ここに移住して以降、ヘレナは再三再四『お嬢様と呼ぶのはもう止めて欲しい』とレイに伝えていた。けれど、ヘレナに負けず劣らずレイも頑固な性質だ。

『お嬢様はお嬢様ですから』

 と言って、頑なにヘレナの名前を呼ぼうとしない。


(わたしはもう、お嬢様じゃ無いんだけどなぁ)


 ヘレナはレイと同じ平民な上、正式には雇用関係を結んでいない。完全に対等な関係の筈だ。


(……レイにはまだ受け入れられないのかもしれないけど)


 ヘレナはこれから平民として生きて行く。元の地位に戻ることは無いだろう。ならば、平民として生きていく力を身に付けるべきだとヘレナは思っていた。

 だからこそ、ヘレナは二人の間に存在する見えない壁を乗り越えたい。けれど、レイはヘレナが壁を乗り越えようとする度に、境界線を新しく引き直してしまう。そのことが、ヘレナはとてももどかしかった。


「今ぐらい、名前で呼んでよ。ね、良いでしょう?」


 ヘレナは朗らかに微笑みつつ、レイのことを真っ直ぐに見つめる。袖を軽く引っ張ると、レイはグッと唇を引き結んだ。


「……本当に良いのですか?」