良かったら、お名前をお伺いしても?」

「私は……マリーと言います。苗字はありません」

 彼女のその言葉に、エマが噛みつくように話に割り込んできた。

「ほらみろ、マリアだ! マリーだなんて、名前まで似てるぞ! きっと名前が思いつかなかったから、苦しまぎれに名前をひねり出したんだろう」

 ロジャーが半眼になってエマを見据える。

「マリーもマリアも、よくある名前ですよ。一部かぶったからといって、同一人物と考える方が横暴でしょう」

「はぁ? お前、何を言って……どう見てもマリアだっていうのに……」

「もっと、心の目で相手をご覧ください」

 そうロジャーに言われたためか、エマはじっとマリーを見つめてくる。
 近しい位置から二人に凝視され、マリーは顔面に熱が集まるのを感じた。しかもロジャーは男性だ。それを意識すると恐怖で足が震え始めてしまう。
 しかも、この騒動を遠巻きに見ている者達もいるのだ。さすがに距離があるから声までは届いていないだろうが、人々の視線が集中しているのを感じる。

「ふむ……確かに妙だな。おてんばな我が妹なら、私を殴ってでもすでに逃走をはかっているところだ。それにアイツはこんなにしおらしい態度を取れるほど、おしとやかじゃない」

 エマは本物のマリアだったら激憤するようなことを言って何度もうなずき、納得してしまった。

「じゃあ、マリアは未だに行方知れずってことか……弱ったな。もしこの事態が皇家にバレたら、大変なことになるっていうのに」

「エマお嬢様、彼女の前でしゃべりすぎですよ」

 ロジャーは鋭く叱咤する。しかし彼はその怜悧な瞳でマリーをじっと見つめた後、何やらエマに耳打ちする。続いて、エマの「それは名案だ」と言う声が聞こえた。

「あの……?」

 戸惑っているマリーに、エマは笑顔で言った。

「なぁ、マリーとやら。私の妹、マリア・シュトレインの身代わりになってくれないか?」

「はい?」