ミッシェルのドレスのデザインをした翌日。
 お昼休憩中にマリーは誰もいない校舎裏にぽつんとひとつだけ置かれたベンチに座って、波音を聞きながらレースを編んでいた。
 レースと言っても、三十センチほどの通常の編み針二本を使う訳ではなく、五センチほどの短い針一本と糸だけを使うニードルポイントレースだ。
 刺繍の中ではこの難易度が高く繊細な技法で編むレース作りがマリーは得意だった。
 膝の上には紙に書いたデザインがある。それを見ながら指を動かしていくと、どんどんレースが手の中に完成されていく。
 時折思い出したように、ところどころ不格好な縫い目をわざと作る。そうすると、そばを飛んでいた精霊達がその個所を指差して、頬をふくらませて何やら文句を言ったり、『ここ間違えてるよ?』というような不思議そうな顔をした。言葉は分からなくても言いたいことはある程度分かるものだ。

「ごめんね……本当は魔法陣を作ってあげたいのだけれど」

 聖霊の通り道である魔法陣を作れば、彼らは飛び跳ねて喜ぶのだ。
 魔方陣は機織り機で布の模様として織り込んでも、刺繍レースとして形作るのでも良い。
 しかし、今回はそれができない。そんなことをしたら【織姫】だと、エセルあたりにはバレてしまうだろうから。
 マリーがミッシェルのためにデザインしたドレスは、限られた材料と時間の中では最良のものだ。
 できる限りのことはした。そう断言できる。──しかし、マリーは実力を存分に発揮できない現状に、モヤモヤした感情を抱いていた。

「ミッシェルのドレスに刺繍レースをつけられたら、もっと綺麗だろうなぁ……」

 生地だって、もっと複雑な織り方をしたいのに簡単なものしか作れない。それが、マリーには歯がゆくて仕方がなかった。
 膝の上に乗せた紙は二枚ある。重ねてあった後ろの紙をめくれば、新たに描いたドレスのデザインがあった。
 一枚目にシルエットは似ているが、細部はより細かく複雑になっており、マリーが本気を出さなければ完成しないような代物だ。きっとミッシェルにより似合うだろうし、気に入ってもらえるだろうという確信もある。

「ミッシェルにはきっと、こっちの方が似合うのに……」

 飾らない野の花のような美しさと力強さを持つミッシェル。けれど、じつは歌が上手くて、オペラの主演にぴったりの人物だ。可憐なオキザリスの花をイメージして、その周囲に舞台に立つ彼女のために【勇気】と【願いが叶う】魔法陣を編み込んだ新デザイン。
 ──このドレスが作れたら、どんなに素晴らしい舞台となるだろうか。

(でも仕方ないわ……私は身代わりで、何より優先すべきことはマリア様の振りなんだから……)

 マリアが作れないようなドレスを作る訳にはいかない。だから、時折編み方を失敗してみせたりしているのだ。

(でも、手抜きをするなんて職人としてどうなのかしら……)

 常にお客のために全力を尽くしてきたマリーにとって、わざと手を抜く作業はストレスで仕方がなかった。
 今はお昼の休憩中だ。旧校舎に戻って機織り機を動かすこともできたが、移動なども考えると、あまり時間は取れない。
 それなら……と、マリーは人けのない校舎裏で、こっそりとミッシェルのドレスに付けるレース作りをすることにしたのだ。鞄に裁縫道具を入れて持ち歩けば証拠も残らない。
 ミッシェルは休憩時間も演技の練習で忙しくしている。衣装作りを協力できていないことを平謝りされたが、マリーは別に構わなかった。

(ミッシェルには演技に集中してほしいもの。人には向き不向きがあるわ。私は舞台の上で演じるなんてできないし……)

 しばらく作業に没頭していた時に、ふと視線を感じて顔を上げる。
 校舎の壁にもたれるようにして、いつの間にかギルアンがマリーをじっと見つめていたのだ。
 マリーは息が止まってしまう。
 ギルアンは硬直しているマリーのそばまでやってくる。舐め回すように彼女を見て、ぽつりとこぼした。

「……暴れ馬かと思っていたが、お前にこんなにおしとやかな一面があったとは思わなかった」

 そう顔を赤らめて言うギルアンに、マリーは目が点になった。

(は……?)

「あいつに似ているのは顔だけだと思い込んでいたが、誤解だったようだ。そういうふうに刺繍をしている姿は女らしくて、すごく良い……と思う」

 ギルアンが少しずつ距離を詰めてきて、内心悲鳴を上げた。幼い頃からいたぶられた経験がフラッシュバックして、血の気が失せていく。

(ま、また殴られるの?)

 恐怖で手足が震え始めたマリーに、ギルアンが手を伸ばしてくる。身をすくませた瞬間、背後から誰かの声がかかった。

「何をしているんですか?」

 そこに立っていたのは、カルロだった。
 ギルアンは慌てた様子でマリーから遠ざかり、「い、いや……マリアの顔色が悪かったから声をかけただけですよ」と弁解している。
 カルロがマリーを見やり、「そうなんですか?」と尋ねた。
 マリーは迷ったものの、ここで揉め事を起こすのは得策ではないと考えて、不承不承うなずいた。

「カルロ殿下はいったい何のご用でしょうか?」

 そう聞くギルアンに、カルロは肩をすくめた。

「マリアに話があったので探していたんです。マリア、ちょっと寮長室まで良いですか?」

「あっ……はっ、はい!」

 マリーは荷物をまとめて急いで立ち上がり、カルロの後を追った。
 しばらく二人で廊下を歩く。痛いほどの沈黙に押しつぶされそうになっていた時、カルロがためらいがちに尋ねてきた。

「……ギルアンと何かあったんですか?」

「え……?」

「彼の名前を見た時や……先ほども彼と一緒にいた時も様子がおかしかったので。もしかしてギルアンに何かされたんですか?」

「それは……」

 マリーはうつむいてしまう。
 答えられない。だって、それは『マリア』の経験ではないのだから。

(……マリア様とギルアンはどんな関係だったのかしら……事前情報で知らされていなかったから、きっとただのクラスメイトだったんだと思うけれど……)

 それにしては先ほどのギルアンの態度はいったい何なのか……。
 まさかとは思うが、性奴隷にしようとしていたマリーのことを探しているのではないか、と嫌な想像をしてしまった。だが、すぐに首を振る。

(いや……そんなはずないわよね。ギルアンが私にそんなに執着するとは思えないもの。ただ娼館にいた頃は、怯える私の姿が面白くていたぶっていただけだわ。目の前からいなくなれば、『マリー』のことなんて、すぐ忘れるはず……)

 けれど心細さを感じて、自身を抱きしめるように片腕をまわした。

「別に……何もないですよ」

 マリーがそうこぼすと、カルロが突如足を止めた。
 いつの間にか、寮長室の前にたどりついていた。カルロがじっとマリーを探るように見つめている。
 温度のない声で彼は言った。

「……ここを使ってはどうですか?」

「え……?」

「ミッシェルの衣装作りを手伝っているのでしょう? それで、女子寮に戻る時間を惜しんで裏庭で作業していた……そんなところじゃないですか?」

 まったくその通りだ。

「そ、そう……ですが」

「ここなら教室からも近いですし。鍵を持っているのは僕ときみ、そして寮監のプリシラ先生だけです。先生は基本的に立ち寄ることはありませんし、僕も放課後に使うだけなので、自由に使ってください」

「え……? い、良いんですか?」

「寮長にはそのくらいの特権があっても良いでしょう」

「あっありがとうございます! ……昨日も、私とミッシェルが困っている時に助けてくださって……その、嬉しかったです」

 マリーが顔をほころばせると、無表情だったカルロの目が見開かれる。
 助けてもらったらお礼をしたい。マリアがカルロにする態度としてふさわしくなかったとしても、やはりしないではいられなかった。

「……いえ、別にきみじゃなくても助けていましたので、お気になさらず。それにしても……ようやく、きみも社会常識を身に着けてくださったのかと安堵しましたよ。最近、僕に礼儀正しくなったのは、いったいどういう心境の変化ですか?」

 カルロは他の人々にもするような人当たりの良い笑みを顔に貼り付けている。放った言葉はかなり皮肉混じりだが、これがいつものマリアへの態度なのだろう。
 胸が一瞬ちくりと痛んだが、それには気付かない振りをして笑みを浮かべた。

「……私も伯爵家の娘ですから。いくら婚約破棄をして欲しさからしていたことでも、今までのカルロ殿下への態度は決して褒められるものではないと休み中に反省しましたの。これまでの無礼を、どうかお許しください」

 急に品行方正になった言い訳をした。そして己の役目も忘れていない。マリーは深々と頭を下げながら続ける。

「ですが、私の気持ちは変わりません。私の心は海賊王レンディスのものです。私はカルロ様を愛することはできません……。ですから、どうか婚約解消を真剣にお考えくださいませ」

 嘘を吐いて愛する相手と婚約破棄しようとしていることにバツの悪さをおぼえて、カルロの目を見ることができなかった。
 長い沈黙の後に、カルロは深くため息を落とす。

「……最近おとなしかったのは、そういうことですか?」

「え……?」

 困惑した次の瞬間、マリーは軽く押されて壁に背中がぶつかる。
 カルロの手が顎と首に這わされた。強くはないが、逃さないと言いたげにマリーの肌の上に覆われていた。

「え、」

「それで僕の気が変わるとでも?」

 優しい笑みを浮かべているのに、声は氷のように冷たい。美しい顔を彩るのは怒りの色だ。
 廊下の窓から差し込む陽光がカルロの金髪を照らし、間近に迫ったその紫色の瞳に怯えた少女の顔が映る。
 マリーは生来の男性恐怖症と、親切だったカルロが別人のように豹変したことに恐れを抱いた。無意識のうちに膝が小刻みに震え始めてしまう。

「あ……ごめんなさい……っ、その、放してください……」

 耐えきれなくなり涙声でそう訴えると、カルロが瞠目して身を引いた。

「……どうしたんです? マリア、やっぱりどこかおかしいんじゃないですか?」

「おかしくはないです! おかしいのは、カルロ様の方じゃないですかっ!?」

 マリーは混乱して、そう叫んだ。
 カルロはマリアのことに一切の興味がないと聞いていたのに、この二重人格のような態度はどういうことなのか。執着を隠せていない。

「確かに……先ほどの僕はなんだか……おかしかった、ですね。すみません……冷静さを欠いていました」

 しばし妙な沈黙が落ちた。
 カルロは自分でも戸惑っているのか、口元を手で覆って視線を泳がせている。今は完全にいつもの彼に戻っているように見えた。

「ど……どうして、カルロ様は破婚をしようとなさらないのですか? マリアさ……私は、カルロ様に嫌われるようなことばかりしてきたのに」

 マリーはそう言って、スカートをきつく握りしめる。
 カルロがさっさと婚約解消をしてくれていれば、こんな苦労をすることもなかったのだ。

(でも、もしそうだったら……私はきっとこうしてマリア様の身代わりになることもなく、ギルアンの専属娼婦になっていたでしょうね。愛するカルロ様に再会できることもなく)

 そう思うと皮肉だった。彼を騙しているこの状況がやはり申し訳なくて、つい目を逸らしてしまう。

(お役目をまっとうしなくちゃ……)

 身代わりとなり、彼との婚約を解消するのがマリーの責務だ。それをエマも望んでいる。マリアの願いでもあるだろう。
 この関係を続けたって誰も幸せになれない。マリアはいずれ戻ってくるはずなのだから。

(でも……もしマリア様との婚約関係がなくなってしまったら、どうなるのかしら……?)

 カルロは皇太子だ。当然、世継ぎとしてどこかの貴族の令嬢を娶らねばならないだろう。
 そして、それはここにいる平民のマリーでは絶対にない。
 皇太子として盤石の地位を築きたいカルロにとって、“(マリー)”という選択はありえないと彼女は冷静に理解していた。

(だったら……エセルさんが選ばれるのかしら?)

 マリーは唇を噛む。
 好かれないマリアと結婚するよりは、ひたむきに好意を伝えてくるエセルと婚姻した方が、よほど彼も幸せになれそうだ。
 ──そう分かっていながら。
 婚約破棄を望んでいながら、本心ではカルロに誰とも交際して欲しくないと思ってしまっている。その矛盾に胸が潰れそうになる。

「……知りたいですか? 僕が、どうして頑なにきみと婚約したままにしているのか。どんなに嫌味や嫌がらせをされても婚約破棄しない理由」

 カルロの感情の読めない表情にひるんで、マリーは後ずさりした。しかし、カルロが一歩近づいてくる。
 すぐに背中が壁にぶつかった。
 どこかで女生徒らしき黄色い悲鳴が聞こえる。視線を転じると、廊下の奥で生徒達数名が赤い顔でこちらを見つめていた。

「あ……っ」

 思わず声が漏れた。
 皆の視線を集めていることに気付いて、マリーの顔面が一気に熱をおびる。しかし、すぐに視界をさえぎるように彼の腕が邪魔をした。

「……よく余所見をする余裕がありますね」

「カ、カルロ様……あの、ここは良くないですっ。皆に見られていますし……せめて場所を変えて……いや、やっぱり後日にっ!」

 目立つことが苦手な上に、異性への恐怖心とカルロの訳が分からない態度で思考は大混乱している。

(できれば出直したい……っ!)

 カルロは唇の前で人差し指を立てると、こちらを見ていた生徒達に向かって言った。

「皆さん、これは内密に。ただの婚約者との戯れですので」

 そして手首をつかまれ、寮長室に連れ込まれてしまった。
 マリーは呆然としてしまう。

(み、皆の好奇の視線がなくなったのは良かったけど……)

 しかしこの状況はまったく安心できるものではない。
 密室にカルロと二人っきりの上に、手首をつかまれているのだ。恐怖心が足元から湧き上がってくる。

「ごめんなさい。あの……手を……」

 もう限界だった。背筋に冷たい汗をびっしりかいている。
 カルロは手を放して重いため息を漏らし、自嘲気味に笑う。

「先ほどの答えです。別れてあげた方が良いことは分かっていても、どうしても手放せなかったんです。……本当に愚かしいですね。幼い頃の思い出に引きずられて、ひどい仕打ちをされ続けても、初恋の未練を捨てきれないなんて……」

「初恋の未練……?」

 マリーは放心して、つぶやいた。カルロは顔をゆがめて笑う。

「八年前……再会したきみは僕のことを一切おぼえていなくて、別の男に夢中でした。……僕は手ひどい失恋をしたという訳です。……でも、きみを素直に海賊王にくれてやれるほど僕はできた人間ではなかったので。だから婚約解消はしてあげなかったんです」

(そんなにマリア様のことを愛しているのね……)

 カルロの想いの強さにマリーは打ちのめされる。

「で……でも、それは歪んでいると思います。愛する相手の幸せを願ってこそ、愛だと……」

 そう言いながらも、先ほど自分はカルロの幸せを純粋に祈ることができなかった。それを思い出して恥じる。

(こんなの、私が言える台詞じゃないわ……)

 けれど一度口から吐いた言葉は戻ってこない。
 カルロは眉根をよせて、皮肉げに笑う。

「歪んでいる……? 確かに、そうですね。でも仕方ないと思いませんか? 自分にとって特別な思い出でも、相手にとっては記憶の隅にも残らないような価値のない──ゴミくずのようなものだと知ったら病んでしまうでしょう。その上、大切にしていたものを初恋の相手にプレゼントしたのに『そんなものは知らない』と言われて、簡単に捨てられてしまったのだと知ったら?」

(プレゼント……? マリア様はカルロ様に何か渡されたのに、なくしてしまったのかしら……?)

 マリーのおどおどした態度を見て、カルロは不快そうに眉根をよせる。

「今さら、そんな申し訳なさそうな顔をしないでくださいよ。もう、きみには何の期待もしていません。長年レンディス、レンディスと言われ続けて、百年の愛も冷めましたので」

(それなのに婚約破棄しようとしないのは……マリア様への未練ということ……なのね)

 彼は自分が矛盾したことを話していることに気付いていないのだろう。
 マリーは胸が苦しくなる。

「ごめんなさい……」

 本来なら、部外者の自分が別れ話をするだなんて、失礼にもほどがある。居たたまれなさをおぼえて、マリーは身を縮めた。

「何について謝っているんですか? プレゼントをなくしたこと? 約束を違えたこと?それとも他の男を好きになってしまったことですか? どちらにせよ、今になって謝られても困りますよ。それにマリア、きみは僕に謝罪するような人間ではないじゃないですか。本ッ当……、……この前から調子が狂う」

 カルロは髪を掻き回してから、

「……先に戻ります。寮長室は好きに使ってください。僕も放課後以外は来ませんから」

 そう言い残して、カルロは去って行った。