リーチェとハーベルの間に奇妙な沈黙が落ちる。

(マルクが何か変なことを言っていたけど……それより、ハーベル様が私のことを好きって……)

 その言葉ばかりが頭の中を巡っていく。

「リーチェ」

「はっ、はいっ!」

 緊張のあまり声が上擦ってしまった。
 ハーベルは落ち着きなく視線を辺りに上滑りさせると、「少し歩こうか」と言ってリーチェを庭園へ連れ出した。
 火照った頬に涼風が心地よい。
 二人は会話もなくしばらく歩き、少し大きな木の下にたどり着く。ハーベルは幹に手をあてて言った。

「……この場所、覚えているか?」

「えっ……?」

 どこにでもある木だ。リスの親子が枝の上にいて、二人を見下ろしている。黒目がちの目が可愛いらしい。

(私は王宮に来たことなんて、ほとんどないはず……いや、待って。一度だけ迷子になったことならあった)

 リーチェは数少ない記憶を思い返して、十年近く前──八歳の頃に王の庭で迷子になってしまったことを思い出した。
 詳しい場所まで覚えていないが、確かこんな場所だった気がする。
 もしかして、あの時、王子宮の近くまで迷い込んでしまっていたのだろうか。

「ひょっとしたら、一度来たことがあるかもしれません……」

 リーチェは戸惑いながらも、そうつぶやいた。
 父親の仕事を見学しに来た帰りに王の庭に入り、リスを追いかけているうちに従者とはぐれてしまったのだ。
 今いる場所が分からなくなり、途方にくれて泣いていると見知らぬ少年に声をかけられた。



『……迷子か?』

『えっ……』

 彼女が顔を上げると、木の陰から少年が出てきた。
 背格好は彼女と同じくらいだろう。目元まで隠れる黒いマントを身につけている。
 その下から垣間見える衣装は仕立ての良いものだった。

『王宮に戻りたいのか? だったら、あっちに向かって行けば良い』

 ぶっきらぼうに、その少年はそう言って立ち去ろうとした。
 リーチェは目元をゴシゴシこすり、少年の背中に向かって声を上げる。

『あのっ! ありがとうっ!!』

 声の大きさに驚いてか、少年が彼女の方を振り返ろうとした瞬間──突風が吹き抜けた。
 その拍子に、少年のかぶっていたフードがめくれてしまう。
 リーチェはスカートの裾がはしたなくひるがえるのも気にならないくらい、その少年の相貌に目を奪われた。
 艶のある黒髪、神秘的なその紫の瞳に魅入られたように身動きができなくなる。
 風が止むと、その少年はハッとした様子でマントのフードをかぶった。耳が赤らんでいる。
 その様子に、リーチェは首をひねった。

『どうして隠しちゃうの? せっかく綺麗な顔をしているのに……』

『……綺麗なものか。目つきが鋭くて、生意気そうな顔つきだろう』

 確かに子供なのに、あどけなさはない。天性のものなのか相手を怖気付かせるような悪役めいたオーラがある。
 けれどリーチェはそんなに美しい顔立ちの少年を初めて見たので、子供心にすごいなぁと感心する気持ちの方が強かった。

『そんなことないよ! 顔を上げて皆に見せた方がいいよ』

 リーチェはそう力説したが、少年はゆるく首を振った。

『……昔から色んな人に顔が怖いと言われてきた。小動物だって、オレの顔を見ると怯えて逃げ出してしまうんだ』

『そんな人類がいるはずが……』

 そこまで生き物に嫌われる人間をリーチェは見たことがない。
 懐疑的なリーチェの反応に何を思ったか、少年は指で彼女が先ほどまでいた木をしめした。
 その木の根っこには、どんぐりを抱えたリスが二本足で立っている。
 少年がおもむろにフードを下げてリスを凝視すると、リスは凍りついたように動かなくなった。どんぐりをポトリと地面に落とし、心なしか小刻みに震えているようにすら見える動作をする。

(……え? まさか、リスが怯えているの?)

『……ほらな』

 自虐まじりにそう顔を歪めて言い、少年はフードをかぶろうとした。
 リーチェは胸がギュッと詰まるような気持ちになり、少年の元へ歩いていくと、そのまま勢いよく彼のフードをつかんで後ろに下げた。

『おいっ』

 少年は突然のリーチェの行動に声を荒らげた。
 リーチェは彼の顔を間近で凝視する。

『こわくない! おとうさんが怒ったときの方がよっぽど怖いよっ!』
 
 リーチェがそう言い張ると、少年の顔面はみるみるうちに紅潮していく。
 彼女は何かを思いついたように言う。

『そうだ! 笑えばもっと雰囲気が柔らかくなると思うよ』

『笑う……?』

 戸惑っている少年に、リーチェは手に持っていた愛読書を押し付けた。
 それは魔導書ばかり読んで引きこもりがちな娘を心配して、先日父親がプレゼントしてくれたものだ。『友達ができる本』。これには周囲との接し方や自身の表情の作り方などが事細かに書かれている。

『私は読み終わっちゃったから、あげるね』

『……あ、あぁ。あり……がとう』

 困惑しながらも、少年は受け取ってくれた。
 その時、王宮のある方角から聞き慣れた従者の声がした。

『お嬢様ぁ──! リーチェお嬢様、いらっしゃいませんか!!』

『あっ……捜しにきてくれたんだ。もう行くね。道を教えてくれて、ありがとう!』

 リーチェは少年に手を振って、従者の元へ駆けて行った。





「えっ……まさか、あの時の?」

 リーチェは目を見張って尋ねると、ハーベルは殊勝(しゅしょう)にうなずいた。
 あれから王宮に行く機会はなかったから、すっかり忘れてしまっていた。

「……リーチェはあの時のことを忘れてしまっていたようだが、俺はずっと覚えていた。言われた通り、きみとすれ違うことがあれば俺は満面の笑顔を向けるようにしていた」

(今まであくどい顔で笑っていたのは、そういう理由だったの!? ま、まさか、友好的な態度を示してくれていたなんて……)

 リーチェは彼を誤解していたことを申し訳なく感じた。
 しかし、ハーベルが作る笑みは朗らかな笑みとはほど遠く、たとえるなら獲物を前にした獣が口を開けて目をギラギラさせながら舐め回してくるような感覚にさせるものだった。
 恐らく、リーチェ以外の人も彼に近づいたらヤバいと感じていたはずだ。

「……ハーベル様は、ご自身の笑顔を鏡で確かめたことは?」

「毎朝しているが?」

「…………」

(それで、これなんだ……)

 リーチェは何とも言えない微妙な気持ちになった。
 いや、もちろん彼なりに頑張っているのだろうが……。

「見てくれ。俺の研究の成果を」

 ハーベルはそう言うと、リーチェに向かって不自然な笑顔を向けてきた。口の端が上がっているし、表情としては笑みのはずなのに──目が笑っていないせいか、とても怖い。
 寒気を覚えて、リーチェは腕をさすった。
 気付けば、ぽつぽつと雨が降り出している。ハーベルは自然な動作で己のまとっていた上着を脱ぎ、リーチェに羽織らせてくれた。

「あ、ありがとうございます……ヒッ」

 ハーベルの背後で雷光が走り、彼の笑顔がますます悪魔めいて見えていたのだ。

(さすがは『悪魔王子』……天候を操る設定も伊達じゃない……!)

 ハーベルは雨や雷が降らせる魔法を使えるわけじゃない。しかしゲームの補正力によって、彼の登場シーンでは不穏な天気になりやすいのだ。いわゆる雨男のようなものである。
 あまりにも気の毒に思えたので、リーチェはハーベルに笑顔の指南をしようと決意した。

「俺が自然な笑顔をできるようになったのも、きみのおかげだ。またリーチェに会いたいと思って、この本をいつも持ち歩いていた」

 ハーベルは懐から一冊の書籍を取り出して見せる。
 それは何度も読み返したのか、年月が経って端がボロボロになってしまっていた。

「ハーベル様……」

 リーチェは胸が切なさでいっぱいになる。
 自分があげた本をそんなに大事にしてくれていたことが嬉しかった。

(こんな展開、ゲームにはない……)

 けれど確かに彼女自身の記憶として、幼いハーベルと出会ったことを覚えていた。
 
(私が運命を変えたから?)

 本来なら、ありえなかったはずのルートが表れたのだろうか?

「ハーベル様、あの……私は……っ」

「リーチェ、愛している」

 つかまれた手から熱が伝わり、脈が速くなるのを感じる。
 不快ではないその感覚に当惑しながら、リーチェは頬を染めてうつむいた。