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ゴールデンウイークに入った。
私には塾しか予定はないけれど、他の生徒は友達と映画を見に行ったり、ショッピングへ行くようでそういった浮ついた話が耳に入ってくるたびに、私の白紙の手帳が虚しくなる。
波多野君は、クラスの男子から遊びに行こうと誘われていたようだ。

ゴールデンウィーク初日、この日は塾はお休みでかつ、母親も仕事で家には私しかいなかった。
勉強をした方がいいのはわかってるけど、どうしてもやる気にならなくてベッドに横たわり携帯をいじる。
SNSはやっていない。というか中学に入ってからやめた。
ちょうどいじめが始まってすぐにSNSで私の悪口をたまたま見てしまってから嫌になってやめてしまったのだ。
お母さんも勉強の邪魔になる、と言ってやめるように言っていたからちょうど良かったのかもしれない。今振り返ってもあのタイミングでやめていたことは良かったとおもう。

だから別にダラダラしていてもYouTubeを見るとか、ネットニュースを見るとか、そんなことくらいしかやることはないのだけど、何もしていない時間こそあっという間に経過していく。

と。

YouTubeが流れていた画面が急に着信画面に代わって私は慌てて上半身を起こした。
“波多野朝陽君”と表示されていて、急に心拍数が上昇した。
波多野君の連絡先は、知っていた。というか彼から聞いてきてそれで交換した。でも、自分から連絡をすることはまずないから電話をする機会など訪れないとそう思っていた。

「もしもし…」

慎重に通話ボタンを押した。もしかしたら誰かと間違えて電話をした、そういうことも考えられる。
しかし、受話器口から聞こえてきたのは私の名前をはっきりと喋る波多野君の声だった。
「みずき?ごめん急に電話して」
「いや…別に、いいの!暇だったから」

やけに緊張して一人の部屋であたふたする。部屋着のTシャツの裾をギュッと握って声を出す。

「ゴールデンウィークって暇な日ある?よかったら遊ぼう」
「あ、遊ぶ?!」

うん、と当たり前に言う彼に私は戸惑った。ほかの人もいるのかなとか、だとしたらちょっと嫌だけど、二人で遊ぶのも変な気がした。なんていうか…こういうのは付き合っている男女がするものだと勝手に思っているからだ。

「あー、用事あるとか…嫌だったら全然いい」
「嫌じゃないよ!塾がない日ならいつでも」
「ほんと?なら明後日は?」

電話越しからでも聞こえる明瞭な声が耳に響く。
私は天井に黒目を向けて、少し悩むように唸る。明後日は塾は休みだったと思うけど、お母さんの仕事がどうだったか思い出す。
確か休みではなかったと思う。
お母さんがもしも異性と遊びに行くなんて知ったら全力で反対するだろう。
何故ならドラマとかで中高生が付き合うシーンなんかがテレビに映っているのを見るとすぐに嫌悪感を示して「ありえない」という。お母さんは小学校から高校まで女子高に通っていたようで、男女の交際は勉強の妨げになると考えているようだ。

お母さんがどういう家庭環境で育ったのか、私は詳しくは知らない。
母方の祖父母はすでに他界しており、かつ、子供ながらに母と祖父母があまり仲が良くなかったことは感じていた。お母さんには下に妹がいる。私から見ると叔母さんにあたる妹ともあまり仲が良くないように感じた。別に絶縁しているわけでもないし、たまに会うけどぎくしゃくしているのを私は何となく知っている。
ふと、母親のことを考えていたせいで声のトーンが下がっていることに気が付く。
慌てて明るい声を出す。

「明後日ね、わかった!どこに行けばいい?」
「じゃあ最寄り駅で待ち合わせでどう?」
「わかった。時間は?」
「10時とかは?大丈夫そう?」

もちろん大丈夫だよ、そう言って私は電話を切った。
通話を終えても波多野君の声が耳に残っていて、それを聞くと不思議と元気が出る。
人との出会いをここまで感謝したことはなかった。神様がもしも存在するのならば、彼との出会いは神様からのプレゼントなのでは、そう思ってしまった。
彼に何かを返せたらいいのに。自分ばかり与えられているのは嫌だった。
そう思っているうちに、宿題もやらずにうたた寝をしてしまっていた。

…――


波多野君からのお誘いの当日、私は朝からほんの少しだけ普段よりもオシャレをしていた。
オシャレと言っても、ネイルをしているわけでもないし、凝ったヘアアレンジをしたわけではないし、化粧をしているわけでもない。普段滅多に着ない服を選んで着ただけだ。
水色の淡いひざ下丈のワンピースを着た自分を姿見で確認する。似合っているのかはわからない。
シフォン生地でそれに白いカーディガンを羽織る。こんな絵に描いたような清楚な服を着る機会などほとんどないけど、波多野君と一緒ならかわいい服が着たいと思ってそれにした。
ウエスト部分も高い位置にあるからスタイルもよく見える。身長が高くない私が服を選ぶときに重要視することは、“スタイルがよく見えるか”だ。どうしても身長が低いと着られて見えてしまうからそう見えないように着こなしたい。
と言っても、週のほとんどを制服を着て過ごしているから私服を着る機会のほうが少ないのだけど。

今日は母親は朝から仕事のようで家にはいない。急に仕事が入ってしまったようだ。その代わり父親が家にいる。

一応、「出かけてくる」そうリビングで新聞を読みながらお茶を飲んでいるお父さんに声をかけてから家を出た。
お父さんは特に振り返ることもなく、「わかった」とだけ言って新聞紙を捲っていた。
小さめの四角い紺色の鞄を肩にかけて私は家を出た。
待ち合わせ時間よりも10分もはやく到着した。私の方が先だと思ったけど、
「みずき」
と私の名前を呼ぶ声が聞こえて、声の方へ視線を向けると波多野君が手を振って近づいてくる。

どうやら私よりも先に到着したようだ。
雑踏を掻き分けるようにして私のところに来ると「なんか雰囲気いつもと違うじゃん。やっぱりそういう服似合ってる」といった。
嬉しいのにそれを素直に表現できない私はありがとうと伏し目がちに答えた。
波多野君は黒のスキニーパンツにネイビーのシャツを着ていて、シンプルだけど彼のスタイルを引き立てるセンスのあるコーディネートだと感心した。
それに、普段は制服姿の彼しか知らないから新鮮だった。

「えっと、波多野君も素敵だね。服…似合ってる」
「ありがとう」

ふわっと優しくそう言われて私たちを纏う空気も優しくなる。

「今日はどこへ行くの?」

波多野君が歩き出そうとするからすぐに私も同様に歩き出した。
波多野君と遊ぶ約束はしたものの、具体的には決めていなかった。
少し狭い歩道を二人で並んで歩く。自転車のチャリンという音がして波多野君が私が危なくないようにさりげなく手首に触れてこっち、と言いながら自転車が通らない左側へ私を移動させる。

ずっと思っていたけど、やはり彼はさりげなくそういう気遣いが出来てモテるのだろうと思った。
そして、一瞬しか触れられていないけど手首がジンジンと熱を持っている。何故だろう、胸も高鳴っている。

「実は映画観に行こうかなって」
「え?…そうだったの?」
「そうだよ?ダメだった?嫌だったら違うところでも…」

私は嫌じゃないよ、と言ってつづけた。そうじゃない。嫌とかじゃない。ただ、戸惑いがあるだけだ。
2人で映画なんてまるで…―

「デートみたいだなぁって」

そう口にしてすぐに後悔した。そんなことを波多野君が思うわけないし私が勘違いしていると思われたのでは、と思って羞恥で顔を赤らめる。
社交的で快活で、何でもできる波多野君のような子が、私とデートをしたいなんて思うはずがない。それなのに、勘違いを一度でもしたことが恥ずかしい。
なのに、波多野君からは何の言葉も返ってこない。
視線をアスファルトへ向けていたそれを私は静かに上げた。

「デートだよ」
「…へ」
「デートなんですね」

波多野君は正面に顔を向けたまま、そう言った。どういうことだろう。
デートという認識は私も彼も同じだということがたった今、判明した。若干パニックになりながらもそれを咀嚼する。ドキドキして先ほどから胸が痛い。この痛みは、学校が嫌だったり家に帰るのが苦痛だったりするときの痛みではない。それとは異なるものだ。

「そ、そうなんだ!映画は観たいものあるの?」
「んー、いくつかあるけど映画館に到着したらみずきが選んで。ほら、俺が強引に誘ったから」

動揺していることを悟られたくなくて早口で違う話題を振った。私は映画など何年も観に行った覚えがない。
普通の女子高生がしていることを友人がいない私はしていない。
少し歩いて、隣の駅から電車に乗った。こちらの駅から乗った方が速いようで最近引っ越してきたのに土地の地理感覚がすごいなと感心する。
もしかしたら事前に調べてきてくれたのかもしれない。そういうところ全てが尊敬できる。
電車に乗ると、休日だからなのか普段より空いている印象を受けた。
座席が空いていたので座った。左隣に彼が座って、近い距離に心臓が煩い。
周りを見渡すと、私たちと同じくらいの子たちが楽しそうに喋っている。ほかにも目を閉じて寝ているのか若いお兄さんや、買い物袋をぶら下げて手すりにつかまっている女性、いろいろな人が目に留まる。

そして同時に私は彼らの頭上を確認してしまう。ほとんど無意識に見てしまっているけどだいたいそこまで“おかしい”数字の人はそこまでいないから流している。ただ、たまにおかしな数字を見てしまう。
すぐには気づかないけど、“違和感”があってよく見ると…なんてことは稀にある。
この車両に乗っている人たちは、全員大丈夫だ。そんな違和感はない。

でも…―。
ゆっくりと波多野君に顔を向ける。波多野君が私に視線に気づいて、首を傾げる。どうかした?という目を向ける。私は、眉尻を下げて何でもないといった。
16という数字を見るたびに、彼と仲良くなるたびに、唇が震えそうになる。それを抑えるように下唇を噛んだ。
私のこの能力は、本当に死期を知らせるものなのだろうか。もしかしたら違うことだって考えられる。
違うというより違う意味で捉えているとか…―。本当にその数字で亡くなったのは、祖母だけだ。
身近にそれ以外の例を見たことはない。半分は願望だった。違ってほしい、切にそう思った。

「わ、」

急に波多野君の指が私の眉間にツン、と触れてびっくりして顔を上げる。
波多野君が心配そうに顔を覗き込んでいた。

「考え事?なんか険しい顔してたけど」
「…あ、ごめん。これから映画なのに。テストのこと考えてて…」
「テスト?中間テストのこと?それなら俺が教える」
「いいよ!だって…そこまでしてもらうのは悪いから」
「悪くないって。んーじゃあゴールデンウィークほかにも空いてる日あれば教えて。図書館とかで勉強しよう。あ、そうだ。俺の家でもいいな」

勝手に話を進める彼を制していった。
「だ、ダメだよ。波多野君だって自分の勉強があるだろうし。ほかの友達もいるでしょう?気持ちはもちろん嬉しいけど…」

わからない。どうして、そう思うことが多い。彼と接していると…そう思ってしまうことが多い。
それはもちろん私と彼は根本が違う人間だから価値観の相違のせいで私がそう思うだけかもしれない。

「ごめん。ちゃんと伝わってないみたいだからいうけど、俺がしたいんだ」
「え…」
「暇で俺のことが嫌いじゃなければ、勉強に付き合って」
「わかっ…た」

真剣な面持ちで言われて面食らった。たまたま転校生が私の席の隣になって、それでいてたまたま友達になってくれて、たまたまこうやって一緒に遊んでいる。
偶然が重なって今があるとするならば、この出会いすべてに感謝したい。少し前の私は死ぬことしか考えていなかったのだから。
今は、そこまで前向きだったり将来を考えたり…そこまでではないけど明日のことは考えるようになった。
波多野君は、私のヒーローだ、そう思う。