春。まだ真新しく見える制服に身を包み、歩き慣れない通学路を歩く。入学式から数日。私の心はまだ、どきどきと音を立てて鳴り止まない。

「今日は健康診断です。午後からなのでお昼のうちにジャージに着替えておいてくださいね」

 担任の先生は小柄で、そして少しふくよかで。とても穏やかな年配の先生。いつもにこにことしていて学年を問わず雪先生と呼ばれ親しまれている。そして朝からどきどきと不思議な緊張感と憂鬱感はこの、健康診断のせいだ。この高校の健康診断には採血がある。私は注射がとても苦手なのだ……。

「あ、そうだ。保健委員の人は昼休みに保健室に集合です。えっと……谷口さん、よろしくね」
 
「あ、は、はい」

 そういえば昨日の委員会決めで保健委員に決まったんだっけ。

「それじゃあ朝のホームルームはおわり。授業がんばってねぇ」

 にこにこと去っていく先生と途端に騒がしくなる教室内。

「お昼食べてから体重測るなんていやじゃなーい?」

「それなー」

 話し声に笑い声。そして何人もの足音が鳴り響く教室内でとくとくと早くなる心臓。私、谷口玲奈はまだ友達が一人もいない。中学の頃の友だちとは別々なクラスになってしまい完全にぼっちとなってしまったのだ。スマートフォンの検索履歴は『高校生 友達ができない』で溢れている。

「谷口さん?」

「あ、はい!」

 突然かけられた声に慌てて返事をすればきょとんとした丸眼鏡の奥の瞳と目があった。

「1時間目、移動だよ?」

「え、あ!」

 時間割を確認すると今日の1時間目は音楽だった。

「音楽!」

「あ」

 慌てて教室を飛び出そうとするとスッと制服の裾を掴まれ、振り返るとまた彼女がいた。

「今日の音楽は視聴覚室だって」

「あ、ご、ごめん。ありがとう」

 音楽室と視聴覚室は反対の方向だ。危うく授業に遅れてしまうところだった。

「私、真央。よろしくね、谷口……さん?」

「谷口玲奈。玲奈って呼んで!」

「玲奈……? じゃあ私のことも真央って呼んで」

「うん!」

 はじめて話すクラスメイトに心がキュンとしてしまう。これが青春の一頁というものだろうか。

「早く行こう、玲奈」

 じーんっと感動に浸っていると真央に手を引かれた。それと同時に鳴り響く始業のチャイムに私も我に帰って走りだす。今日は友だち記念日だ。



 1時間目から4時間目の授業が終わりお昼休みがやってきた。日直だった真央は授業の後のノートを集めて職員室へ運ぶのを一緒に手伝い、教室へ戻る。

「手伝ってくれてありがとう。玲奈」
 
「いいのいいの。一人で運ぶのも大変じゃん」

「ありがとう」

 にっこりと微笑む真央に口が綻ぶ。

「一緒にお弁当食べよう、私お腹すいちゃっ……た」

 お弁当を手にした途端、流れる放送に固まる思考。

『保健委員会の皆さんは保健室に集合してください。繰り返します、保健委員会の〜』

「あ、玲奈。保健委員だっけ……」

「あ。すっかり忘れてた……。真央、ごめん。先に食べてて!」

「ご、ごめんなさい……。私のせいで……」

「真央は何も悪くない! 行ってくる」

 お腹は空いているがまぁなんとかなるだろう。私は急いで保健室へと駆けつけた。



「遅い」

「す、すみません」

 待ち構えていたのは黒髪に縁なしの眼鏡をかけた威圧感漂う男性。彼は保健委員会の委員長。委員長というよりも魔王様の方がよっぽどお似合いだ。

「一年はこれを体育館へ運ぶんだ。落とすなよ」

「は、はい」

 魔王様に言われた通り体重計や身長計などを体育館へと荷物を運んでいく。思いの外作業量が多く、昼休みも終わりが近づいていた。すっかりお昼を食べ損ねてしまった。

「それが終わったら教室に戻って」

「は、はいっ!」

 作業を終わらせて急いで階段を駆け上がっていく。一瞬、ほんの少し眩暈がしたような気持ち悪さを感じ立ち止まる。

「う……っ」

「どうかしたか?」

「!」

 不意に顔を覗き込まれて驚けば、そんな私の反応に目を丸くする魔王様。

「な、なんでもありません!」

「なら早く教室に戻れ」

「は、はいいぃっ!」

 一瞬、魔王がカッコよく見えてしまったのはきっと気のせいだ。一目惚れ、そんなのあり得ない。ドキドキと鳴り響く心臓は、きっとこれから行われる健診に対しての、緊張感だーーーー。


 身長体重測定、そして視力聴力検査を終え、残るは保健室で行われる内科検診。

「あ、玲奈!」

「真央!」

 腕に小さな四角いテープが貼られた真央。

「玲奈はこれから?」

「う、うん」

「そっか。じゃあ教室で待ってるね」

「うん。また後でね」

 小走りで去っていく真央を見えなくなるまで見送って、私は何度目かわからないトイレへ行く。こうして時間を潰しているのだ。
 高校生にもなって採血が怖いだなんて誰にも言えなかった。心臓はドキドキと音を立て吐き気がする。

「はぁ……」

 気分は最悪だった。しかしそろそろ6時間目も終わろうとしている。こんなところにいては不審に思われるに違いない。あまり時間がかかってはさっき別れた真央も心配しているかもしれない。そう意を決して保健室のドアに手をかけた。

「わわっ」

 開く前に開いたドアに身体がよろめくと目の前には大魔王。

「お前で最後か」

「え、あ、あぁ……はい」

 緊張と緊張で言葉に詰まる。

「おい」

「ななななんですか」

「少し顔色が悪いように見えるが、大丈夫か?」

「だだだだ大丈夫ですよ!」

 手をぶんぶんと振って全力で否定し「どうぞー」と笑顔の看護師さんの方へ歩いていく。早く終わらせて早く教室へ戻ろう。

「学年と指名をお願いします」

「一年ニ組、谷口玲奈です」

「はーい。ではーーーー」

 心臓がうるさくて何も聞こえない。スーッとしたアルコールの匂いに冷たい感覚。ーーーー怖い。
 ちくり、針の刺さる痛みに手が汗ばんでいく。あと少し、あと少し。

「はーい。じゃあ針抜くよー。5分くらい押さえてね」

 はい、と言葉に出たかは怪しい。込み上げてくる吐き気とくらむ視界。早く教室に戻らなければ、という謎の使命感で立ち上がるも視界は真っ白に霞んでいく。

 あ、やばい。と思った時には遅かった。

 膝に力が入らない。かろうじて保っている意識の中で何人かの声が耳の奥をこだまするーーーー。




「あ」

 気がつくと私はベッドで眠っていたみたいだ。

「えっと……」

 ぐるりとベッドを囲むように引いてあるカーテンを少し開ければ読書中の先輩と目が合った。

「あ、その」

 すみません、と謝れば魔王様がのそのそと歩み寄ってくる。ただ歩み寄ってくるだけだというのにここまで威圧感を感じる人間はこれまでに出会ったことがない。

「だから……」

「?」

「だから言ったじゃないか! 大丈夫かって!」

 私、今すごく怒られてる……。

「まったく。友だちの話ではお昼も食べずに委員会の仕事をしたらしいじゃないか。そんなフラフラな状態でーーーー」

 ガミガミガミガミと話し続ける魔王に今にも涙腺が崩壊しそうな私。

「聞いてるのか?」

「は、はい……」

 なんとか涙を堪えて搾り出した声で返事をすれば優しい瞳と目があった。

「な、泣いてるのか?」

 ううん。と首を振って否定するも瞬きの拍子に涙がぽろぽろっと溢れてジャージを濡らす。

「悪い。泣かせるつもりはなくて」

 それは分かっている。先輩は間違ったことは言っていない。私を心配して怒ってくれているのだ。それでも一度溢れた涙はそう簡単には止まらず頬をつたって床に落ちていく。その涙をそっと指で涙を拭われ、その距離感に一歩、また一歩、と下がった先でベッドにぶつかりそのまま腰を下ろした。

「言ってくれたら良かったのに」

「……こ、怖い、なんて言ったら馬鹿にされてしまいそうでっ」

 そう白状するときょとんとした表情の魔王様。

「え」

 私は多分、何かを間違えてしまったようだ。脳内に流れるエンドロールに冷や汗が伝う。

「へー。玲奈ちゃん、採血が怖かったんだ」

 くすくすと笑うその顔はまさに大魔王。その黒い微笑みがとても怖いです、先輩。

「え、その、えっと」

 どう言い訳をしようと寝起きの頭をフル回転させていると不意に頭に重みを感じて顔を上げる。

「魔王様?」

 今、私、頭を撫でられた?

「…………」

 ……あ。

「誰が魔王様だって?」

 つい魔王、魔王様、大魔王とあだ名を付けていたがためについ口からぽろりと出てしまった言葉に冷や汗が流れ出る。

「えっと、その、あの」

「ふっ」

「?」

 ニヤリ、と不気味な笑みを浮かべる先輩。

「まぁ、魔王も悪くないか」

 顎をぐいっと強引に掴まれ強制的に顔を上げさせられると噛み付くようなキスが降ってきた。

「んッ」

 一度離れて、角度を変えてもう一度。

「んん」

 熱い。とても熱い。ぱちり、目を開ければレンズ越しの細長く黒い瞳と目があった。先輩の、ほんの少し赤く染まった頬にキュンとしてしまう。

「キスの時は目は閉じとけよ。お姫様」

 スッと前髪を撫でるように目隠しをされれば悪戯に首筋に噛み付く先輩。

「嫌なら助けを求めればいい。勇者様にでもな」

「そんっなっ」

 言葉がキスで塞がれる。ドキドキと鳴り響く心音が私の恋心を刺激していく。

 私は、勇者様なんていらないっ。