スカーレットは苛立ちをこらえ切れず、娼館の受付の机を殴りつけた。その拍子に灰皿に置いていた煙管(きせる)が倒れて灰が落ちる。

(どうしてこんなにうまくいかないの!?)

 理解できなかった。
 これまで順調だった仕立屋のお客が、急に波が引いたようにいなくなったのだ。
 本当は【織姫】がいなくなったことは伏せて、腕の良い職人に作らせた衣装を彼女の作品として偽り、これからも売っていくつもりだった。
 それなのに【織姫】がもうお店にはいないという噂が立ってしまったのだ。似たデザインを作っていけば見破られることはないだろうと踏んでいたのに。

(これも全てマリーのせいだ……!!)

 スカーレットはギリリと親指の爪を噛む。
 マリーがいなくなった際に依頼を受けていたドレスは、未完成だった。
 しかし、引っ越しのどさくさで製作途中の衣装はマリーに持って行かれてしまったのだ。
 それで仕方なくお店にあった複製図案を使って急遽別の職人達に作らせた。
 出来たものはマリーが作った物と比べると見劣りしたが、それでも悪い出来ではなかった。
 それなのに、お客はいつまで経っても商品を取りになかった。
 仕方なく家に持って行けば、「すでに【織姫】の作品は受け取っていますよ。今回も素晴らしい出来でした」と言われる始末。
 何かの間違いではないかと思ったが、彼女は嬉しそうな顔でこう言った。

「【織姫】から、商品と一緒に直筆のお手紙をいただいたんです……! それにはこう書かれていましたよ」

『ご依頼ありがとうございました。○○様の未来に喜びがありますよう、一糸、一糸、大切に、お祈りしながら織らせていただきました。
 追伸:一身上の都合により、お店を退職することになりました。とても残念ですが、またいつか作品を通してお会いできることを願っております。敬具』

「あたたかな文面に、もう私、とっても感動しちゃって……。やっぱり作品と同じように内面も素敵な御方ですね。──ところで、【織姫】の転職先はどちらでしょうか? また是非、依頼をお願いしたいのですが……」

 スカーレットは黙って退散する他なかった。
 しかもそんなお客は一人ではなく、その後も何人も続いた。そのせいで、人々の間に【織姫】がいなくなったことが広まってしまったのだ。

(店を出すのだって、タダじゃないっていうのに……)

 賃料もかかるし、材料費、人件費など、毎日出ていく出費は存外に大きい。
 それに最近ではトラブル続きで、懇意にしている貿易商から綿花や蚕の繭を仕入れることができなくなっている。
 店の在庫の糸や布が底を尽きかけているから、どこかで材料を調達しなければならないのだが、スカーレットの悪名が高いせいで引き受けてくれる者がいない。

(これまでだったら、【織姫】の名前を出せば、皆快諾してくれていたのに……)

 テーレン商会も頼りにならない。
 今まで商会長は色々と便宜を図ってもらっていたのだが、最近はスカーレットとの浮気が妻にバレて離婚の危機らしく、「もう、きみのお店には行けない」と言われてしまった。

(息子のギルアンも……この前の様子じゃあ、父親を説得してくれないだろうし……)

 もちろん、大金でマリーを売ったと正直には言わなかった。
 夜逃げしてしまった、と伝えると、ギルアンは「嘘だ……」と呆然とした様子でつぶやき、娼館の中を荒らして去って行ったのだ。

(ま、悪い奴とつるんでいるという噂の坊ちゃんだが、あのくらいの被害で済むなら御の字だねぇ)

 店内の道具はぐちゃぐちゃにされ、壁にも穴を開けられたが、壊れた物はまた買いなおせば良いのだ。
 しかし、スカーレットは顔をしかめる。
 今は娼館の経営もうまくいっていなかった。
 マリーがいなくなった時を境に、お客がこなくなったのだ。『結婚することになった』とか『田舎に帰ることになって……』とか『金欠で……』と、お客の足が遠のいた理由はさまざまだったが、常連客が示し合わせたようにタイミングが悪く全員がこられなくなってしまった。

(クソッ……なんだってこんな時に悪いことばかり重なる……?)

 その上、帳簿をつけていたマリーがいなくなったことで、自分達に下っ端仕事が降ってくるようになった娼婦達が不満を漏らすようになり、出て行ってしまう者も出てきた。近頃はお給金も支払えていなかったので無理のないことではあるのだが……。
 マリーと親しかったベティは最後の日に挨拶できなかったらしく、「マリーはどこへ行ったんですか?」と詰め寄られたが、スカーレットは答えられなかった。
 だが、スカーレット自身も知らないのだ。
 春を売ったこともないマリーを引き取ろうとするなんて、どうせ変態趣味の好事家に違いないと思ったのだ。マリーがそこでどんな目に会おうが、知ったこっちゃない。スカーレットはお金さえもらえたら、どうでも良かった。
 あの時に対応していた男は貴族の邸で働く執事のように見えたが、ロジャーという名前以外は分からない。借金の数倍もの大金を迷いなく支払ったのは名前を明かさないことと、口止め料も含まれていたのだ。

(失敗した……マリーがいれば、ギルアンからお金を引き出せたかもしれないのに……)

 今の災難の何もかもがマリーとつながっているように感じて、腹立たしかった。
 ふと、その時にカランコロンと入口の鐘が鳴る。
 娼館に入ってくる人物がいた。

「いらっしゃい……! って、ギルアン様……?」

 ギルアンは笑みを浮かべていた。

「よう」

「あっ……よ、ようこそおいでくださいました! おい、誰かギルアン様がいらしたわよ。対応なさい!」

 そう廊下の奥に呼びかけたが、誰も出てこない。
 いつもならお客がくれば控室にいた見習いが急いでやってくるのだが、周囲は不気味なほど静まり返っている。

(まさか、皆出て行った訳じゃあるまいし……)

 嫌な予感をおぼえながら、スカーレットは気まずさを押し隠しながら笑った。

「すみませんねぇ。今は手が空いていないみたいで……とりあえず、お部屋に案内しますので……今日はどの子に」

 言いかけたところで、動きが止まった。
 ギルアンの後ろから入ってきた男達に見おぼえがあったからだ。

「あんた達は……」

 スカーレットの呆然としたつぶやきを、ギルアンは拾う。

「おや、おぼえていないのか? お前があくどいやり方で借金を負わせたせいで破滅し、浮浪者や、ごろつきになってしまった奴らだよ。酒場で意気投合してな。俺とも利害が一致するってことで連れてきたんだ」

「り……利害……?」

 いったい何を言っているのか分からない。
 ただ、嫌な予感が背筋を駆け上がってくる。

「おおい!! クライド、いないのかい!?」

 たまらず、お店の入り口に待機させている護衛の男の名を呼んだが返答がない。

「だ、だれか……きてくれ!! はやく……ッ」

 スカーレットの声は誰もいない娼館内で空虚に響く。
 ギルアンは冷たい眼差しで言った。

「マリーはどこにいる? 素直に吐くなら、そこまで痛くしないでやろう」

「知らない……ッ! 本当に知らないんだよぉ!!」

 そう必死に訴えたが、ギルアンは酷薄な笑みを浮かべるだけだ。

「お前達、あの女がマリーの居どころを吐くまで、好きにしろ。殺しても構わないぞ」

 その命令を受けて、男達が動く。スカーレットは甲高い悲鳴を上げた。


◇◆◇


「チッ……とんだ無駄骨だったな」

 ギルアンは店を出ると、そう苦々しげに吐き捨てた。
 スカーレットはどれだけ無体な目に合おうと、口を割らなかった。おそらく本当にマリーの居場所を知らないのだろう。
 星一つない暗い夜空を見上げる。

「絶対に見つけ出してやる……。マリー、お前は俺のものだ……!」

 そう声を荒げて、転がっていた店の看板を踏みつけた。