翌日のお昼時に中庭のガゼボで待ち合わせて、エマと食事をすることになった。場所を食堂にしなかったのは会話の内容を周りに聞かれないようにするためだろう。
 食事はロジャーがサンドイッチを用意してくれている。いつもエマが飲んでいる銘柄の温かい紅茶まで準備されていて、マリーはロジャーの執事としての手腕に舌を巻いた。
 すでに腰をかけていたエマの前にマリーは座る。

「お待たせしてしまって、すみません」

「いや、時間通りだ」

 そう楽しげに腕時計にチラリと目を向けるエマは、この報告タイムを楽しんでいるように見える。
 薔薇の香りがただよう中庭の通路をたまに通り過ぎる生徒もいたが、ガゼボからは距離があるので会話を聞かれる心配もない。

「それで、最初の定期報告だな。……とはいっても、まだヴァーレンにきて一日しか経っていないから報告するようなことも少ないかもしれないが」

 エマがそう切り出すが、マリーは気まずくなる。

「じつは……ギルアンと再会してしまって……。どうやら、この学校の生徒だったみたいなんです」

 そう伝えると、エマとロジャーは目を見張った。

「なんだって!? ギルアンが……? そうか……しまったな。確かに、この学校の生徒でもおかしくはないか……」

「……完全に我々の調査不足です。マリー様、不安な思いをさせてしまい申し訳ありません」

 ロジャーに深々と頭を下げられ、マリーは慌てて頭をブンブンと振る。

「い、いえ! お気になさらないでください。私も知らなかったことなので……それに、ギルアンは私の正体に気付いていないようでしたし」

 エマは険しい表情で腕を組んで唸る。

「そうか……まあ、前々からマリアと面識があるなら、マリアが突然別人に入れ替わっていても気付くことは難しいだろうが……」

「とはいえ、マリー様の身が危険なことには変わりありません。どうなさいますか?」

 ロジャーはエマに尋ねた。
 エマは黒髪を掻き回して「ううむ……」と悩んでいる。
 マリーを知る人物がそばにいるのといないのでは危険度が段違いだ。
 かといって、エマは伯爵家のためにも入れ替わりを辞めるという選択をすることはできないだろう。

「仕方ない……ギルアンとは極力接触しないようにしてくれ。そして、もし奴がきみのことをマリーだと疑うような言動をしたら、すぐに私達に教えてくれ。その時は計画を中止し、きみを保護する」

 エマがそう決断したので、マリーは承知した。
 その後、三人で歓談しながら昼食を終えた頃、エマが傍らに置いていた新聞をマリーによこしてくる。

「じつは……私もきみに報告しなきゃいけないことがあるんだ」

 その新聞は昨日の日付だった。
『織姫が行方不明!? いったいどこへ』と大きく見出しの文字が躍っているのを見て、マリーは目を丸くする。
 よく読んでみれば、それはスカーレットの仕立屋の経営が傾いているという記事のタイトルだ。

「これは……?」

 エマはクッキーを口に運びながら笑っている。先ほどマリーもいただいたそれは、エマの家政婦が焼いてくれたものらしく、サックリとしていてほのかに甘い。

「どうやら、スカーレットの店は経営が傾きはじめているようだ。【織姫】が失踪したという噂が広まって、お客がいなくなっているらしい。きみの能力を低く見ていた罰だな。一時の大金に目がくらんで、きみを売り渡すなんてことをしたから」

「そう……なんですか?」

 マリーは驚いた。
 自分がいなくなったことで、こんなに新聞で騒がれるとは思ってもいなかったのだ。
 エマは紅茶に砂糖を三つ入れてスプーンで掻き回しながら、うなずく。

「ま、きみは仕事を一人でしていたから、なかなか全ての依頼を引き受けることはできなかったんだろう? 調べたところ、【織姫】目当てに仕立屋にやってきた客は、スカーレットの話術に負けて他の職人に任せることが多くなっていたらしいんだ。次回は優先的に【織姫】に作らせるとか、何パーセント割引にするから、とか説得されてね」

 つまり【織姫】効果で仕立屋が儲かっていたというのだ。

「しかし肝心の【織姫】がいないのなら、もっと安価な店へお客が移動してしまう。こう言ってはなんだが、スカーレットの店は他店より高価なわりに、【織姫】以外が作る衣装は仕立ても良くなかったからな。繁盛しているんだから【織姫】がいなくなってもお客は残るとスカーレットは踏んでいたんだろうが、とんだ誤算だったという訳だ。娼館の方もマリーがいなくなったことで娼婦達との間で衝突が起きているらしく、辞めていく者が日に日に増えているとか」

 ふと、マリーはかつて母親に言われた言葉を思い出した。
『マリーは【精霊の愛し子】だから、周囲には精霊達の加護があるのよ。あなたはいるだけで周囲の人々を幸せにするの』と。
 中庭の薔薇とたわむれる精霊達の顔をじっと見つめる。よく目をこらして見れば、娼館にいた頃から知っている精霊達がたくさんいることに気付いた。新しい友達の精霊達と空中でじゃれあっている。
 その数をこっそりと数えて、マリーは青ざめた。

(え!? 皆いる!? まさか……私が娼館にいた精霊達を一緒に連れてきてしまったのかしら……?)

 いや、まさかね……。と、マリーは汗を搔きながら、現実逃避した。自分にそんな影響力があるはずがないと首を振った。

(たまたまよね、きっと……そう、たまたま)

 話が雑談のようになっていたので、マリーはふと気になっていたことをエマに尋ねる。

「あ、あの……ところで、お姉様。明日から新学期が始まりますが……テストや授業などは、どのくらい真面目にやれば良いでしょうか? このままだと進級が危ういとプリシラ先生がおっしゃっていましたが……さすがに、これ以上赤点を取るとまずいのでは……?」

 ヴァーレンにくる前、勉強やテストは名前だけ書いて後は適当で良いとエマから言われていた。マリアの成績はいつもビリから数えた方が早いくらいだったからだ。
 それに学校や家庭教師から学んだことがないマリーは授業についていくのは大変だろうという配慮もあった。
 しかし、このままでは留年してしまうのでは、とマリーは危機感をおぼえてしまう。
 エマは紅茶を口にしながら遠い目をする。

「ああ、確かにそうだな……すまない。思っていた以上にマリアが馬鹿でな。すまない……本当にすまないと思う」

 エマは灰になりながら続ける。

「どうやら、マリアは赤点を取りすぎて、すでに進級できるかギリギリの状態のようだ。さすがに留年してしまうのはよろしくない……。きみには大変だろうし、苦労をかけて申し訳ないが……テストや授業は少しだけ頑張ってもらえるだろうか?」

「だ、大丈夫です。頑張ります……!」

 マリーは拳をぎゅっと握りしめた。
 確かにマリーは学校に通ったことはないが、高級娼婦見習い兼下働きの立場だったので、幼い頃から楽器や歴史、ダンスなどの教養は学ばされている。
 高級娼婦はただの春を売る女ではない。高貴な者を楽しませるための話術や知性、美貌を兼ねそろえた存在だ。トップクラスの高級娼婦の中には接待としてお客である外交官と共に諸外国に随行することすらある。
 そういう庶民には手が出さないような高嶺の花こそが真の高級娼婦であり、人気のある女達は肖像画が市井に出回るほどだった。
 マリーの母親は花街で長年の頂点に君臨し、【華神】の称号を得ていた。
 元貴族令嬢でもある母親と一流娼館で幼い頃から学んできたマリーは、本人には自覚がなくても、話術以外は難なくできるほどの素養はある。
 加えて、マリーは小心者ゆえに準備を怠らなかった。

(良かった……心配だったからシュトレイン伯爵家で、お姉様の教科書を借りて予習させてもらっておいて、本当に良かったわ……)

 勉強しなくても良いと言われていても心配で、マリアの学年の教科書のみならず、エマの学年の勉強まで夜なべしてこっそりと行っていたのだ。
 気弱ゆえに抜かりがないのである。

(それにしても……少しだけ頑張るって、どのくらいやれば良いのかしら?)

 まさか、全ての授業でマリーがやりすぎてしまうだなんて、この場にいる誰も想像できないことだった。