「気を張りすぎではございませんか、カルロ殿下? 少しお休みになられた方がよろしいかと……」

 そう声をかけてきたのは、従者だった。グラウローゲン帝国の宮殿──皇太子の執務室で、八歳になったばかりのカルロは書類に向けていた顔を上げた。
 顔なじみの従者の顔には心配そうな色がある。
 この頃、カルロは日々の帝王教育や剣術馬術にくわえて、政務の一端を担うようになったため多忙を極めていた。

「……僕には休んでいる時間はないんです」

 カルロはそうこぼして羽ペンを動かす。
 兄のグレンが亡くなったのは三週間ほど前のことだ。
 カルロより九歳年上のグレンは、十七歳にして帝国の若獅子と呼ばれるような将来有望な皇太子だった。けれど亡くなってしまった。風邪であっけなく。
 それでカルロはグレンの代役として立太子され、重責を負わされることになったのだ。

(本当に兄さんは余計なことばかり僕に押し付けてくる……)

「カルロ様がグレン様に追いつこうと頑張っていらっしゃるのは承知しておりますが、このままでは体を壊してしまいます……」

 従者の一言にカルロは苛立ちをおぼえた。
 頑張っているというのが事実だったからだ。それは現状では兄ほどの能力がないと言われていることに等しい。

「……もう良いです。さがってください」

「しかし……」

「これは命令です」

 いつもより強めに言えば、従者は息を飲んで頭を下げて静かに出て行った。
 本当は怒鳴りつけてやりたいくらいだった。でも、兄ならそんなことはしない。
 カルロはぐしゃりと金髪を掻きむしる。
 誰もが自分に期待をしていた。──それがうっとうしくて、重荷で仕方ない。自分に優秀な兄と同じことができるはずがないのに。

「本当に腹立たしい……です、ね……」

 うっかり素が出そうになって、慌てて口調を改める。こんな砕けたしゃべり方を兄はしない。
 誰に対しても丁寧で物腰が柔らかかった兄。それでいて知性に恵まれ、武芸にも秀でていた完璧な皇子。
 その代役になるのだから、兄のようにならなくてはいけない。

(そう両親も周囲も期待している……)

 深くため息を落とした時、政務室がノックされた。
 叔父のアーネストが「よっ!」と片手を上げて現れる。アーネストは今年二十八になる、若々しく洒落た美丈夫だ。

「カルロ、お前ずいぶんと根を詰めているみたいじゃないか」

 そう言って近付いてきたアーネストはカルロの肩を抱いて、なぜか頬をもう一方の拳でぐりぐりと押し付けてくる。昔から距離感がない叔父が苦手だった。
 アーネストの手を振り払って、身だしなみを整えながら言う。

「何の用ですか、アーネスト叔父さん」

「知っているか、カルロ。今日が何の日か?」

「何の日かって……そりゃあ……」

 ふいに、カルロの脳内で兄グレンの声が響いた。『来年の精霊降臨祭は、お忍びで一緒に市内に出かけましょう』
 昨年の兄の言葉を思い出して口をつぐむ。首元につけたタキシナイトのブローチに触れた。
 一拍置いてからカルロは言う。

「……聖霊降臨祭でしょう?」

「そう。だから、こっそり城下に出かけようぜ」

 グラウローゲン帝国の聖霊降臨祭は前夜祭、後夜祭あわせて三日間行われる。この間は国民の祝日となり、各地でパーティが行われていた。
 例年、宮殿でもパーティは開いていたのだが、三週間前に皇太子のグレンが亡くなってしまったことから祭祀は中止となった。しかし庶民の楽しみを奪うことは心苦しいと、皇帝は街での三日間の祭りは禁止しなかったのだ。

「……今は喪に服したいので」

 そうカルロは固辞したが、アーネストは譲らない。

「良い息抜きになるぞ。お忍びだが、ちゃんと皇帝からも許可は取ってある」

 大方、最近のカルロの様子を心配した皇帝夫妻がアーネストに頼んだのだろう。断ってしまえば、それはそれで面倒になる。

(……仕方ないな)

「分かりました」

 カルロは渋々、そううなずいた。





 たくさんの人々が行きかう、夕暮れ時の帝都。
 カルロは叔父のアーネストに連れられて、供も連れず庶民の格好をして城下町にやってきていた。
 聖霊降臨祭の時だけは、帝国内では仮装が許されている。カルロも今は目元だけ仮面舞踏会用の銀色のマスクを身につけていた。
 大通りを歩く人の中にはおかしな鳥の仮面をつけている人や、バケツをかぶってブリキの人形になりきっている子供、亜麻で全身を覆って山男のような格好をした人など様々だ。
 式典以外では宮殿から出たことがなかったカルロにとって、下町の光景は非常に興味深いものだった。

「ほら、ちんたら歩いていたら迷子になるぞ」

 そう振り返りながらアーネストは言う。アーネストの目元にもクジャクの羽のついた派手なマスクが飾られていた。

「お前を迷子にしてしまったら、俺が陛下からどやされるからな。絶対に今日だけは良い子にしておいてくれよ」

「アーネスト叔父さん、どこへ行くんですか?」

「良いところだ。お前もそろそろ大人の遊びを知るべきだろう。陛下には、ふさぎこんでいるお前に気分転換させてやってくれって頼まれただけだがな」

 アーネストはニヤついている。
 叔父は若い時から浮名を流し続けていたので、カルロは内心『まさか、夜のお店に連れて行かれるのでは……』と警戒した。
 しかしカルロの予想に反して、アーネストが向かったのは大通りにある喫茶店だった。

「【ショコラール】……? 大人の遊びって、ここのことですか?」

 肩透かしを食らってそう言ったが、叔父は「良いから良いから」とカルロの背を押してソファーに座らせる。

(ここって、確かシュトレイン伯爵家が開いたチョコレート専門店だったよな……)

 チョコレートはスパイスを加えた苦い飲み物というのが一般常識だったが、このお店はそれまでの常識をくつがえし、ミルクや砂糖を加えることで誰にも好まれる味にした。瞬く間に人気が出て、予約がなければ入れない人気店に変貌したのだ。
 カルロはアーネストと同じく、一番人気のオレンジピールとシナモンが入った飲み物を選ぶ。
 メイドが置いていったカップを口に含むと、濃厚なカカオの香りが鼻を通り抜ける。オレンジのさわやかな酸味とシナモンの味わいが口内に広がり、ホッと息を吐いた。張りつめていた緊張が解れるようだった。

「……美味しいです」

「だろう?」

 アーネストは悪戯っぽい笑みを浮かべて、ホットチョコレートをすすっている。
 カルロはわずかにフッと笑みをこぼした。
 自分と同じように普段は護衛に周囲を固められているアーネストだが、こうしてお忍びで庶民に混じる生活を何度もしていたのだろう。それを大人の遊びと言うなら納得できるな、と思ったのだ。
 しかし、それから間もなく一人の女性がやってきて、背後からアーネストにしなだれかかった。

「こんにちは、愛しいアーネスト……ごめんなさいね。待たせてしまったかしら?」

 そうアーネストに向かって言ったのは、黒い羽の仮面と胸元が開いたカラスのようなドレスをまとっている女性だった。仮面ごしにも妖艶な美女と分かる。

「いいや、いま来たばかりだよ。ハニー」

 そう言って、アーネストは彼女と口付けした。
 まさか目の前で叔父と見知らぬ女性の濃厚なキスが行われると思っていなかったので、目のやり場に困ってカルロは視線を窓の外に向ける。

「あら、この子がアーネストの言っていた男の子ね?」

「そうだよ、ローザ。──カルロ、彼女が俺の恋人のローザだ」

 そうアーネストに紹介されて、ローザはカルロに笑みを浮かべた。

「どうぞ、よろしくお願いするわね。……今日は可愛いぼうやのために、遊び相手を連れてきたの。マリー、ご挨拶なさい」

 そう言って、ローザは自分の背後に隠れていた少女を手招いた。
 年の頃はカルロと同じくらいだろう。結い上げた黒髪に、青い瞳が印象的な少女だ。お化けの扮装なのか、真っ黒なローブをまとった彼女が緊張した様子で、「……マリーです」と小さく言って頭を下げる。

「……カルロです」

 そう自己紹介しながらも、これはいったい何なんだろうとカルロは困惑していた。叔父に視線を向けると、なんと彼は立ち上がりローザの肩を抱いて店から出て行こうとしていたところだった。

「ちょ……っ、ちょっと! 叔父さん、どこへ行くんです!?」

「あ~、悪りぃ悪りぃ。お前はここでマリーちゃんと、ゆっくり話でもしててくれ。俺達は大人の話し合いがあるから。しばらく戻らないから遠くには行くなよ」

「大人の話し合いって……そんな……」

 カルロは唖然とした。

(前々から、ちゃらんぽらんな叔父だと思ってはいたけど、まさかここまでとは……)

 カルロは八歳ながらに、己の置かれた状況は理解していた。
 皇帝から直々にカルロの面倒を見るように任されたはずの叔父は、その役目を放り捨てて恋人と遊びに出かけてしまったのである。カルロは大人のこずるさを知った。

(後で父上に言いつけてやろうかな……)

 立ち尽くしているカルロに向かって、少女が戸惑いがちに声をかけてきた。

「……ごめんなさい。私じゃあ、お話し相手にはならないかもしれないけど……」

「あ……いや、そんなことはありませんが……」

 カルロは変に気を遣って、そう答えた。この状況でそれ以外に言える言葉はない。
 そのまま立っていても仕方ないので、カルロはソファーに座り込む。ずっと仮面をつけたままなのも疲れるので外して机に置いた。
 向かいの席におそるおそるといった風に少女が腰掛ける。

(ハァ……どうせ待たなきゃいけないなら店の外の露店とかに行ってみたいけど……土地勘もないから迷子になってしまうだろうな。叔父さんが早く帰ってきてくれることを祈るしかないか……)

 窓の外ではガス灯が馬車道を照らしている。仮装した子供達がランタンを掲げて、くるくると家族の周りを駆け回っていた。
 気まずい空気が漂っていたので、カルロは少女に水を向けた。

「さっきの女性はきみの知り合いですか?」

「えっ、えっと……そう。親戚なの」

 なぜか不自然な間があった。
 少女の目は不自然に斜め上を見ており、カルロとは視線を合わせようとしない。

(もしかして嘘か……?)

 しかし何のためなのかは分からなかったが……。

(まあ、良いか。どうせ、今だけの関係だ。深入りする必要はない)

 カルロはそう思い、カップに口をつけようとした──その瞬間、手がすべってしまい、ほとんど残っていたカップの中身がトラウザーズにこぼしてしまった。
 信じられないような失態に頭の中が真っ白になる。

「あっ、大丈夫!? 火傷してない?」

 そう心配そうに覗き込んでくる少女にも返事ができなかった。

(ああ……最悪だ……)

 まだ水だったら良かったのかもしれない。いや水でも嫌だが、時間が経てば乾いて元通りになるだろう。しかしホットチョコレートは見た目が最悪だ。場所が股間なこともあって、完全に漏らしたようになってしまっている。

(どうしよう……)

 叔父が帰ってきた時に起きたことを伝えてトラウザーズを買ってきてもらうか。
 しかし、そんなことをすれば叔父に『漏らしたのか』と、からかわれてしまうだろう。それは繊細な年頃の少年にとって耐えがたい屈辱だった。
 洗ったとしても綺麗に落ちるかわからないし、仮に濡れたまま宮殿に帰れば、どんな噂が立てられるか分からない。
 カルロの足をすくおうとする者はたくさんいるのだ。
 今だってカルロの弟や、いとこを皇太子に推している貴族はいる。誰だって自分の言いなりになる相手を皇帝に据えたいのだ。

(もし『カルロ様は八歳にもなってお漏らしを……』なんて噂が立ってしまったら、どうしよう……』)

「もう完璧な兄にはなれない……」

 呆然として、そうつぶやいた。
 あまりの情けなさに目が潤んできてしまう。

「だ、大丈夫だよっ! 洗えば綺麗になるから! こっちにきて」

 マリーは慌てた様子でそう言うと、自分がまとっていたガウンを脱いでカルロに頭からかぶせた。そうするとトラウザーズの汚れも隠れた。
 彼女はカルロの手を引っ張って、手洗い場へ向かう。そして何を思ったか、そのまま女性用トイレにカルロを連れ込もうとした。

「ちょっ……! ここは女性用じゃないか!」

(変態になりたくない……!)

 まだ八歳とはいえ、カルロにも性差は分かるし、羞恥心はあった。マリーは力強い笑顔で言う。

「今は仕方ないの! 大丈夫、あなたは女の子みたいな顔をしているから、しゃべらなければ男の子だって分からないわ」

「フォローになってない!」

 そう言いつつ、マリーにトイレの個室に押し込まれた。カルロは誰かに見られるのではないかと気が気ではなくて周囲を警戒してしまう。
 だが幸い、その時は人目はなかった。

「なっ、何をする気なんだ?」

「カルロ、ズボンを脱いで」

「え?」

「私が洗うわ。ちょうど手洗い場に石鹸もあるから」

 そう言って、マリーは手洗い場のほうを指差す。
 確かに高級店らしく石鹸まで用意されていた。庶民の店ではないのが普通なのだが、さすが貴族も足を運ぶ店なだけある。

「しかし洗っても汚れは取れないだろう……」

「良いの? 洗わなくて」

 マリーにきょとんとして問われて、ぐっと言葉に詰まった。そう──茶色に汚れているよりは水に濡れた状態のほうがマシなのだ。

(でも、知り合って間もない少女にズボンを脱いで渡すのか……)

 それもかなり恥ずかしい。
 内心葛藤して、やけくそになってトラウザーズを脱いで少女に渡す。ローブに隠れて下履きは見えないはずだ。
 マリーはそれを受け取ると、手慣れた動作で洗い始めた。何度かこすったり揉み洗いをして流すと、茶色く染まっていたトラウザーズはみるみるうちに綺麗になる。

「良かったぁ。これなら落ちると思ったんだよね」

「え……すごいな」

 洗い物は普段は使用人任せなカルロも、チョコレートのような汚れは落ちにくいことは知っている。だから少女の手際の良さに感心してしまった。
 マリーは鼻の下をこすりながら、エヘンと胸を張る。

「えへへ。いつも洗い物してるからね。コツがあるんだよ。はい、どうぞ」

「あ、あぁ……ありがとう」

 カルロはトラウザーズを受け取った。
 よく絞ってくれたので、しずくは垂れていない。

(しかし、この後はどうすれば……)

 カルロは途方にくれた。汚れは落ちたとはいえ、すぐには乾かないだろう。

「じつはね、そのローブにはおまじないがしてあるの。もともとは防寒のために暖かくなるようにしたんだけど……きっと身につけていたら洗濯物も乾きやすいと思うわ。ズボンを履いて、その上にまとってみて」

 マリーはそう訳が分からないことを言った。

(魔法……? ああ、精霊の祭りだからそんなことを言っているのか?)

 聖霊降臨祭の間は、精霊が人の姿をして街に降りてくるのだという。マリーは役になりきっているのだろう。
 カルロはそう納得して、握ったトラウザーズを見つめる。

(まあ、履いていたほうが人肌の温度で早く乾くかもしれないし……ローブは貸してくれるみたいだから彼女の言うとおりにするか)

 そう思い、カルロは個室で濡れたトラウザーズを履き、その上からローブをまとった。
 不思議と温かい風がローブの中に吹いている気がする。
 ぐっしょりと濡れたトラウザーズは気持ち悪いかもしれないと不安だったが、思っていたより穿きにくくも不快でもなかった。

「良かった。精霊さん達も、カルロのこと好きみたい」

 マリーは虚空を眺めながら微笑んでいる。
 不思議に思っていると、彼女はカルロの手を取って、内緒話をするように耳打ちした。

「ねえ、おじさん達もまだしばらく帰ってこないだろうから、こっそり抜け出して遊ばない?」

「え? ここを抜け出すの?」

「うん、大丈夫。私はこの街に詳しいから迷わないよ。せっかくのお祭りなんだから遊ばなきゃ」

 そう笑みを浮かべるマリーに、カルロはドキリとする。

(そうだ。どうせ叔父さんだって悪いことをしているんだから、僕だけが良い子にしている必要なんてない)

 そう思い、カルロは笑みを浮かべた。

「その話、乗った」

 ここしばらく忘れていた、年相応の笑顔で。