喫茶店のメイドに事情を話し、代金だけ先払いして「また戻ってくる。もし叔父達が先に戻ってきたら待っていてくれ」と伝えてもらうよう頼んだ。
 マリーと向かった広場には焼きリンゴや、ソーセージ、芋団子が焼かれる匂いが漂っている。食欲をそそる香りにつられて、カルロは露店を見回した。

「お腹減ったから何か食べない? お金は持っている?」

 そうマリーに問われて、カルロはうなずく。
 ポケットには普段、宮殿では使わない硬貨が入っていた。
 どうしてそんなものを皇太子の彼が持っているかというと、一年前から城下のお祭りに来る日を楽しみに、従者達の目を隠れてクローゼットの奥深くに少しずつ蓄えていたからだ。
 マリーはシナモンのかかった焼きリンゴ、カルロは木の棒に刺さったソーセージをむしゃぶりつく。
 裂けた皮から肉汁があふれでて、しかも端はこげている。

(こんなものを宮殿で出したら料理長は首になるに違いない……)

 しかし、思い切ってかじってみると、それは今まで食べたことがないごちそうに感じた。

「あはは、カルロ。口の端にソースついてるわよ」

 そう笑って、マリーはハンカチを渡してくれる。

「う、うん……ありがとう」

 カルロは少し恥ずかしさをおぼえながら、マリーから受け取ったハンカチで口元をぬぐう。
 宮廷作法でナイフやフォークの使い方を厳しく教えられているカルロにとって、口の端にソースをたくさんつけても気にしなくて良いのは気楽だった。
 広場の片隅ではオペラが始まろうとしている。マリーが主演の少女の声に気を取られているのに気付き、カルロは彼女の手を握って「見に行こうか」と照れながら誘った。マリーは破顔して「うん!」と、うなずく。
 立ち見客が少なかったため、最前列に二人は立った。
 ちょうど舞台の端で吟遊詩人が歌いはじめるところだ。

「かつて、この大陸にラグラスという古代魔術国家が存在したが、一夜にして滅びてしまった……これはその国で起こった悲しい恋の物語である」

「あっ……『精霊のお姫様』だ」

 隣で、マリーがちいさく言った。
 オペラの『精霊のお姫様』は幼子でも知っている。
 失われた王国をモチーフにした歌劇はたくさん作られているが、その中でも一、二を争う人気の話だ。
 本当なのか嘘なのか分からないが、古代魔術国家ラグラスの王族は精霊に愛されており、彼らの力を借りて(いにしえ)の魔法を使うことができるのだと言い伝えがある。

 『精霊のお姫様』のお話はこうだ。
 かつてこの大陸にはあった魔術国家では、双子は不吉とされていた。
 双子の王女として生まれたリオンとライラ。妹のライラは双子の悪習から召使に預けられ、市井で育てられた。
 姉のリオンは本来なら王女として育つはずだったが、王妃がなかなか男児に恵まれなかったため、国王の命令で性別を偽り王子として育てられた。
 そして年頃になると、リオンは隣国の王子に恋をする。しかし男の振りをしている身では想いを告白することはできない。
 皮肉なことに、隣国の王子は城下を散策していた時に、ただの町娘だったライラを見初めてしまう。
 そしてリオンとライラがそっくりなことから二人が双子だということが発覚し、ライラは突然町娘から王女として祭り上げられることになる。そして国民の祝福を受けて、隣国の王子との結婚まで決まってしまった。
 内心穏やかではなかったのはリオンだ。王子として育ったため女らしい振る舞いもできず、恋心を王子に打ち明けることができない。
 そしてとうとう、リオンは嫉妬のあまりライラを殺し、彼女に成り代わることにしたのだ。しかし王子に正体が知られてしまい、ライラ暗殺まで発覚してしまう。
 リオンは愛する王子や両親、廷臣達から咎められて、追い詰められた彼女は【滅びの魔法】を使ってしまう。
 そして国が崩壊していく中で、リオンは空の玉座で自害するのだった。

 オペラが終わると、観衆達は惜しみない拍手を送った。カルロもそれに倣って軽く手を叩いていたのだが、隣にいたマリーの表情は浮かない。

「どうしたの?」

 そう問いかけると、マリーは複雑そうに笑みを浮かべる。

「わたし、この話はあまり好きじゃないの。面白いから、ついやってる時は見ちゃうけど」

「……どうして嫌いなの?」

「だって、自分勝手すぎると思わない? 自分の恋のせいで、周りを巻き込んで国を滅ぼしてしまうなんて……私がリオンだったらライラが出てきたら身を引くと思うわ」

 そう唇を尖らせて言うマリーを見て、カルロはそれまで深く考えてこなかったこの物語について考えを巡らせた。

(僕がリオンだったら、どうにかして想いを遂げようとするかもな……)

 もちろん、そのために誰かを殺すなんて物騒なことをするかは分からない。けれど、どうにか両想いになるために最善を尽くそうとするだろう。
 そう思い、チラリと横を見るとマリーと目が合う。不思議そうに微笑まれて、カルロはとっさに熱くなった顔を逸らした。

「もうかなり時間が経っちゃったね。二人が戻ってくる前に喫茶店に戻らないと心配されてしまうわ」

 そう残念そうにマリーから言われて、カルロは冷や水をあびせられたような気持ちになる。

(そっか、もう終わりなんだ……)

 カルロの惜しむ気持ちが伝わったのか、マリーは少し考えるそぶりを見せた後、彼の手を握ってくる。

「ねぇ、バンバス川で精霊舟をやるみたい。せっかくだから行ってみましょうよ」

 バンバス川はこの近くにある帝都を流れる一番大きな川だ。
 広場のそばにある橋の上には多くの人が集まっており、手にはランプを持っていた。
 ランプといっても平たい皿に少しの油やロウソクを入れて、火を灯したものが大半だ。
 船頭達が市民からそれを受け取り、自身の小舟に積んでいく。そんな小舟が十艘以上もバンバス川の岸に浮かんでいた。

「精霊舟……」

 いつも精霊降臨祭の夜に、宮殿の窓から眺めていた光景を思い出した。
 大きな川を流れていく何百もの明かりが綺麗で、いつも川の果てで光が消えてしまうまで見つめていた。
 もともとは古代魔術国家が滅びた時に生き残った民が死者を悼んで始めたものだと言われているが、今では生者が願い事をたくす儀式となっている。
 マリーは小銭を払って油売りから精霊舟をふたつ買った。

「はい。これ、カルロのね」

「あっ、お金……!」

「良いの。わたし、お母さんからお小遣いいっぱいもらってるから。今日、いっぱい遊んでくれたから。そのお礼ね」

「お礼だなんて……」

 だったら、むしろカルロが払うべきだろうと思った。楽しかったのはカルロの方だからだ。
 マリーは手の中の明かりを見おろしながら言う。

「カルロは何を願うの?」

「僕は……」

 急に宮廷での自分の立場を思い出し、口をつぐむ。渋い顔をした後、ぼそりと言った。

「兄さんのようになりたい……」

 カルロの発言にマリーは目を丸くしている。

「お兄さんに? どうして、お兄さんのようになる必要があるの?」

「だっ、だって、だって……そうしないと皆が困るんだ……兄さんのように完璧にならなきゃ……」

 カルロのつぶやきに、マリーは目を瞬かせて困惑気味に首を傾げた。

「別に完璧になんてならなくても良いじゃない。カルロは今でも十分魅力的だもの」

 恥ずかしげもなくそう言われて、頬がカッと熱をおびる。

「み、魅力的って……」

「それより、もっと大事な願い事があるんじゃない?」

(大事な……願い事……?)

 そう思った刹那、カルロの脳裏に兄から言われた言葉がよみがえった。

『来年の精霊降臨祭は、お忍びで一緒に市内に出かけましょう』

(ああ、そうか……)

 その時、やっとカルロは理解した。
 重責と日々の忙しさで、目を背け続けていた心の奥底の感情。
 震える指を握りしめる。
 これまでずっと目を背けてきたせいか、耐えてきたものがあふれて止まらなかった。
 兄が亡くなって三週間もの間、一度も涙を流したことなんてなかったというのに。

「カ、カルロ!? どうしたの!?」

 心配そうに声をかけてくるマリーに、カルロは拳で頬をぬぐいながら言う。

「無理なんだ……本当は兄さんと来年もまた来ると……そう願って精霊舟を流すつもりだったけど……もう兄さんは、亡くなってしまったから」

 カルロの言葉にマリーは息を飲んだ。しばし押し黙り、そして一呼吸おいてから優しい笑顔で言った。

「そう。なら、来年も私と一緒にここへ来られるよう願おう」

「え……?」

「あ……私じゃ、お兄さんの代わりにはなれないかもしれないけど……」

 慌ててそう言いつくろうマリーに、カルロは思いきり首を横に振る。彼女の気持ちが嬉しかった。

(……そうだ、兄さんの魂が天国に行けるよう願おう。そして、マリーと来年ここへ来るんだ)

「ありがとう、マリー。僕もまた、きみと会いたい」

 そうカルロが照れたように言うと、マリーの頬がロウソクの明かりのように一気に朱に染まった。

「マリー?」

「あ……な、なんでもないの! さぁ、精霊舟を流しましょう」

 マリーは少しぎくしゃくとしながら、船頭に精霊舟を渡していた。カルロもそれに倣う。
 人々の願いを乗せた小舟が岸から離れていくのを眺めながら、カルロはようやく自身でも気付いていなかった喪失感と劣等感を受け入れることができた。
 自然と手を取り合い、喫茶店【ショコラール】に足早に戻る。幸い、まだ二人は戻ってきてはいなかった。安堵してカルロとマリーは笑いあう。

「服乾いた?」

 マリーがそう言うのでローブの下を確かめると、トラウザーズはすっかり乾いてしまっていた。

(それほど時間は経っていないはずなのに……)

「きみは魔法が使えるのか?」

 そう驚きながらカルロは言う。
 マリーはえへへと照れたように笑った。
 もちろんカルロも頭の冷静な部分では、魔法なんてものは存在していないと分かっている。
 ラグラスの王族が使うような魔法は、ただの言い伝えにすぎないだろうと。
 けれど、今だけは彼女の魔法を信じたいような気持ちになった。
 ローブを脱いで返す時に、首につけていた黄色いタキシナイトがついたブローチを彼女に手渡す。

「え? これは……?」

 困惑しているマリーにブローチを握らせた。

「きみへの贈り物だよ。タキシナイトという石がついている」

「え……そんな。こんな高そうな物、もらっても良いの……?」

 そのブローチは数年前に兄からプレゼントされたものだ。『意中の相手ができたら渡してあげてください』と、からかうように言われた。

(あの時は誰かに渡す時がくるなんて思っていなかったけれど……)

 亡き兄から贈られたものだと言えば、負担を感じて受け取らないかもしれない。だから、それは言わなかったけれど。

「ああ。きみにあげたいんだ」

「……ありがとう。大事にするね。……私も何かお返ししたいな。カルロ、次はいつ会える?」

「えっと……それは、分からないんだ」

 身分を隠しているし、立場上、簡単には城下へ出かけることはできない。
 悩んでいるカルロに、マリーは言った。

「じゃあ、またこの店で会いましょう。私もまた来るから。会えなかったら何か伝言を残すね」

 喫茶店などには伝言板が置かれており、会えなかった相手とのやり取りなどに使われているのだ。

「……そうだな。僕も叔父と一緒に……あるいは、一人でこっそり来るよ」

 そう約束しあった。



 カルロはそれから皇太子として忙しい日々を送った。
 しかし見張りの目が厳しく、宮殿を抜け出すことができない。
 仕方なく叔父にまた【ショコラール】に連れて行ってほしいと頼んでみたが、どうやら国王からカルロを放っておいたことがなぜか知られてしまったらしく、かなり叱責を受けたようだった。そのせいか、カルロの願いに叔父は色よい返事をしなかった。

(ああ、どうやって城下に行けば……)

 宮殿を抜け出したことを知られてから警備が厳しくなっている。賄賂を渡して側近に便宜を図ってもらおうとしても、身近にいるのは頑固頭の者ばかりだった。日々の忙しさもあって、なかなか自由な時間も作れない。
 そしてヤキモキしながらも数か月が経った頃、珍しく叔父が意気消沈している日があった。

「どうしたんです、アーネスト叔父さん」

「いや、じつは……ローザが亡くなったんだ」

「ローザ? ローザって、叔父さんの恋人の?」

 アーネストはうなずく。ソファーで頭を抱えてうつむいている姿は、普段の陽気さは微塵も感じられない。

(叔父さんには珍しく……彼女に本気だった、ということか?)

 火遊びばかりしている叔父がこんなに落ち込む姿を初めて見たカルロは、少なからず驚いてしまった。

(きっとマリーも傷ついているだろうな……親戚が亡くなってしまったんだから)

 いつも叔父に会うたびに【ショコラール】に行きたいとねだっていたカルロだったが、叔父の恋人の死を知った日から、そのことを話題にすることができなくなった。
 さすがに傷ついた叔父の心に塩を塗るような真似はできなかったのだ。

(会いに行きたいのだが……)

 いつまでもあの喫茶店に行く機会に恵まれず苛々していた時、カルロはマリーと運命的な再会する。
 とある貴族のパーティの招待客に彼女はいたのだ。
 彼女はシュトレイン伯爵家の娘だった。本名はマリア・シュトレイン。カルロには愛称のマリーを教えていたのだろう。

(彼女は平民じゃなかったんだな)

 カルロはそれに驚きつつも、喜んだ。
 たとえマリーが平民でも求婚するつもりだったが、貴族なら周囲から『身分不相応だ』などと陰口を叩かれることもないだろう。由緒正しいシュトレイン伯爵家の娘なら、文句をつける者もいるはずがない。
 しかし半年で彼女はすっかり変わってしまっていた。
 カルロと会った日のことを忘れ、プレゼントしたブローチも『記憶にありませんけど……?』と、しらばっくれられる。追及すれば『そんなにプレゼントしたと言い張るなら、どこかで私が無くしてしまったのかもしれませんわね。ごめんなさい』と、そっけなく言われカルロはブローチは捨てられてしまったのだろうと察した。
 なぜそんなひどい行いをするのだろうと不思議だったが、すぐに理由が分かった。
 彼女は恋をしてしまったのだ、海賊王レンディス・バークナイトに。

(……運命だと思ったのに)

 けれど、そう思ったのはカルロだけで、一方的な片思いだった。マリアはカルロのことをおぼえてさえいなかったのだから。
 悔しくなかったと言えば嘘になる。それでも彼女に振り向いてもらおうと努力したが、『私のことをマリーと呼ばないでください。それほど殿下と親しくはないので』と、つれない態度で言われ、カルロの努力が実ることはなかった。無礼な態度を繰り返すマリアに幻滅し、見る目のなかった自分自身に呆れた。

(あの日の彼女は、悪戯好きの精霊が見せた幻だったのかもしれない……)

 そう、なんとか自身を納得させようとしていた。そうでなければ、彼女がこれほど様変わりしている理由が理解できなかったから。

(……けれど、最近は彼女の様子が何かおかしい)

 マリアらしくない言動をするせいか、目が離せなくなっている。
 これまでのような嫌味や皮肉で武装をすることができない。それどころか、親切な行動までしてしまう始末。

(──マリアは、あくまでマリアだ。何も変わっていない)

 そのはずなのに、カルロは心が揺れるのを感じていた。