芽衣里はメンタルクリニックのドアを開け、外に出た。途端に重たい熱気が足元から立ち昇る。
芽衣里は愛用している日傘を広げてバッグを持ち直した。オレンジブラウンに染めた背中までの髪をまとめてはいたが、どうしたってこの気温では気休めにしかならない。

首を流れる汗のうっとうしさに、芽衣里はバッグからハンカチを取りだして拭った。水色の、小花が散らされた薄手のハンカチは退院祝いにとうーちゃん──小袖羽海(こそでうみ)が送ってくれたものだ。

「芽衣里ちゃん、これ授業でとったノートなんだけど、良かったら…」

羽海は何度もお見舞いに来ては、そう言って大学の授業で何をしたかを説明して、芽衣里にノートを見せてくれた。整った字で綴られた、かつ分かりやすいノートを、芽衣里は大急ぎで写真に残し、羽海に返した。

高橋明日香と鈴村和泉も見舞いにやってきては、芽衣里の無事を喜んだり、犯人への憤りを語った。もちろんそれだけではなく、大学のお知らせやインターンシップなどの話題も絶えなかった。

「そういや凌さんは来てないの?」

何度目かの見舞いの時だった。明日香の言葉に芽衣里はあぁ、ともはぁ、ともつかないため息をついた。

「全然…連絡しても返ってこないし、どこで何してんだか」

そう言って芽衣里は包帯の取れた頭をかく。和泉は撫然とした顔で、ありえない、と吐き捨てた。

「彼女の一大事に? 連絡も無視?」

「入院した時に事情は説明したよ」

「でもそれっきりでしょ?」

「連絡すると既読にはなるんだよ…退院の日は言っておいたし、後はもう知らない」

「…ちょっと飲みもの買ってくるわ、二人は何か飲む?」

明日香が場の空気を変えようと立ち上がるが、それと同時に病室のドアがノックされた。芽衣里がどうぞと返す前に、明るくてのん気な声が響いた。

「ちわ〜、ウーバーイー○でーす」

「…間に合ってます」

明日香が苦笑してドアを開ける。そこには髪を金に染めた青年が立っていた。根本が黒くなり始めているが、気にしてはなさそうだった。

「兄ちゃん、いらっしゃい」

(めぐる)さん、こんにちは」

「お久しぶりです、廻さん」

三者三様の挨拶に廻は「どーも」と笑った。腕に抱えている大荷物が無ければ、単なる見舞いだと三人とも思ったかもしれない。背中にはバックパック、右腕にはコンビニの袋、左腕にはボストンバッグ、そして両手に抱えているのは果物の詰め合わせだ。他人が見たら何事かと思うだろう。

よくノックできたな、と芽衣里が感心していると、見舞い客用のテーブルに全ての荷物をどかりと置いた。───よく見るとりんごやオレンジの他にメロンまである。

「飲みもの買って来たから好きなのどーぞ! 芽衣里、母さんからこれ着替え、それとお見舞いの果物!」

廻は言いたいだけ言うと、あーもう暑かった、と額や鼻の下を手の甲で拭い、背負っていたバックパックをソファに下ろした。

明日香と和泉は「ありがとうございます」「お疲れ様です」と頭を下げて、ペットボトルを取り出している。明日香の「芽衣里、何が良い?」という声に、芽衣里は「無糖の紅茶ってある?」と返した。

「芽衣里、大学からこれ、カウンセリングのパンフレット」

明日香から飲みものを受け取った芽衣里は手を止め、カウンセリングかぁ、と気乗りしていない声と共にペットボトルを脇にずらした。廻がバックパックから取り出した書類やパンフレットをベッドテーブルに置いたのを見て、何ともないのに、と不満そうにパンフレットをぱらぱらとめくった。

「行っといたほうがいいって」と、和泉が忠告した。
「そうだよ、自分でも知らないうちにストレスになってたりするんだから」と、明日香が続く。
「予約はもう取ってあるぞ」と、廻はあっさりと芽衣里の退路を絶った。

「ちょっと兄ちゃん!」

「父さんと母さんが言ってたよ、芽衣里はちゃんとやらないから、やらなきゃならないようにしろって」

「本当に平気なのに…」

ぶつぶつと文句を言う芽衣里に味方する者は、誰もいなかった。