母は「あ、そうだ」と右手でベッドをポンポンと叩く。

「じゃああの家あなたたちにあげるわ」

「ええっ?じゃあお母さんはどうするのよ?」

「私?私は退院したら小さなアパートでも借りて悠々自適の老後生活を送るわ」

「も一何言ってるのよ。まだリハビリも全然進んでないくせに。入院生活延びるよ」

「あらぁ、それも悪くないわね。リハビリの先生がね、イケメンなのよ。ふふっ」

「オレ、おばーちゃんもいっしょにくらしたい」

「まぁ~海ちゃんったら優しい子」

結婚するのだから、紗良と杏介、二人で新しい家庭をつくる。
それに対して母の申し出は大変ありがたいことではあるのだが、こんな入院した状態でこの先もどこまで回復できるかわからない母を残して新しい生活を始めるイメージはまったくわかない。
理想と現実の狭間でまだあまり深くは考えていないのだ。

「結婚はするって決めたけど、これからのことはおいおい決めるよ。ね、杏介さん」

「そうだな。でも俺、みんなで暮らすのもいいかなって思うよ。紗良がいて海斗がいてお母さんがいて、毎日楽しくて幸せなことだなって」

「杏介さん……」

「なんてできた息子なのかしら。でもね、遠慮しておくわ。あなたたちは二人で新しい家庭を築くのよ。結婚するってそういうことなんだから。それから杏介くん」

「はい」

「きちんとご両親に報告しなさいね。遠く離れて会わなくたって、親はいつだって子どものことを気にしているものよ」

紗良の母の言葉は杏介に緊張を与える。
報告はする、つもりではいた。けれどそれは今でなくても、きっといつか、といった不確かな揺れる杏介の気持ちを、母はぴしゃりと戒めた。
その言葉をしっかりと胸に受け止めて、杏介はコクリと頷く。

「……はい」

不安をはらんだ声色は思いのほか自分の胸に刺さった。
紗良はそっと杏介の手を握る。
少しでも杏介の不安が解消しますように、と。