「ニコル――――僕は君とは結婚できない」

「……え?」


 突拍子もない言葉に耳を疑う。
 いや、耳だけじゃなく、目までおかしくなってしまったのだろうか? 婚約者であるネイサンは、クラスメイトである伯爵令嬢サブリナを後ろから抱きすくめ、切なげに頬ずりをしている。


「まさかとは思いますが、そちらの御令嬢と結婚するから、わたしとは結婚できないとでも?」

「その通りだ」


 考える間もなく即答されてしまった。悪びれる素振りすら全くない。正直愕然としてしまう。


(嘘でしょう……?)


 この世に生を受けた瞬間から、わたしはネイサンの妃になるべく育てられた。将軍であるわたしの父とネイサンの父親である国王陛下が、『互いの子を結婚させよう』なんていう約束を交わしたからだ。

 家族は皆豪胆かつ熱血系。自由奔放な兄三人に囲まれながらお淑やかな妃を目指すことは、半ば拷問に近い。
 それでも、六年前に正式に婚約を結び、今日まで必死に努力を重ねてきた。それなのに、こんな風に婚約破棄されるなんて。


「申し訳ございません、ニコル様! わたくしがっ! わたくしが全て悪いのです! わたくしが殿下を愛してしまったから」


 芝居でも見せられているのかな? って尋ねたくなるような悲痛めいた叫び声。大袈裟に顔を覆うそのしぐさに、イライラがさらに募っていく。


「ああ、違うよサブリナ! 君は何も悪くない。いや……君の愛らしさは罪だ。けれど、もっと早く――――ニコルよりも先に君に出会えていたら、僕は間違えなかった。最初から君を選んでいたのに」

(は?)


 一体なにを言っているの? 『僕は間違えなかった』? 
 じゃあ何? ネイサンはわたしが悪いと言いたいわけ? これまで必死に頑張って来たわたしは、彼にとって邪魔者でしかないと、そう言いたいのかしら?


「殿下! わたくしも、もっと早くに貴方にお会いしたかった。そうすれば、間違いなくわたくしを選んでいただけた! 誰ひとり傷つくことなく、幸せで居られましたのに」


 サブリナの潤んだ瞳が『さっさと身を引け』と訴えている。これじゃまるであちらが被害者で、わたしの方が加害者だ。さすがは妖精姫の異名を持つサブリナ嬢。庇護欲を擽るのがとても上手い。だけど、男って言うのはこういう無垢を気取った女が好きなんだろうなぁとも思う。


(何よ……負けるもんですか)


 大きく息を吸い込みながら、わたしはギュッと拳を握った。


「殿下――――このこと、陛下には報告をなさったのですか? わたしとの婚約を勝手に破棄できると、本気でお思いなのですか?」

「それは……」

「陛下はきっと、わたくし達のことを認めてくださいますわ」


 言い淀んだネイサンの代わりに、サブリナはずいと身を乗り出す。


「お優しい方ですもの。きっと真実の愛に涙し、喜んでくださると思います」

「真実の愛に涙し? ふふっ、わたし達が平民だったら、百歩譲ってそういうこともあったかもしれないわね? だけど王族の婚姻は重いの。こんな簡単に破棄出来るようなものじゃないわ」


 いや、正直言って身分に関係なく、浮気している時点で最低最悪だし、真実の愛とかちゃんちゃらおかしい。そもそも話が通じる相手じゃないようだから、言及した所で意味がないけど。


「大体、わたしが質問をしたのは殿下に対してであって、あなたじゃない。勝手に答えないで頂戴」

「止めろよ、ニコル。サブリナが怖がっているだろう? 君とは違って繊細な女性なのだから」

「繊細? 冗談でしょう?」


 婚約者の居る人間に近付き手を出す女のどこが『繊細で無垢な妖精姫』なのよ。か弱いふり、可憐な振り、人畜無害な振りが上手いだけじゃない。図太くてあざといの間違いだと思うわ。


「殿下……わたくし、わたくし…………」

「サブリナ、泣かないで。僕が付いている。大丈夫だ。父上のことは僕が何とかするし、誰が何と言おうと、僕の妃は君だ」


 ああ、そうですか。
 ネイサンの中では悪いのはどこまでもわたしで、自分達は被害者ってことなんだろう。謝罪の一言もないし、ものすごく腹が立つ。


(それなのに、どうして? どうしてわたしはこんな男のことを好きなんだろう?)


 そりゃあ相手は婚約者だし――――婚約者だったのだし。幼い頃から一緒に居て、好きになるよう努力もしてきたわけで。悲しくなって当然なのかもしれない。


「殿下……ネイサン、本当にその子が良いの? わたしじゃダメなの?」


 だけど、こんなに苦しくならなくたって良いじゃない? こんな男のために、涙なんて流すべきじゃないでしょう?


「そうだよ、ニコル」


 それなのに、返ってきた言葉は残酷そのもの。もうダメなんだって。頑張っても意味が無いんだって思い知るには十分だった。