王太子は、私のふとももくらいまでの身長しかなかった。
 王太子は6歳の誕生日を迎えたばかり。
 私が彼のお世話係を申しつけられたのは、私が16の年だった。


 それまでの私は、のんべんだらりと暮らしていた。
 使用人がすこしいるくらいの、ぎりぎり貴族に名をつらねるくらいの田舎貴族の出身だ。
 14歳のころに、父から結婚相手を見つけてこいを尻をたたかれて王城に行儀見習いとしてやってきた。
 貴族の娘が王城で働く目的なんて、婚活以外にない。
 とはいえ、父の心労もスルーして、私自身は楽しくまいにちを過ごしていた。
 田舎は緑や畑はたくさんあってそれはそれで良かったけれど、年頃の娘にとっては流行りものとか気になったし、日々移り変わる城下町の光景や、異国のひとびとの格好、目新しいお菓子など、すべてが目新しく見えた。
 同じく王城つとめをしている同年代の女官たちと、まいにちのようにわいわいと働き、きびしくて、でも優しいところもある女官長から怒られる日々。
 家庭教師(カヴァネス)から教えられるのとは違う、生身の授業のような生活があった。

 たしかに騎士団のひとたちや、王に伺候(しこう)する側近たちは格好良く見えたけれど、自分にとっては雲の上のような世界だった。
 だから、なのかもしれない。
 私が王太子の侍女として抜擢されたのは。

 王族の侍女といえば、女官のなかでも花形のしごとだ。
 各国の有力者のまえにすがたを見せることも多いし、立ち振る舞いがきちんとできていなければならない。
 王太子付きなんて、通常、女官長クラスがなるものだ。
 もしくは、父親が大臣であるとか、強力なツテでもなければむずかしい。
 どうして私がなれたのだろう? そう考え出すと疑問しか生まれないが、ゆいいつ思いあたることといえば、私があまりにも草食系すぎて邪魔にならなかった、ということなのかもしれない。
 他の貴族出身の女官たちと違ってガツガツしてない、侍女に抜擢されたからといって父親がうるさく「王族を性的にしとめてこい。正妃とはいわないが愛人になれ」とかうるさく言うような家でもない、かといってさすがに王太子に庶民の侍女をつけるわけにもいかない……そして、ちょうどいいところにいたのが、私だっただけなのだろう。
 石をなげたら偶然ぶつかった。きっと、そのていどだ。

   ◇ ◆ ◇

 王子様はかわいい。
 なんといっても6歳だし。
 子供特有のまるみのあるほっぺとか、おとなには出せないさらさらの金髪の髪。
 がんばってイスに座っていても、床に足が届かない。
 それでいて、自分が王太子であるという自覚を持ちはじめたのか、「イスにすわれないぞ。ふみ台をもってまいれ」とか言うのである。
 そして、苦労しながら一段一段おおきく足をひらきながらふみ台をのぼって、イスに座ってこちらにむかって褒めてほしそうなきらきらした表情で「どやっ」とした顔をする。
 正直、鼻血を禁じ得ない。
「よくできましたね~かわいいでちゅよ~」と親バカならぬ侍女バカになって親戚の子供にするように頬ずりしたい衝動をこらえ、「お見事でございます」と、深く腰をおって表情を隠す。
 そこは王太子。お互いのあいだには身分差がある。
 気持ちのままに行動してしまっては、わりとマジで不敬罪で投獄されてしまう。
 私はまいにち王太子の行動にしぶい顔(だらしがなくなってしまう表情を隠すために下唇を咬んで耐えながらやりすごす)をして、過ごしていた。
 きっと傍目からみれば愛想のかけらもない、王太子の行動に厳しい目を向ける侍女に見えただろう。



 しかし、私は王太子になつかれていた。
 その日の午後のティータイムの場所は、東の庭園だった。有名な園芸家につくらせたというその場所は、四季折々の花が楽しめる造りになっている。
 特に、王太子のお気に入りはそのなかの一角にある薔薇園だった。
 屋根がある休憩所のベンチに王太子が腰かけ、衛兵や他の侍女たちは離れたーーけれど、見える場所に下がっている。
 いつものことだ。王太子はティータイムのとき、私以外のものをすこし遠ざける。
 なぜだか、今日の王太子の表情はすぐれない。
 私は無言で、彼のティーカップに飴色の紅茶をそそいだ。
 王太子はひとくち紅茶をすすり、ため息をこぼした。

「ミリシャ……」

「はい」

 王子が私の名を呼ぶ。

「婚約者ができそうだ」

 そのことばに、私の時間が一瞬、止まった。
 ただ、言葉の内容を理解するのに時間がかかっただけだ。
 そして、私は「ああ……」と納得して両手を打った。

「そうだったのですね」

 王子ともなれば、幼少期から婚約者がいるのはふつうのことだ。場合によっては、生まれたばかりの子でも婚約者をつけることもある。
 王太子はしぶい顔をしていた。

「わたしも、もう7歳になるからって……父上が」

「感慨深いですねぇ」

 私はこの1年のあいだ王太子に仕えてきた幸せな記憶を思いかえして、ほうとため息を落とした。
 王子の婚約者。どんな子だろう。

「お相手は、どなたなのです?」

「シェリー侯爵の長女だ」

「ああ」

 王族の血を引く家系であるシェリー侯爵。
 とてもかわいい金髪碧眼の子だと有名だ。
 王太子と彼女がふたりで並んだら、お人形さんのように見えるに違いない。
 私は下唇を咬みしめ、鼻血が出そうになったので己の鼻をつまんで、妄想をやりすごした。
 私の苦しみの表情を見てなにを思ったか、王太子の表情がぱっと明るくなる。

「やはり、お前も反対か?」

「え……」

 困惑をおぼえながら、彼を見つめた。
 私はスカートの端をつまんで、おじきをした。

「い、いえ……私のような者が差し出がましい口をはさむ余地はありません。どうぞ、お心のままに」

 沈黙がおちる。
 いつもだったら、王子がすぐに何か声をかけてくるのに、それもなく、私は何十秒も頭を下げていた。
 さすがに不安を感じ、不敬かもしれないとおそれつつも顔をすこしあげる。
 そのときの王太子の表情は、見たことがないものだった。
 顔をまっかにさせて、目には涙をためている。衣装のズボンをにぎりしめる拳は、指先まで白く血が引けていた。

「おう、じ……」

 彼の青い瞳が、私のほうに向けられる。いつもそのきれいな色にうっとりしていたのに、今日ばかりは、なぜかにごって見える。

「よく、わかった。なら、好きにする」

 その年の頃にしては、おとなびた態度をみせる少年だったけれど、彼の立場がそうさせるのだと思っていた。
 それでもまだ子供らしさを感じていたのに、そのとき初めて、なんだか遠いものになったような気がした。



 王太子は、シェリー侯爵の娘との婚約を破談にしたらしい。
 まだ打診の段階だったから、それほどおおごとにならずに済んだ。とはいえ、どうして王太子が拒否したのかという噂話は、社交界のなかでひろがっていく。
 王太子筆頭侍女である私にも、何人もの女官仲間から理由をたずねられたが、理由なんて答えられるはずがない。
 そもそも、はっきりとした理由なんて、私にもわかっていないのだ。

   ◇ ◆ ◇

 その翌朝、私は王太子の寝室をノックした。
 そっと扉をあけて、奥にあるカーテンを開けると窓から朝日が差し込む。
 それに目を細めて、モーニングティーが乗ったワゴンを押して王子が眠っている寝台までよった。

「王子様、おはようございます」

 声をかけると、もぞもぞと、ふとんが動いた。

「んー……」

「お目覚めくださいませ」

「もうちょっと」

 仕方なく掛け布をすこし引っ張ると、王太子の顔が出てきた。まるで天使のような顔だ。

「……キスしてくれたら、起きれる」

 王太子は上目づかいでそう言った。
 どうしたんだろう。いままでそんな態度したことなかったのに。
 急に子供かえりしたような王子に戸惑いを覚えながら、私は下唇を咬んだ。
 やはり、可愛すぎる。

「だめ? してくれたら、今日いちにち、がんばる」

 まだ、いとけない子供なのだ。それなのに、その身分の重さにうめいている。
 両親とも気軽に会える関係でもないし、幼い子供なのに愛情に飢えているのだろう。
 そう思うと、胸のなかをぎゅっと締め付けられるような気がした。

「……わかりました」

 私は王子のさらさらした前髪をわけて、その額に口づけした。
 彼の表情が輝いた。

「もっと。ほっぺにも」

「……はい」

 言いなりである。

   ◇ ◆ ◇

 私は草食系とはいえ、父親から命じられた婚活の話を忘れていたわけではない。
 王太子の侍女になってますます仕事は忙しくなってはいたが、父親からの手紙でたまにハッと自分のやるべきことを思い出すこともあった。
 しかしながら恋。
 そもそも恋ってなんだ? 愛との違いは? とか、ポエミーなことを考えて、羽ペンにインクをつけて文章におこしながら「いったいどうしたらいいんだ?」と悩んでみたりもしたけれど、いっこうに解決策が見えないのである。
 そもそも貴族の結婚なんて家同士の結びつきなわけだし、結婚してから考えればいいのでは? という意見もあるだろうけれど、下級貴族だとそこまで貴族的な考えもなくて、うちの父親は私の結婚に半分期待しつつも「俺の代で終わってもいいから、てきとうな男をひっかけて結婚しなさい」という、ゆるい方針なのだ。
 他の女官仲間のようにあこがれている騎士様に恋文を送るなんていうアグレッシブさもなく、そもそもそんな相手もいないぞ、という、モテない女まるだしの自分はどうしたらいいのだろう?

 貴族の娘なら十代後半にもなれば社交界に出てまいにちパーティざんまいするところなのかもしれないが、私は王城に出仕している身。
 どちらかといえば、そのパーティの裏方で皿とか料理とかをバンバン運んでいる係なのである。まあ、私の場合は王太子付きなので、彼の身のまわりのお世話が主なのだけれども。
 だから王太子が出る華やかなパーティにはよく裏方として顔を出すものの、私に声をかけてくるようなナンパ男はいないのである。

 あれ? おかしいな? でも、他の女官仲間たちは、そういうパーティでこっそり男性から手紙をもらったり声をかけられることもあると言っていたけれど……。私は、一回もないんだけど。あれ? あれれ? 泣いてもいいかな?
 やはり、さすがに王太子の側にひかえている侍女には、みんな声をかけづらいのか。それとも、私の見た目が残念すぎるのか……そこまでひどい見た目とは思っていなかったんだけど、あまり深く考えたくないところだ。
 私も20歳になり、ややあせっていた。この国では、女は18くらいまでに結婚するものなのである。いよいよ、まずくなってきた。

   ◇ ◆ ◇

 王太子の生誕10年のパーティの仕事中、それは起きた。
 王太子お気に入りのアップルティーを運ぶために厨房に足を向けたときに、声をかけられたのだ。

「きみは、王太子の侍女?」

「はい」

 廊下でふりかえると、そこには仕立てのよい衣装に身をつつんだ青年がいた。
 その顔に見覚えがあり、私は腰を折った。

「レンビス伯爵家のご子息……ユーリス様とお見受けいたします。私にどういったご用でしょうか?」

「ああ、きみは王太子のお気に入りらしいね?」

 ユーリスが近づいてくると、むわんと酒のにおいがただよってきた。よく見ると、この青年、かなり酔っている。

「大丈夫ですか? お水を、お持ちしましょうか?」

 私が近くにいた別の女官に水を持ってきてもらうようお願いしようとすると、ユーリスは首を振った。

「いや、いいんだ。それより、どこかに休めるところはないかな?」

「なら、他の者を呼んで……」

「時間がかかる。きみがいい」

 私はしばし、逡巡した。
 私は王太子の侍女なのだから、なにより王太子の命令を優先しなければならない。
 けれど、休憩できる部屋はそんなに遠い場所じゃないし、今回のパーティは王家主催のものでユーリスは招待客という立場なのだから、彼に失礼をするわけにもいかない。
 すこしくらいなら遅くなってもいいか、と私はうなずいた。

「ご案内いたします」

 まさかその判断を悔いることになるとは、思いもせずに。



 ユーリスに肩を貸しながら、奥の休憩室に向かった。
 他の休憩室はひとが多かったから、「できるだけ静かなところに行きたい。頭がガンガンするんだ」とユーリスに言われて、奥まった場所にある部屋までやってきたのだ。
 ユーリスの歩みが遅く、時間がかかってしまった。
 私は王太子を待たせていることにあせりを覚えつつ、「水を持ってこさせます」と彼に言って、その部屋を出ようとした。
 そのとき、腕をつかまれて、ソファーに引きずりこまれた。

「え」

「ああ、やっぱり可愛いなあ。きみを手放せない王子の気持ちがわかるよ」

「あのちょっと……」

 まさか、のしかかられるとは思ってなかった。酒臭い息が顔にかかる。
 コルセットの上から胸をまさぐられ、悪寒が走った。

「あ、あの……ユーリス様?」

 こんな展開は初めてで、さすがに私もびっくりしている。どうやって抵抗したらいいのか、わからないほどには。
 そのとき、扉がおおきく音をたてて開いた。
 そこに立っていたのは、怖い表情をした王太子だった。

「貴様……わたしの侍女に何を?」

「ひっ」

 ユーリスは酔いがすっかりさめたのか、哀れになるほど蒼白になって、私から飛び退いた。
 王子がそばにいた兵士に命じて、ユーリスをどこかに運ばせて言った。そのあいだずっと、ユーリスは「申し訳ありません……申し訳ありません……っ」と謝罪していた。
 扉が閉まる直前、「王太子の侍女には近づいたら駄目だと命じられていたのに、つい魔がさして……っ」と、ユーリスの言葉が聞こえた。
 ん?
 いま何か、不穏な言葉が聞こえたような……。
 王太子が怖い表情で見つめてくるので、私は手早くめくれたスカートを直して、立ち上がった。

「お目汚しをしてしまい、申し訳ありません……」

「確かに目に毒でした」

 返すことばもない。
 王太子はゆっくりと近づいてくる。
 私はお茶を運ぶのを命じられていたというのに、遅くなってしまったという負い目もあり、視線を伏せる。

「それとも、期待していた? もっと、あの男になにかされたいって」

「そんな……」

 というか、なぜ責められている調子なんだろう。
 ふいに、彼が抱きついてきた。
 10歳になった少年は、私の胸くらいまで身長だ。私の目線からは、彼の金色の髪のてっぺんが見える。つむじの位置まで。

「あの男、ぜったいに許さない……」

「どうか、穏便に」

 取り返しがつかないところまでいっていたら、さすがに私も許せなかっただろうが、ぎりぎり平手打ちくらいで許せる範囲だった。

「あなたは、あの男に好き勝手にされそうになったんですよ?」

 ぎろりと睨まれ、私は言葉を失う。
 先ほどの衝撃がぬけ切れていないこともあったし、王子に抱きつかれて「可愛いなぁ」と、ときめいていたのもあった。
 そして、王子もそういうのがわかる年頃になったんだ~という感心めいた気持ちも生まれていた。
 心が見透かされたのか、王子が前より険しい顔で睨んでくる。

「わたしは、悔しいです」

 ぐいっと押され、背後にあったソファーに倒れ込む。
 え? なにこの状況。
 1日に2回も押し倒されるなんて、レアだ。
 王太子はどこかせっぱ詰まった表情で、「キスしてください」と言った。

「え……」

「今日いちにち頑張れますから」

「今朝もしましたが……」

 そう、最初におねだりされた日から、もう毎日の日課のようになっている。
 しないとすねるし、他の者にやつあたりするのだ。

「いま、すぐに」

 そう言われて、私は深く息を吐いて、彼の頬に手を這わせた。

「お顔を、近づけてください」

 下にいる私からは、顔をあげるのが大変だ。王太子がそっと顔を近づけてきて、こちらをじっと睨んでくる。
 互いの息もかかりそうなほど近い距離だ。
 それにしても、あまり見るのは止めてくれないか。
 やりにくさを感じながら、私は王太子の頬に口づけた。
 彼は深く息を落として、倒れこむように私に抱きついてきた。
 心地よい重みと体温が、身体にかかる。

「……王子?」

「好きな女性に、異性として意識してもらえないつらさを語りましょうか?」

「え?」

「……何でもないです」

 王子はやさぐれた目をして、私の上から離れていった。

「早急に手を打たねば……。影でいろいろ手を尽くしているのに、ああして網の目をくぐってくる男がいるようでは」

 彼は、ぶつぶつとつぶやいていた。

   ◇ ◆ ◇

 それから、王太子は私を婚約者として指名した。
 仰天した。
 王に呼ばれて、事情を話すことになった。
 周囲の視線を痛いほど感じながら、王の執務室に入る。
 王は書類から顔をあげて、私を見つめた。

「お前のことを、王太子はいたく気に入っているらしい」

「……恐れ多いことでございます」

 はたからみれば、王子に取り入った下級貴族の女にしか見えていないだろう。
 私は王の前で、針のむしろになったような気分だった。

「……お前は、王妃を望んでいるのか?」

 王の重い言葉に、私は目をまばたかせた。
 そして、ゆっくりと首を振る。

「いいえ。私には、とても務まりません」

 そう思っているのは事実だ。
 王の妃になるような娘は、幼少期から相応の教育を受けた身分の釣り合う女性だろう。
 もしかしたら、王太子はいちばん身近にいた存在として、私を意識してくれているのかもしれない。
 けれど、子供のときの初恋なんて、ずっと続くものではない。いっときの熱情であって、流行り病みたいなものだというではないか。
 数日、寝込めば、忘れるほどの。

「私の王太子への愛は、そんなものではありません」

 誰よりもそばにいて、彼をいとおしく思い、その成長を見届けてきたからこそ、私は王子のものにならない。
 王子が私を抱きたいというなら、身体を差し出すこともやぶさかではないけれど、そういう問題ではないのだ。
 いっときの熱病で失ってもいいと思えるほどの存在なら、もうとっくに。

「ずっとお仕えしたいと思っています。彼が妃をめとり、己の子を抱いて、この国をもっと豊かにしていくまで」

 暗に、それ相応の身分の娘が妃になるのが良いと伝える。だから、己はそんな存在にはならないと。
 国王は顎ひげを撫でながら、しばらく考えるような表情をした。
 国王は、ふっと微笑む。

「こういうのは、なかなか難しいものだ。お前は妃になれなくても、王子のそばにいる覚悟はあるのか?」

 私はもう20歳で、王子はまだ10歳。
 この国の男性が結婚できる年齢は、16歳からだ。
 あと、6年。
 もしも、あと6年待てば、私は26歳になるだろう。
 どこかの貴族の後妻としても、嫌がられる年だ。
 お父様、ごめんなさい。

「女の華の時間は短い。王子と婚約すれば、たとえ途中で婚約が破談になったとしても、お前の体面を保てるだろう」

 王は私の立場もおもんぱかって、そう言ってくれたのだろう。

「私は王子の(きず)にはなりません。王子の執着があと6年も続くか、わかりませんし」

 下級貴族の娘と婚約していたという過去など、ないほうがいい。
 一種の熱病なら、なおさら。
 国王は深くため息を落とした。

「……何だか、奴がちょっと哀れに思えてきた」

 ちいさくささやいたあと、国王は言った。

「すべての愛が、恋から始まるわけではない」

 それが独白なのか忠告なのか、私にはわからない。

   ◇ ◆ ◇

 王が同意しなかったおかげで、私は王子の婚約者にならずにすんだ。王子はむすっとして、私に詰め寄ったり、裏でいろんなことをしていたようだが、別の婚約者をつけるようなことはしなかった。
 私はずっと王子に仕えてきた。
 16歳から10年。
 あっという間だった。
 私は女官長にまでのぼりつめ、新人教育もするようになっていた。
 明日は、王子の16歳の生誕のパーティが華々しく行われる。
 私はもうじき、王子の侍女に優秀な娘をつけて、暇乞(いとまご)いをするつもりでいた。
 王子にふさわしい娘の話がでても王子が突っぱねてしまう。このままでは、いつまでたってもシスコン(なのか……?)のような感情が抜けない。
 私も仕事人間としてやってきたから、貯金もかなりあって、しばらく田舎で悠々と暮らせそうな余裕はある。
 遠くで、王子の成長を見守っていこう。
 そんな、気持ちだった。



 王子のパーティはすばらしかった。
 私なんて、ハンカチが手放せないほどだった。

「あんなちいさかった子が、こんなに、おおきくなって……」

 そのつぶやきをたまたま近くで聞いていた国王が、何とも言えない表情をしていた。

「おい、ミリシャ。いいのか」

「? どういうことですか?」

 パーティも終わり、ひとびとは気ままに、ゆったりとダンスなどをして過ごしていた。
 国王も退席しようとしていたときのことだ。

「あいつがやってくる」

「え……」

 国王にうながされ、視線をむけると、ダンスホールから険しい顔をした王太子が近づいてきていた。
 なぜ、あんなに不穏な表情をしているのだろう?
 笑顔で怒るなんて、そんな腹黒い芸当は教えたことはありません。
 国王が困ったような表情で、頬をかいた。

「じつは、お前が辞表を出したことを聞きつけたらしい。っていうか、俺が教えたんだけど」

「え」

 こっそり行動していたのに、もうバレたとは。

「逃げろ。……逃げるなら死ぬまで逃げ続けることだ。それが無理なら、さっさと諦めろ」

 その忠言が私の耳に入った直後、王太子が私の腕をつかんだ。

「父上、ミリシャとどんな会話をしていたのです?」

「父親に()くな。バカ息子」

 国王が軽口をたたく。
 王太子は不快そうに顔をしかめて、私を引っ張っていった。
 彼はどんどん廊下を先にすすんでいく。このままでは、王子の寝室にたどりついてしまいそうだ。

「ちょ、ちょっと……王子!?」

「もう待てませんから。大人しく降参してください」

 その熱をおびた瞳をみた瞬間、もう駄目だと思った。
 いつの間にか、私をつかむ手は、私よりもずっとおおきくなってしまっている。
 目線だって私よりずっと高い。
 もう大人の男性なのだ。
 私が、ずっと彼に子供の幻影を見続けてきただけ。
 そして私は、彼の手を振り払うことはできない。



 好きってなに?
 愛ってなに?
 もしかしたら、これからの長い人生のなかで、そんな質問は陳腐に思えるのかもしれない。
 けれど、これだけは言える。
 私の人生で、何かひとつだけ『真実』と言えるものがあるとしたら、彼だ、と。